大正三年四月、当時既に少将に昇進していた将軍は、大隈内閣の八代海相のもとに本省に入って軍務局長になった。
将軍が軍務局長になったに就いては、いろいろの点からして極めて意味が深かった。
第一に軍務局長は将軍が軍政家としては初めての舞台であって、これまで専ら軍令系統の要職に就いていた将軍として、その方面の技能は余りに有名だが、軍政家としての手腕は、この時はまるで未知数であった。
将軍が軍令部から出てこの要職に就くに至ったのは、有名なるシーメンス事件の勃発が直接の動機であった。
シーメンス事件は人も知る如く海軍未曾有の大疑獄であった。そのために時の山本内閣が倒れて大隈内閣が出現した。シーメンス事件は疑いもなく海軍内の一大城郭だった薩閥の致命的痛手とされていた。随って新内閣の海軍大臣として事件の後始末をするものは薩人以外の大人物でなければならぬという事であった。
その結果、時の外相加藤高明伯の推挙を受けて就任したのが八代六郎大将であった。
八代大将が海相に就任すると共に、その懐刀となるべき人物を物色したが、結局秋山将軍を措いて他にないと思った。八代大将と将軍とはかねてから私交も浅からず肝胆相照らした仲であった。将軍は最初八代大将が海相に擬せられた話を聞いた時、膝をたたいて言った。
「そうだ、そうあるべき筈だ、刻下の難局を切り抜ける者は八代大将の他はないと思った」
さればこそ将軍は、八代大将の招きに応じて進んでその難局に飛び込んで行ったのである。
将軍が軍務局長を承諾すると、八代海相は、次官となるべき人物に就いて将軍に相談した。普通なら次官が定まって、それからその士官と相談して軍務局長を任ずるのが順序だが、この時だけは逆に軍務局長を決めて、次官の相談をしたのである。将軍と大将の間が如何に密接であったかはこの一事だけでも想像するに難くない。
この変則的人物詮衡(せんこう)法によって任命を受けた海軍次官が即ち鈴木貫太郎中将(現大将)で、秋山将軍とは当時海軍部内の双璧といわれた人であった。
さて、軍務局長の任に就き、海軍未曾有の難局に処して、将軍は八代海相を翼けて如何にシーメンス事件を処理したのか?
近親者の話によれば、将軍は事件解決の為に処置されるべき人物に対して、次々に自宅に連れて来ては、涙を流して説いていたという事である。それは全く泣いて馬謖を斬るという言葉の通りであった。実際当時将軍としては苦しい立場に置かれていたのである。昨日までの同僚知人に対して処罰の斧を揮わなければならない上に、一歩誤れば世間からも、部内からも囂々(ごうごう)として非難の声を浴びなければならないのであるからその苦衷は察するに余りがある。
が、その間にあっても将軍の情にもろい性格は遺憾なく発揮されて、某氏の如く事件渦中の人物を一時自宅にかくまっていた事さえあった。
当時八代大将が秋山将軍に贈った一書がある。この両将軍が常に国家の前途に対して如何に深き考慮を払い、心を悩ましていたかの一例証として、単文ながらここに右の書簡を附加しておこう。
拝啓
十四日附華翰難有拝見仕候、又川面先生著書数本御恵贈御芳情奉感謝候。一寸拝見如何にもご見識雄大尚ほ篤と拝読可仕候。
海軍事件、小生は当初より多きを望み申さず故に不満足も無之候。乍去今後意外之変相生じ候やも難計候。
コレハ小生の卜占に現はれ候処故原因結果等は難申上候。目下の世態人情如貴意如何にも慨はしく候へ共何分老人には最早依頼し難く中年青年に意気地なき致す処止むを得ざる次第に御座候小生も乍不及青年の志気奮興に努め居り三代目が肝要に御座候。 草々敬具
三月十五日
六郎
秋山仁兄閣下
侍曹