「秋山はあれほど偉い傑出した男であったが、日本海海戦をクライマックスとして、晩年は下り坂になった」と評する人がある。秋山真之将軍の晩年は、部内の人にとっては或いはそうであったかも知れないし、そう観られる事が普通であったかもしれない。軍務局長時代でもそう華やかであったとはいえない。しかし将軍に接近し、将軍と共に大事を為しつつあった部外の人たちの眼孔には、将軍の偉大さが益々はっきりと映ったのである。部内の人たちが普通「下り坂になった」というその晩年、将軍は「日本の海軍の事はもうこれで宜しい、これからは支那問題、大亜細亜州の問題だ」と眼を近東極東の大天地に向かって放っていた。
将軍は偸閑安逸を貪る士ではなく、常に奔馬空を行くが如き、あるいは活火山的活動の人だった。大正二年頃の将軍が塚原嘉一郎氏に宛てた書翰の一節に
(前略)先日不図森恪君に面会致候処同氏も不相変活動致し居られ為邦家無此上事に御座候。対支問題に就ては小生も昨今大分奔走致居候。其内何とか目鼻を附ける心組に御座候。
というのがある。また軍艦音羽の艦長として南清警備中、山屋大佐(現大将)に宛てた書翰の一節を見ても、既にこの当時から支那に対する将軍の関心は相当深きものがあった事が窺われる。
却説南清警備は少尉以来小弟已(すで)に参度の勤務に候へ共今回程愉快を感じたるものは無之長江は勿論南部一帯の諸要地大抵残す処なく巡航致し船頭としても又支那巡艦としても中々に啓発会得したる処不少実以感喜の至に御座候。特に小弟の驚きたるは南清殊に長江筋に於ける我邦人の顕著なる発展と其趨勢にて爰(ここ)に一適例を挙げれば上海に於ける邦人男女一萬有余漢口は壱千四五百素より其内には数ならぬ族も不少候へ共兎に角在留外国人の過半数を占め其勢力も中々に旺盛に候へば他外国人よりは近来嫉妬を過ぎて恐怖の眼を以て注目せられ居る実情にて最早居留民と申すよりは土着の日本殖民と謂ふ方適当なるべく蕎麦屋もあれば豆腐屋もあり下駄屋の向ひには三味線屋あり鰌鍋スキ焼御注文次第其他推して知るべく如斯きは小弟が此六年前来りたる時に比すれば全然新世界の如くに御座候。従て彼等を保護声援すべき警備艦隊も到底目下の第三艦隊にては不足勝に候へば少なくも尚巡洋艦壱隻河用砲艦弐隻増遣の必要を確認致候。乍去本年度の如き世智辛き予算にては智者でも勇者でも行政上の余裕なくて到底無き袖は振れ申間敷に付せめて来年度より何とか工夫して南清警備の兵力を増加あらん事不堪切望候。
八月二十六日
また将軍と親交のあった芳川寛治伯は次のようにいっている。
私は秋山真之将軍と犬塚信太郎君と三人極めて仲の好い間柄で、屡々鳥鷺を戦わしたり会飲したりした。偶々欧州大戦勃発に際しては秋山将軍は海軍省軍務局長で、私は三井物産の時局掛参謀をしていたから、三人は毎日のように集まって時局の成り行きを談じあっていた。時としてこれに田中義一、福田雅太郎の両将軍が加わることもあった。
一日秋山、犬塚両君と三人で三十間堀の新田中に会したとき将軍は私に向かい「誰か金を出してくれる者はいないか」と言うので、その理由を尋ねた処「今の内に支那と固い握手をして置かなければ大戦終了後に困る事になる。換言すれば我国に反対する袁世凱を倒し、我国に好意を持つ南方を援助し、攻守同盟と経済同盟を結ぶのだ」という事であった。これは私の親譲りの外交方針だったので私は直ちに賛成した。この問題は大正五年三月八日、我政府の閣議にも上った。私は秋山君の口継ぎで田中、福田両将軍から「国家のため是非に」と頼まれ、唐継堯や岑春■[火ヘンに宣]の南方軍務院を援助し、同時に犬塚君、久原房之助君も孫逸仙その他を援助したのであった。
