将軍は三笠副長から諸艦の艦長をしている間に艦の諸制度、諸慣例というものに尠(すくな)からざる改革を加えた。
将軍が三笠副長になるまでは、準士官以上の上陸は一々副長の所へ行って許可を得なければならなかった。この上陸許可は士官、準士官は常に悩みの種であった。上陸は当然許される事であっても、その許可を与えるという事が何となく恩恵を与えるような気がするのか、副長によっては随分意地の悪い厭がらせをする者もあった。たとえば軍艦が錨泊して上陸時間近くになると、故意に姿を何処かへ隠してしまうので上陸許可を願うにも、副長が居なくて困らされるとか、許可を頼みに行っても知らん顔をして返事をしないとか、さまざまな不快な事をしたものである。
ところが将軍が三笠副長になると、一大英断を以てこの上陸許可の方式を廃した。その代わり副長室に名札架を作り準士官以上の者の名を表を黒、裏を朱に書いて置いた。そして外出する者は一々副長の許可を得ず随意に名札を引繰り返して上陸する。しかもその名札架を作ったのは、もし不在の者に用があった時、呼びに行った者が無駄な時間と労力を使って探すのが気の毒だからという理由であった。
この上陸許可方式の廃止は乗組員にとってどんなに幸福だったかわからない。しかもこれはほんの将軍が副長在任の時だけで、次の副長からやはりもとの方式に戻ってしまった。果然それから十年ばかり経る間に許可方式はボツボツ各艦で廃止され今ではすっかり昔の夢になってしまった。
軍艦内部の呼び名が日本式に変わったのも、また将軍の遺した仕事の一つであった。
従前は軍艦の各部は英語で呼んでいたものであったが、将軍は日本の海軍は日本の海軍である、それ自身独自の立場にあるのだから艦艇の呼称を何も英国に学ぶ必要はない、宜しく日本語を以て呼ぶべきであるという主張から、軍艦内の英語の呼名を片っ端から日本語に改めた。そして艦上の要所々々にそれらの日本語の改称を貼りつけた。たとえば「ブリッヂ」を「艦橋」、「ボート」を「端艇」というが如きである。