将軍の訃伝わるや国を挙げて哀惜せざるを得なかった。あるいは未来の海相と目せられ、あるいは首相とまで嘱目されていた将軍のこの突然の卒去は洵に意外であり知るも知らぬも深き哀悼の意を表した。
越えて二月七日、青山斎場に於いて盛大なる葬儀が営まれた。
葬儀に臨んで葬儀委員たることを志願するものの余りに多数なるに驚かされた。殊にそれが海軍部内に多かったのは自然の数でもあろうが、海軍省および近親者の希望で、、部内からは将軍同級の親友たる森山中将を葬儀委員長に挙げ、あとは皆郷党の者で取り運んだ。葬儀の日、斎場は朝野の顕官名士で埋められ、伊集院元帥と森山中将によって弔辞が朗読された。
斯くして将軍の英霊は永(とこしえ)に青山墓地に眠ったのであるが、越えて同年六月十五日、芝青松寺に於いて将軍に対する追悼会が催された。この追悼会に際し、発起人たることを承諾した朝野の名士実に百三十人、軍部は固より時の総理大臣、閣僚を始め政界、学会、実業界、法曹界そのほか各方面の名士を網羅し、生前将軍の働きがいかに多面多角であったかを窺うに足るものがあった。
この追悼会では、寄贈金が多くて会費が余ったというので、将軍の人望厚きを物語る好話柄にもなっている。
追悼会の席上、時の軍令部長島村速雄大将が将軍に対する追悼講演をされたが、その草案を作るのに島村大将は二三日軍令部長室に立て籠もり、殆ど余事を顧みずして専らこれが作成に力められたという程で、言々句々追悼の赤誠が現れ、しかも偉大なりし将軍の功績を説いて余すところなく故人のために心からなる知己の言葉であって、家族、友人を始め聞く者をして感泣措く能はざらしめた。誠に名公演中の名講演ともいうべきであった。
追悼会後、紅葉館で晩餐会が催されたが、その席上で、老年の女中頭が「わたしも三十年近く勤めまして色々の席に侍って居りますが、今日の会合ほどお集まりの方々の方面の多いのは初めてであります」といったそうだ。これを見ても将軍が独り軍人、政治家ばかりでなく、社会の各方面に亙り知己交友を持ち、敬慕されていたという事が判る。