袁世凱は死んだが、英国の講義から日本の外交は漸時軟弱追従外交と化し、内政不干渉を声明するに至り、遂に今日に於いては満州事変、上海事変の勃発となった。秋山将軍は予めこの事があるを憂いて種々画策したのであったが、この意味に於いて秋山将軍が当時投げた一石は実に貴重なものであった。今これを思いて感慨に堪えないのは、秋山将軍が単に海軍の俊髦(しゅんぼう)であったのみならず、実に憂国の大政治家であったと思う事である。
更にまた当時将軍の知遇を得、将軍と共に事を図り東奔西走した一人である山田純三郎氏は当時の将軍の活動に就いて次の様な話をした。これによって将軍の晩年が決して一部の人がいうが如き「下り坂」でなく、却って大局のために大飛躍を試みていたことがはっきりと証明されるであろう。
私が(山田氏)秋山将軍を知ったのは明治四十年頃、上海でお目にかかったのが最初であった。将軍はいつも大きな鏡を頭の中に持っていられる人だと思った。初対面の者であっても、将軍は「これはこうした男だ」という事がちゃんと判ったようだった。
孫文がアメリカから帰って、広東の恵州で騒乱を惹起したのは明治三十三年で、その恵州戦乱の時に私の兄は死んだ。
それから南京の革命で孫文が袁世凱と妥協し仮大総統となり、日本にお礼の為に来ていた留守中孫の頼みとしていた宋教仁が袁世凱の刺客の為に殺され、遂に袁世凱と絶縁して、大正二年(民国二年)李烈釣は江西省の九江で、陳其美は上海で同時に革命の旗揚げをしたが、袁世凱の為に叩き潰された。これが所謂第二革命であって、孫文初め李烈釣、陳其美、胡漢民、戴天仇、蒋介石等は皆日本に亡命し、渋谷の頭山満翁の世話でその隣に家を借り受け、中華革命党を組織した。その頃秋山将軍は軍務局長だった。それまでは支那に就いては常に注意していられたが、「支那の革命を何うしよう」という考えもなく話もなかった。将軍が革命を援助しようという事になったのは、孫文等が第二革命で失敗し日本に亡命したその頃からだった。
私は満鉄社員であった。満鉄の理事に犬塚信太郎とうい人がいた。この人は南京の第一革命当時から革命党に同情し好意を持っていた。私が満鉄社員でありながら、自由に革命を手伝うことが出来たのはこの犬塚氏のおかげであった。犬塚氏と秋山将軍は大変親しかった。明治二十五年頃、この二人はシンガポールで初めて出会った。一方は海軍少尉、一方は三井物産の店員だった。その後互いに消息を絶っていたが明治四十五年、秋山将軍は第一艦隊参謀長、犬塚氏は満鉄の重役の時、塚原嘉一郎氏の紹介で再び二人は会見して、大いに支那問題に就いて語り合い、忽ち十年の知己の如くなった。もう一人当時の外務省政務局長であった小池張造という人がいて、この三人がいろいろ支那の事を心配した。
その頃革命党の一員であった寧夢巌というのが、満州やチチハルや黒龍江付近は張作霖に背いて革命党に組みするらしいからここで挙兵してはどうだろうかというようなことを言って、日本に連絡をとりに来た。孫文からそういう話が我々にあったので、私は犬塚氏と小池氏に相談した。二人は「兎に角行ってみろ」といった。
「もし寧夢巌がいう通り、その地方の者が張作霖に反旗を翻すというならば、吉林まで黒龍軍とチチハルの軍隊を入れろ、そうすればそこで金でも鉄砲でも渡してやろう」
