日露戦役中に於ける武勲ほど華やかではないが、むしろそれにも優れて、秋山将軍が隠然偉大なる功績を我が海軍に留めたものは、実に将軍が初めて我海軍兵学の根幹を建設したという点にある。
将軍があの明晰犀利な頭脳をもって海軍兵学の諸項目を統合分類し、そこに組織的の一科学を確立するまでは、我が海軍兵学なるものは茫乎として何等の統制もなく、甚だ非科学的のものであった。
然るに、将軍が米国から帰朝後間もなく、海軍大学校に兵学講座を担任するに至って、それを組織化し、合理化し、日本海軍兵学百年の根底を築いたのである。
小壮士官時代から軍学研究に専念していただけに、将軍には早くから海軍兵学に対して独創的の見識があった。将軍が軍略家としての存在を認められるまで、我が海軍は当時ひとり海軍のみならず、我国各方面での総てがそうであった如く、一にも西洋、二にも西洋で、ひたすら盲目的に欧米文物の礼賛をこれ事としていた。随って海軍の兵学なるものも、一定の独創があるではなく、欧米のそれを殆ど直訳的に丸呑みにして、我が物としていた。陸軍もまた同様で、メッケルの兵書をもって唯一の金科玉条とし、戦略にも用兵にも、教材にも、専らこれを指針とし規準としていた。
天才的兵学家秋山将軍は早くもこの点に着眼し、帝国国防のために多大の危惧を抱かざるを得なかった。
凡そ国防は、他の学術的真理の探究とは事違い、国土の状況によって左右さるべきもので、何処までも独自的であるべきもの、それを国情も違えば地形も違う異邦の兵書をそのまま直訳して、我に何等独自のものがないとすれば、それは甚だ寒心すべきことである。将軍はこう考えて、それ以来直訳でない帝国海軍のための帝国海軍兵学の樹立に就いて考えるようになった。そしてそれを見事に大成したのである。