明治四十年、九州西南部の海上で、日露戦後最初の海軍大演習が挙行された。
この大演習で、中央審判部の審判長が伊集院元帥、その中央審判部員が秋山将軍(当時中佐)であったが、この時の演習講評で将軍が驚くべき天才を発揮した。が、天才発揮と同時に少しやり過ぎた嫌いがあったので一時部内で物議を醸し、相当重大視されるに至った問題がある。
いよいよ大演習が開始され、赤、青の両軍が互いに肉薄して決戦距離に入った時であった。模擬戦とはいえ、いよいよ戦争が始まろうとするのに、中央審判部参謀の重任にある秋山将軍は如何にも悠々と構えていて、艦内でさっきから軍医長と囲み始めていた碁をやめようともせず、相変わらず碁石を離そうともしない。甲板の幕僚が気を揉んで、戦闘開始を知らせに来たが将軍は依然として落ち着き払っている。
「ああそうですか、始まりますか、では時間をよく計っておいて下さい」
そう言ったきりで盤面から眼を離そうとしない。その内に両軍火蓋を切ってドンドン打ち出す。だが将軍の姿は一向に甲板に現れないので、幕僚連ヒヤヒヤしていると、戦闘が終わりに近づいた頃に将軍はやっと甲板上に出て来た。
出て来ると将軍は、両軍の戦勢を一瞥ずっと見渡してから傍らの士官に訊いた。
「この対勢で発砲以来何分経ちましたか」
傍らの士官が計っていた経過時間を答えた。すると将軍は即座に信号手に命じて、
「○○(艦名)半減、△△(同上)廃艦」
という信号を発せしめた。「半減」は即ち軍艦の半ば破壊を意味し、「廃艦」は撃沈を意味するのであって、この一語は即ち戦の結末に判決を与えたものである。そして信号を発すると同時に、将軍は伊集院審判長に対し、
「演習は集結しました」
と報告した。
が、これは従来の慣例からすると、容易ならぬ問題であった。「半減」「廃艦」等の審判を下す前には、審判長の判断を俟(ま)たなけらばならぬのに、秋山将軍はひとりで独裁的に決断してしまったのだった。その上審判長の伊集院元帥は特にこういう事には八釜ましい人であるから、ここに一問題起こらざるを得なかった。
翌日艦隊が佐世保港に引き上げて来た上、そこの水交社で徹宵して講評会議が開かれた。これより先、赤、青両軍の参謀、齋藤七五郎、谷口尚真の両将軍から講評の意見書を秋山将軍に提出した。
すると秋山将軍は何と思ったか、一読するとそれをいきなり、
「こんなものが何になる!わしは日頃からこんな講評をしろと君達に教えてはいなかったぞ」
と、怒鳴った。齋藤氏は海軍大学校の学生として将軍から兵学の教授を受けた人である。が、突然この霹靂(へきれき)の如き一喝に会って吃驚(きっきょう)していると、将軍は更に声を励まして言った。その要旨はそれらの講評意見では、味方のことを棚に上げて置いて、敵の非点のみを指摘しているが、講評本来の性質は決してそうしたものではない、講評は敵の悪口にあらず、堂々味方の作戦の勝れるを挙げて、敵の非に触れるべからず、その事は平常大学の教室で十二分に説いている筈だというのである。
程なく講評会議は開かれた。会議に連なるもの多数、実に堂々たる大会議であったが、秋山将軍は何と思ったか、会議の席を外して、佐世保市内のさる料亭にあがると一盞傾けながら料紙硯を取り寄せて何事かスラスラと書き出した。
翌朝将軍はその書き上げた物を持って水交社に帰って来た。帰って来ると部下に命じてそれを大車輪に謄写版刷りに刷り上げさせた。それは即ち将軍一個の意見によった大演習の講評であって、その日伊集院元帥の口から正式のものとして発表された。が、その一方多数の審判員が徹宵して会議した講評は、それがため空文になって葬られてしまう結果になったので、「秋山横暴」の声が起こり前の審判長を無視した独断と合わせて由々しき問題にならんづ形勢になった。
しかし結局問題の帰する所は、将軍の書いた講評の価値である。その後大演習の戦況につき、艦の配置、射距離、水雷術その他あらゆる部門に分かち、それぞれ専門の係員によって精細なる科学的研究を遂げた結果、将軍が戦勢を一望して刹那的に下した「半減」「廃艦」の宣言は、一分の隙もない完全を極めた判決であって、従って将軍の認めた講評も実に立派なものである事が判明した。
ここに於いて聊(いささ)か横暴の嫌いはあったが、明断神の如き将軍の戦術眼に対して舌を捲かざるものはなかった。で、「秋山横暴」の声もいつか消滅して今更の如く将軍を謳歌する声がこれに代わったのである。
「小柳資料」に収録されている寺島健中将(日米開戦時、東條内閣の逓信大臣・鉄道大臣)の回想録にも同じエピソードが紹介されている。真之に戦闘開始を知らせた「甲板の幕僚」というのは当時審判官を務めていた寺島と思われる。寺島は「今更の如くその頭脳の精確さに驚かされた」と評している。