と、いう事だった。孫文に話をすると、孫さんは非常に喜んだ。私と蒋介石と丁仁傑の三人が派遣されることになった。我々は同地の実情を視察し、連絡を確実にする為に、そして出来る事ならば直ぐにも旗揚げをしようというので、六月に日本を出発し、朝鮮経由でハルビンに行き、寧夢巌と私の二人が黒龍江を歩いてみたが、なかなか動き出そうとする空気すらなかったので、私達はすっかり失望した。しかし僅か一回きりで失望してしまうという事も出来ないので、九月頃まで長春その他へ行ってみたが、そのあたりも矢張り前同様だった。けれども今後どんなチャンスが生まれて来るか知れないし、革命党は如何なる事があってもそう無造作にものを断念するという事をしないのが鉄則となっているので、丁仁傑だけを残して悄然と日本へ帰った。今でもその時の事は記憶にはっきりと残っているが、東海道線は大出水で貨車に乗って長野県の方から飯田橋に帰った。しかもハルビンから通して来たので体は疲労し全く参ってしまったが、そんな事はいってられないので、帰って直ぐに孫文に報告した。
その時は「行ってみたが何の事もなかった」というような報告だけをしたのだったが、翌日、秋山将軍と犬塚小池氏にも報告しなければならないので蒋氏と二人で行った。行く道で蒋介石は「山田さん、あなたが言って下さい」といったから私は「馬鹿言え、俺は日本人で従って行っただけぢゃないか、お前の方が今度は主体ぢゃないか」といって蒋介石から報告させた。
いよいよ三人の前で報告する時、彼は顔を真っ赤にして、
「私たち行ってみましたが、全部ウソでした」
「全くだまされました」
と真っ赤な顔を俯向けた。
こうした時にはよく「あちらの軍隊と全部連絡をとっておいた。ただ金が無いのでどうにもならない。五十万もあればあちらの軍隊は直ぐにでも動く」というような出鱈目を言って金を取る。つまり革命を種に飯を食う革命ブローカーといったようなものがいるのだが、それを蒋氏は、極めて正直に実情をありのままにぶちまけた。三人はその蒋氏の報告を聞いて感心した。後で私を三人が呼んだ時に、
「孫と一緒に来ている連中は皆正直で、どうしても革命をやるという意気を持っている。これなら日本のために、支那のために、極東平和のために大いに彼等を助けてやろうという気持ちになれる」
と話していられた。
丁仁傑も帰って来た。彼の報告によると「必とやれる」という事だった。奉天駅近くの本渓湖付近でやっているし連絡もとっているという事だった。大正三年の一月半ば、陣其美と戴天仇と私と三人で出かけた。大連を根拠地として犬塚氏に電報を打った。犬塚氏から諾の返事があった。保護もしてやるという事だった。私達は満鉄の行員に病人として入り込み、病院で種々計策した。この時も寧夢巌はこの革命運動に関係を持っていたが、今では張学良の幕僚になっている。この時も失敗して三月頃日本に帰った。犬塚氏はその頃満鉄を辞して芝の田町にいた。
「そりゃ残念だったが仕方がない。しかし今度は上海の方が熟してきたから、あちらに行って助けてやってくれ」
犬塚氏は我々の失敗した報告を聞いてからこう言った。
第一革命の時に成功した陣其美がまた上海で画策していた。我々はやってみるが矢張り金が要るのでその事をいうと「金は僕等が相談して何とかしよう、君等は兎に角行け」というので出かけた。犬塚氏は満鉄の理事をよした時に七万円の慰労金か何かを貰ったので、その内の五万円を我々に割いてくれた。それから福岡の貝島、山口の田中隆、大連の相生その他から三十万円の金を作って「これで準備をせい」といってくれた。支那では袁世凱が帝政をやろうとしている時だった。日本は大隈内閣時代で加藤高明が外相だった。
秋山将軍と犬塚、小池の三氏が覘(うかが)ったのは久原房之助氏(後の逓相)だった。何う話を持ち込んだものか久原氏の懐から百万円の金が出た。借用証一枚書くでなく、借りたともいわず貸したともいわないのでこの大金が出た。しかしこの経路も使途もあとで判明した。
