副長、艦長、参謀長

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  海軍大学教官たること二年余り、転じて将軍は軍艦三笠副長に補せられた。これから再び海上の生活が始まり、秋津洲、音羽、橋立、伊吹等の艦長、第一艦隊参謀長等に歴任した。
 将軍が三笠副長に補せられたのは明治四十一年二月であった。この三笠副長時代を説くことは、将軍が人の長として如何なる風であったかを示す好個の機会であるから、、この時分の事は比較的詳細に叙述しよう。
 はじめ秋山将軍が三笠の副長として赴任することになったと聞き、艦長松村直臣大佐を初め乗員一同雀躍りして喜んだ。
「日露戦争で有名なあの秋山中佐が、本艦復活の最初の副長として来ることは光栄誠にこの上ない」
 そう言って松村艦長は包み切れぬ喜びの顔を配下の水兵達の前で見せたのであった。 
 それには理由があった。
 先に爆沈した軍艦三笠は、その前年の明治四十年に浮き上がり、その後復旧工事に幾月か費やして、今度再び新装を凝らして海上に浮かんだのであって、乗組員の気持ちからいえば、新造艦も同じ事であった。
 およそ新造艦では、乗組員はその初代の艦長よりも副長というものに対して、ほとんど迷信的なくらいにその人選を気にするものである。というのは、軍艦では艦長よりも女房役の副長がいろいろ雑多の艦内の用務に当たり、これを統括するからである。だから軍艦が出来たら、最初の副長が来て、艦のために好い慣例を作ったら、、その慣例はいつまでもその艦に続くわけで、従って乗組員の艦上生活もそれだけ幸福になれるのであった。
 そういう次第である所へ持って来て、復活の三笠の副長が、当時部内で名声嘖々たる秋山中佐であったから、乗組員がほとんど有頂天に喜んだのも無理からぬ話であったのである。
 果然、副長として三笠に乗り込んで来た秋山中佐は、その態度といいその執務振りといい、悉く乗員を満足させた。そして任期は僅か八ヶ月しかなかったけれども、乗員をして全く崇拝措く能はざらしめるに至った。
 その性質からいえば、目から鼻に抜けるような将軍ではあったが、副長として部下に対する態度は極めて鷹揚であった。 
 軍艦には係りがあって、毎日「食事報告」というものが副長によって行われる。つまり食事の人員の報告であって、それに賄費の問題が関連しているから、動もすれば係りの間に不正問題を生ずる虞(おそ)れがある。それで食事報告というものがあって、直接副長の監督を受けるのである。これが五月蠅い副長であったりすると、針で重箱に隅をつッつくような事をいうのが常であるが、将軍となると、その報告書なるものに一度も眼をやったことがなかった。係りが報告書を持って行くと黙って印形を出して係りに渡す。係りは報告書に将軍の印を捺して引き返していくという有様で、俗にいう盲判以上のやり方だ。それでいて、いつの間に見るのか、要所要所は押さえて行くというやり方である。食事係りの方では、印形まで渡されるのだから絶対信任を受けていると同様であるというので知己の恩に深く感じ、この人のために間違いがあってはならないと、人間本然の責任感が働き、却って重箱式のやり方よりも成績がよかったということだ。この一事だけでも、将軍が如何に人を使うに巧みで、立派な副長振りであったかが窺(うかが)われるであろう。


 鷹揚 : 小さなことにこだわらずゆったりとしている様子。

※松村直臣(1860〜1941): 海軍兵学校9期卒。日露戦争中は台中丸の艦長を務める。三笠艦長の後は佐世保港務部長、佐世保予備艦部長を歴任し、少将で予備役編入となる。



艦長時代の真之(1)

 明治42年、真之が艦長を務めていた巡洋艦音羽は巡洋艦明石、砲艦数隻と共に南進艦隊に配備され、揚子江から広東方面の警備に従事することになった。司令官は日本海海戦時に敷島艦長を務めた寺垣猪三少将であり、真之は明石の艦長である鈴木貫太郎と終始行動を共にしていた。二人は警備活動に従事するかたわら、以前から居留民と海軍との間で問題になっていた弊害を一掃することにも務めた。このことによって、その後は居留民も海軍を好遇してくれるようになったという。
 鈴木はこの頃の真之との思い出を次のように自伝に書き残している。「先生はご承知のとおりなんでもできる人で、漢口の宿で無聊を感じた時、僕が子供の時覚えた仕舞いをやって見ようかという。やってみたまえといったら上手に舞った。どうして覚えたのかといったら、僕の国の松山では子供の時に教育として教えたので覚えているという。秋山のかくし芸を見たが、あの無骨な人が優美な仕舞いをやった姿、今でも目の前にあるようで面白かった」。また、音羽が福州の港で座礁してしまい、鈴木が査問委員長となって原因を調べることになったことがあった。しかし、音羽に損害はなく、また原因も中国人の水先案内人のミスであることがわかり、真之は艦長としての責任を問われずに済んだ。




艦長時代の真之(2)

 明治41年に音羽に配属された嶋田繁太郎は次のように回想している。
『秋山艦長はよく艦長室で筆を持って、原稿のようなものを巻紙に書いておられた。字も上手だし、始めからスラスラと立派なものを書いておられるのを見ただけでも、この人は偉いものだと感心していた。象山浦の戦略上の価値に就いて課題を出されたことがあり、色々懇切に指導された。常に臍下丹田に力を入れておらねばならぬと、六尺褌の持論や、日本海々戦七段構えの迎撃戦法なども興味深く話された。兵員にはよく桃太郎の訓話を平易に講話された。(中略)酔いが廻ると、秋山さんは仕舞八島を演られ、その多芸なのに驚いた。(中略)私が、名艦長秋山大佐の下で約一年間薫陶を受けたことは一生の感激である。』 [「小柳資料」(上)より]