在職二年、大正五年二月将軍は軍務局長の職を退いて軍令部出仕となり、同時に大戦視察のため渡欧を命ぜられた。
この視察旅行中、将軍は露瑞国境に差しかかった時、絵葉書に左の如き雅懐を舒(の)べて、諸知友に贈った。気宇の壮大全詩面に躍動して、骨鳴り肉踊るの概がある。
日長露瑞境 南面対北斗
末熄天下乱 帝位自在定
この旅行で色々の逸話もあるが、将軍がパリ滞在中、フランスの有力紙に、タン紙の記者からインタビューを受けて戦争の将来の予言を求められ、戦争の継続期間及び勝敗の結果に就いて将軍の答えた事が、果たして戦争終熄と共に適中したので、同紙の記者は舌を捲いて驚いたという有名な話が残っている。
この外にも、敢えてル・タン紙を持たずとも、これに類似した話が種々の人の口から語られている。将軍の郷里松山市の有力家で将軍と親交のあった井上要氏の次の談話もその一例である。
秋山将軍という人は実に先見の明のある人だった。世界戦争に対する将軍の達識には屡々驚かされた。大正三年八月五日、戦争の始まる直前の事だったが、将軍が松山へ来られたので、私は将軍を訪うて今日は一緒に昼食を食べようというと、将軍は朝道後の温泉から帰られて新聞を見ていられたが、丁度その日「オーストリアの皇子が、セルビアで暗殺された」という記事が紙面に出ていた。それをみた将軍は、「どうもこういう事があるとどんな事になるかもしれぬ。これはじっとして居られない、今日は東京に帰ろうと思う・・・」
と言われる。私はその余りにに急なのに愕いて、
「将軍、折角お出たのだから、もう少しゆっくりしてお帰りては如何です?」
というと、将軍は押し返して、
「いやもう帰らにゃならぬ」
といって、倉皇として帰られた。
その後、間もなくあの世界大戦が勃発したのである。これを考え合わせても、将軍が並々ならぬ鋭敏な頭脳の持ち主であることが首肯されているではないか。
将軍は戦争が勃発すると間もなく都新聞紙上で「この戦争は少なくとも六年、長ければ八年かかる。それは何故かというと、こういう戦争になると、思想問題、経済問題、人種問題等あらゆる難問題が錯綜してそれが麻のように絡まりあうから、なかなか短時日の間に片付くものではない」という予言をした。
これは当時にあっては実に驚くべき放言であった。現に英のキッチナー元帥が「この戦争は三年かかる」と言って世界を驚かせ、何人もそれよりもっと早く終熄すると考えていたのに、反対にそれより二倍も三倍も多い年月がかかるというのだから、世間は驚くと同時に何等信を置く気もしなかった。しかし事実は全く将軍の予言通りで、あれだけの長日月を要したのである。
また将軍は勝敗の結果に対しては、初めから独逸の敗北を信じ切っていた人であった。これは戦争の最終期まで独逸の勝利が信じられ、現に我が参謀本部までそうであったようにいわれている位だったのだから、最初からこの説を持していた将軍は、これまた一大卓見家といわなけらばならない。
三菱鉱業の船田一雄氏が大戦の半ば欧州から帰った将軍に請うて、一夕同社の社員のために講演会を依頼した。その時にも将軍は欧州大戦の結果に就いて論述し、明確に連合軍が最後の勝利を得ると結論した。当時独逸は破竹の勢いで連戦連勝であったから聴衆は全く意外の感に打たれたのだが、事実は将軍の予言の如くであった。しかも将軍の言葉は「こうなろうと思います」というような生ぬるい言葉ではなく「アメリカは参戦します」「連合軍は必っと勝ちます」と断言するのである。しかもそれが非常な自信力の強さで断言されるので皆驚いてしまった。今日でも船田氏は「ただそれだけでも秋山将軍は偉かったと思う」と言っている。
何うして独逸の敗北を将軍は確信したかに就いては改めて「人物編」で詳述する。