犬塚氏が逝いた晩、私は同家でお通夜していた。すると今の元帥上原大将から電話があって「今夜はお通夜だろうから明日家へ来い」といわれた。翌日私は上原元帥邸に伺った。
「犬塚も死に、秋山も小池も皆死んでしまったが、お前達が第三革命をやったときの金は、実は久原から出たのだ。秋山と犬塚と小池の三人で俺の所へ来て一晩口説いた。俺も容易に口説き落とされはしなかった。俺は孫文にも会っていず従って彼を知らなかったので中々うんと言わなかった。しかし三人の熱心さに俺は負けた。とうとう口説き落とされてウンと頷いてしまったのぢゃ」
私は上原将軍の話で初めて彼の金の出所を知ったのだった。三人の方はその事に就いては誰も一言も漏らさなかった。
支那側は孫さんと陳さんと、日本側は犬塚さんと私の名である密約が結ばれた。今でも某所の金庫の中にその○○の○○は深く蔵されているはずだ。秋山将軍が筆を執り私が持って行って孫さんに手交した。
犬塚さんから最初三十万円貰った時には、孫さんが借用証を書いて犬塚さんに手渡した。犬塚さんはその借用証を受け取ると孫さんと話しながら手の中に丸め込んで、火鉢の中へ突っ込んで焼いてしまった。支那の連中はみなこの三人には心から敬服していた。
久原氏の金が出る頃、王統一が何時も秋山将軍の許に出入りしていた。王統一が支那の海軍を乗っ取る計画を樹てていた。仙台の高倉という人が秋山将軍の内命を受けて王統一の監督格で上海に乗り込むという手筈になっていた。蒋介石はその時(第三革命のため我々が上海に行った時)初めて党の最高機密に参加した。それまでは陳其美の幕僚として加わっていたに過ぎなかった。王統一が上海へ来る前、私たちは支那の軍艦乗っ取り策を講じた。当時の支那軍艦は、応瑞とか肇和とかいう三四千トンの小さなものだったが、揚虎というのが小蒸気船で行って見事に捕獲し、江南機器局を盛んに攻撃した。殆ど一晩でやったのだったが、遂に失敗した。大正五年五月十八日に、陳其美は私の家で袁世凱の探偵のために射殺され、丁仁傑は横腹をやられた。
秋山将軍はその年三月、欧州大戦の観戦に派遣されていなかったが、犬塚氏からは陳氏の死を哀悼された電報が来た。
「陳氏の死は、誠に残念であるが、残った諸君が孫文を援けて大いに奮闘せよ」
私達はこれに勢いを得、大正六年に広東に乗り込み、孫氏は大元帥となったが、大正七年春には同じ革命党の岑春■[火ヘンに宣]に追われ台湾経由でまたまた日本に亡命した。
この時の孫氏は甚だ気の毒な立場に置かれた。日本政府は最早彼を東京に迎え入れようとはしなかった。孫氏は空しく箱根に留まっていた。その後更に私が聞知した事であるが、久原氏から百万円出た時、既に日本政府は対支方針を誤っていた。私は孫文にその総ての金が手交されたならば、或いは彼の革命は成功していはしなかったかと思うのだが、不幸にして我が陸海軍の意見は相違していて、その半分は岑春■[火ヘンに宣]に手渡された。孫氏が岑氏に追われて日本に亡命せねばならないように、同士討ちをやったりした事が袁世凱に乗ぜられる隙を与えて遂に革命の失敗を招いた。陸軍の方では「孫は理想家で岑は実勢力家だ」というような認識を持って岑に軍費が提供された事が、革命をして失敗たらしめたのではないかと思われる。また一方には、或いは袁世凱に期待をかけていたのかもしれない。この間の消息は甚だ複雑微妙である。秋山将軍は欧州大戦から帰って非常にそれを憤慨していた。
将軍は欧州から帰られると、私に、
