将軍が再び大学校教官となるまでの軍略の研究は専らロシアを仮想敵国としていたが、日露戦争を一転期として今度は戦略目標が変わった。
しかもその新目標に対する戦略の研究がどんなに将軍の頭を悩ましたかは、ほとんど余人の想像以上であった。
日露戦争では陸海協力の戦争であったが、将来の戦争となるとそれは海戦そのものである。戦勝も戦敗も、かかって海軍の優劣如何にある上に、広漠たる太平洋を挟んで、世界の大海軍国を相手にしての戦争であるから、その作戦計画の考案は、なかなか容易の業ではない。
その頃将軍は一室に立て籠もり、室いっぱいに太平洋の大地図をひろげて作戦を練っていたもので、兵棋を使い、将軍の大好物の煎豆を大砲や配置すべき軍艦に擬し孜々(しし)切々研究に余念がなかった。
その研究の熱心さに至っては実に驚くべきもので、当時同僚の教官であり、また戦史家として将軍と共に海軍の双璧といわれていた佐藤鉄太郎中将が、「秋山君はあまりこの種の新戦略に頭を使いすぎて、多少精神に異常を来したのではないか」と言っていた位であった。以てその熱心さを知るに足るであろう。
最後に作戦の成案が成ったものか、「一朝事あり、たとえ敵に九州を取られるとも、歴々として我に勝算あり」と傲語(ごうご)していた。