甲越軍学

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 秋山軍学の内容を細説したら優に三四巻の書籍になるであろう。その上に、それは現在の我が海軍戦略の基礎ともなり、主流ともなっているものであるから、昔の山鹿流だとか、北條流のそれを説くように、具体的の説明を許されない。云わば軍機に属するものであって、将軍が海軍大学の講義で説いたところ、日露役の実戦に臨んで作戦したところ、それらは悉く公開を許されないものばかりである。現に海軍省内に蔵されているもので将軍に関するこの種の書籍も少なくないのであるが、それらは悉く門外不出の書類ばかりだ。
 こういう次第で、秋山軍学の戦法その他に関する具体的説明は、縦令これを為すも結局は間接記述で隔靴掻痒の感を免れ得ない。
 秋山将軍が甲越の軍書を愛読したことは先に記したが、愛読していただけに、その戦略の中にこの甲越の軍法が余程入っている。たとえば日本海海戦の場合、丁字戦法を用いて敵艦隊の頭を抑え、その先頭艦に対して我が砲火を集中したのは恰も敵の先鋒に対して順繰りにこちらの新手がかかって行くという甲越戦法にある「車係り」の戦術の応用とも言うべきであった。
 将軍と甲越軍記に就いては、海軍大学の兵術講座で将軍の教えを受け、熱心なる将軍崇拝の一人である清河純一中将が次のように語っている。

 秋山将軍は甲越の争いには非常に興味を持っていたらしい。将軍の性格としては信玄よりも謙信の方が好きらしかった。といって謙信が好きかと正面から聞いてゆくと、例の負けず嫌いの性格で、図星をさされるのが嫌いだから、これを否認していたようだったが、どうもいろいろの節から推して謙信が好きだったように思われる。また将軍が謙信のような人だというと、相当反対論が出るであろうが、人物の全部が然うでないまでも何処か一致した点があった。しかしその戦法となると、将軍の戦法は寧ろ謙信流よりも信玄流の方に近いと思われる。将軍の作戦計画は極めて科学的で綿密であったからだ。

 また八代大将が嘗て秋山将軍の義兄青山芳徳大佐から将軍の死後、将軍の戦法に対して感想を求められた時、返事として次の書簡を寄せられた。これは将軍が甲州流軍学を研究した前後の事情を語り、その戦法の応用を明確に指摘されたものである。

 拝啓
 玉章拝受返詞可申上之處彼是取り紛れ延引の段真平御免可被下度御申越の趣拝承左に一二陳述仕候。
 明治三十二年の頃なり。秋山氏、小生その他二三の海軍士官は故宇都宮五郎先生を師とし軍学を稽古し候。先生常に仰せられ候には「軍学上もっとも納得よきは秋山なり」と。秋山もまた、「宇都宮先生はマハン将軍にも勝りし見識高き御方なり」とて推服したり。宇都宮先生曾て小生を呼び寄せ甲州流軍学の秘書「夜闘的書」なる一書を示され仰せらるるには「この書は是非秋山に一読させたし。然るに彼甚だ公務に多忙の由なれば、これを彼に遣わしては読まざるべし。よってこれはそちらより一週の日を期し宇都宮に借用したる物なれば急速一読の上返却せよと申し込むべし。斯くしたらば彼も他用を打ち捨てても一読するならむ。しかし返却の上はそちらも一読保存すべし。こちらには返却に及ばず」と。よってその通り取り計らいたり。その後先生また仰せらるるには、「秋山は応用の才逞(たく)まし。先日の書も今日に至りては陳腐にして、そのままこれを戦陣に用い難き事多し。さながらその書記するところを趣を変えてこれを応用せば必ず益あらむ。秋山ならばこれを応用し得べし」云々。日露戦争起こりて仁川の役に瓜生隊に浅間(当時八代将軍は浅間艦長)を附せられしは敵が「銀」と出るときには一枚上の「金」と出るべしとの教えなり。旅順閉塞隊出発の際全軍にて送り、翌朝出羽隊に迎えしめられたるは甲州流軍学「夜討」の格を応用したるにて「送り備え」「迎え備え」なり。
 日本海海戦には「待ち伏せ」「朝駆け」「正戦」「夜討ち」「追討ち」等の格が応用せられたり。
 宇都宮先生は明治三十四年末に逝去せられて門人の偉勲をご覧なされざりしは常の遺憾に存じ候処に御座候。
 右来示に対し略述如斯に御座候。 敬具

 これによって甲越軍学の応用、今は紛れもないことだ。

宇都宮五郎 : 宇都宮三郎の誤記と思われる。宇都宮は尾張藩士の子で、甲州流軍学の他西洋砲術を学んだ。セメント、炭酸ソーダ、耐火煉瓦などの製造に携わるなど近代日本における化学工業の先駆者でもある。「化学」という名称を定着させたのも宇都宮であると言われている。