「日本は鉄が足らないから鉄の用意をしておけ」
といわれた。孫文の幕僚に何天炯という広東の男があった。それが第一革命の時に日本へ鉄を持って来た。満鉄で分析したところに依ると非常に良い鉄である。それを将軍が記憶していて私に日本は鉄が不足だから今から鉄の心配をしておけといわれた。それが動機となって大正六年の九月、孫文氏の招電によって塚原氏が広東に赴き、私と何天炯氏と落ち合って諸種の準備を為し、また日本から技師を派遣するため十二月日本に塚原氏が帰り、私は汕頭にいて技師を待ち合わせ鉄山に行って取調てみると、山を崩しているその分だけで裕に一億萬噸(一兆トン)はある。大喜びで汕頭まで帰った時、突如将軍の悲報に接した。私は天地が崩れたほどに驚愕し、がっかりした。将軍は最後まで日本の将来に就いての大きな準備を考え且つそれを整えつつあったのである。孫氏も秋山将軍の死でがっかりした事だろうと思う。せめてはその葬儀に列し、芝青松寺の追悼会にも自ら参列して哀悼の意を表し、将軍生前の好意に対し深甚の謝辞を述べたかったのであろうが、彼は東京の地を踏むことを政府から許されなかったために戴天仇を代理として遣わして来た。而して孫氏は上海に帰った後、更に何天炯氏を代理として特派し、将軍の青山の墓地に花輪を供え、塚原氏が同道して令兄好古将軍に面会し、孫文氏哀悼の意を伝えた。兎に角秋山将軍と孫氏達の革命運動とは密接不可分の関係を持っていた。
支那の革命党領首たちは、秋山将軍、犬塚、小池氏らを指して「ああいう日本の人の絶大な好意に酬いるためにも革命を成功させねばならない」といっていた。革命の総司令部をやっていた許崇智、鄒魯氏がアメリカへ行くとき、秋山将軍と、犬塚、小池三氏の墓に詣で、秋山将軍の未亡人には「甚だ御無体ですが」といって絹か何かを贈ったことがあった。それほど彼等は恩義を感じている。将軍等の徳を忘れないでいる。
上原元帥はその後も私に言った。
「孫文らの第三革命は秋山や犬塚、小池等の熟誠で産まれたものだったが、しかも彼等三人は、その中の一人だって遂に苦心談一つもしなかったよ」と。
日本が真面目に、真剣に支那を援けたのは、この第三革命の時であったろう。孫文も陳其美も全く私心の無い几帳面な人で、ただ革命のためのみを思って活躍した人であったが、そうした時、日本に秋山、犬塚、小池のような立派な人物が居て、日支がガッシリと手を組み合ったのであの第三革命は生まれたのだ。その時の人で、今なお生存しているのは蒋介石と戴天仇と私の三人だけで、その他は悉く逝かれた。しかしそれらの人々は死しても、あれだけ南京の人々と心からしっくりと結びついたことは決して無駄には終わらない。今でもあの当時の生存者は、必ず心のうちでは感謝しているに違いない。私は今でも、第三革命は遂に失敗に終わったが、決して失敗ではない。何時かの日、あの日本の好意が、支那の人達の心に甦って、日支の提携、日支の交歓が行われるであろう事を確く信じている。秋山将軍、犬塚、小池氏等の熱誠に対し、他日彼等が酬いるであろう事を確く信じている。
日本のために、決して無駄な事ではなく、感謝される日がある事を確く信じている。私が広東から失敗して日本に帰り「折角やったのでしたが遂に失敗に帰しました」と報告した時、「何、失敗じゃない、たとえ今度のが失敗に終わっても、次の仕事の上にはきっと今度の失敗が役立つ足場になるんだ」と秋山将軍や犬塚氏がいった事を忘れない。それと、秋山将軍が、支那とか極東とか言わないで、常に大亜細亜州、大亜細亜州といっていた事が今でも私の耳底に残っている。