日露戦争で赫々の偉勲を樹てた将軍が、戦後我が海軍の偉材として次々に重要任務に就いた事はいうまでもないことである。
明治三十八年、戦後の帝国議会は、秘密会を開いて陸海軍から戦争経過の報告を聴取した。
報告はそれぞれ二時間にわたる長時間のものであったが、その時の経過報告で海軍の説明役が即ち我が秋山真之将軍で、当時は中佐であった。
その時の秋山将軍の報告演説はなかなか立派なものだったそうだが、その秘密会に出席した議員達がちょっと奇異に感じたのは代表報告者が陸軍は少将級(松川少将)だったのに対し、海軍はそれよりずっと下級の一中佐を以て当たらしめたことだった。殊に帝国議会に対する報告である、海軍として僅かに一中佐を以て当たらしむる事はどうかと思われたのである。そこで一部の議員が海軍当局にその理由を質してみたところ、海軍部内で帷幄(いあく)に参じた人で、この報告をすべく最適任者は秋山中佐を措いて他にないということであった。この一事を見ても、将軍は中佐でありながら、中佐以上の重務に就き、中佐以上に重用されていることが明瞭となるのである。
将軍は戦後再び入って海軍大学の教官となった。
戦前、教官時代の将軍は古今東西の軍書を渉猟(しょうりょう)した上、親しく米西戦争の実戦を参観して、いわば学術研究と実地見学を並び行った将軍であり、その時すでに兵学家の権威として充分許さるべきであった。
然るに今や征戦二年、直接世界的大戦争の作戦の衛に当たって、縦横の手腕を揮い来った将軍である。およそ学識経験兼ね備わった兵学家として、それ以上理想の人物を求むることは蓋し至難であろう。
然るにこの理想的兵学家に配するに、その講義を聴くべき学生諸君が、これまた同じく日露役実戦を踏んできた兵学上一家の見を有する俊秀である。随って教室は教官生徒の間に論戦風発、海軍大学創って以来の盛観を呈した。当時講義筆記の速記者曰く「私も海軍大学の速記者を長く勤めていますが、今の時代ほど海軍大学の教室が賑わったことは有りません」と。全くその通りであった。