将軍が近衛篤麿公の他に外部の人として最も知遇を受けたのは小村寿太郎候であった。候は大正元年の十一月、将軍の艦上生活の間に逝いたが、将軍は痛惜のあまり涙傍沱として下るのを禁じ得なかった。
いつの頃だったかは、はっきりしないが、小村候はまだ若い壮年士官であった将軍を非常に信任していた。小村候が外務大臣時代、海軍の智識を必要とするような場合は、余人は呼ばず必ず将軍を招いて聴取し、単に説明のみに止まらず更に進んでその意見をも叩いたものであった。一体小村候という人は極めて自信の念が厚く、外務省にあっても次官以下下僚の意見など余り重きを置かなかった人であるが、それにも拘わらず却って部外の秋山将軍を信用して、進んでその意見を叩いていたというのだから、これは余程信用が厚かったと思われる。
また私交としても、両者の交際は相当に深いものであったらしい。二人は碁敵同志であった。
その碁について小村候がかつて話していたことがあった。
「秋山と碁をうつと面白い。いつでも百目取るか取られるかの勝負だから。アハハハハ」
と言って、候は笑った。百目も違うなんてどうせ二人ともザルには極まっているが、しかし一は外交界の奇傑、一は海軍の俊髦(しゅんぼう)、その対局は相当興味あるものであったろう。