秋山軍学に我が古代の水軍戦法が多分に取入れられている事は既に説いた。
今更に進んで日本海海戦にそれが如何なる形で現れたかを検討してみよう。小笠原中将の「鉄桜漫談」に次の一齣がある。
戦役後、私は日露海戦史の編纂委員を仰付かったので、東郷大将から提出になった戦闘詳報の付図の訂正に着手した際、屡々秋山中佐と会合して相談した。ある日私は冗談に、海戦航跡図をかきまわして、フンフン言いながら秋山中佐に向い
「どうも、どことなく水軍のにおいがするようだね」
といったら、中佐は例の通り少しく顎を突き出してちょっと頭を曲げ、
「白砂糖は黒砂糖から出来るよ」
と笑っていた。
面白い話である。で、その黒砂糖から出来た白砂糖がどんなものであったか、小笠原中将は同じ「鉄桜漫談」に於て次のように述べている。
世界の歴史有って以来、無比の大勝を得たといわるる日本海の海戦は、その大勝に関しては固より色々な原因があろう。が、まず第一に注意すべきは敵を待ち受けている際、東郷大将
が将士をして技術の猛訓練をなさしむると共に、その精神の激励に最も力を竭した事で、未だ戦わざるにすでに忠義心に勝ち、自信力に勝ち、勇気に勝たしめていたのである。水軍書も
「まず勝ってしかして後に戦う」と教え「不敗の地に戦う」と教え「人を致して人に致されず」と教え「舟を攻めずして人心を攻む」と教え「敵の気を奪う」と教えているではないか。
更にまた対馬海峡から日本海にかけて戦争が起ったとするなら、われは主戦、かれは客戦となるのであるから、われにとっては一層大切であるとは、東郷大将の嘗て明言せられた所である。ところで水軍主戦の註に「主戦とはわれ亭主となりかれ客となるの意なり。主戦は客戦と違い、兵糧その他も求め易けれど、戦利を得ざる時は国の存亡にかかる故に客戦より重し」との意味で論じているのは妙ではないか。
次にいよいよ敵艦隊が出現した際、わが主力たる第一戦隊(東郷大将直率)第二戦隊(上村中将直率)は、鎮海湾を出動して沖島の北方約十海里の地点に達し、そこで敵を待ち受けていると、第三、第四、第五、第六戦隊は、敵と接触を保ちつつこれを主力艦隊所在の方へと誘うた。これが水軍でいう「豹陣」と「虎陣」とに当るので、その説明にこういう意味が記されてある。
「虎の妻を豹という。これを用いて敵を誘はば、敵侮りて迫い来るに相違なかるべく、わが思う壺に引き寄せて、亭主の虎現われ忽ち敵を噛殺す。これを豹陣虎陣という。」振っているね、「虎の妻を豹という」「亭主の虎現れ」、アフリカ原野の光景を髣髴し来る所無限の興味がわくではないか。
さて、これからが、全勝の最大原因を説明する順序になるのである。
開戦の当初は、彼我共に縦陣(敵の先頭は二列縦陣)にて相接近しつつあった。さればそのまま進航を続けたなら、双方五分五分の形勢で互に行過ぎるようになるのである。ところがこんな月並なことで満足する東郷大将ではない。実に大将には、国家の興廃を双肩に荷うている外に、更に明治大帝の御前に於て全勝を誓い奉った大責任があるので、是が非でも敵艦隊を木端微塵に打ち砕いて、宸襟を安んじ奉らねばならないのだ。今や彼我相迫って一万メートルとなり、九千となり、八千となり、戦機熟して間一髪の時となった。旗艦三笠の艦橋に屹立して敵を睨んでいた大将の眼がギロリと光り、右手を高くあげたと見る間に、颯と左方に一振した。
「取舵!」
艦長の号令が力強く響いたのはその刹那であった。
かくして東郷大将は突然針路を左折し、以て敵の前面を遮り、その戦術の「丁字」陣形を敷いて、思う存分敵の先頭を掩撃し、全砲力を集中して敵二列縦陣の旗艦をまず撃破し、敵全軍の兵気をくじいてしまった。
これが全勝の主因である。
この二列縦陣は、水軍の「衡軛の備」というのに当るのである。衡軛とは長柄の前にある横木のことで、左右両列互に相助けるの意だ。東郷大将の掩撃の態は、水軍でいう「鶴翼の備」に相当する
- もっとも「鶴翼」は船首を敵に向けているのだが、彼我の戦術的関係からいうのである - 「鶴翼の備」というのは、あたかも鳥の両翼を張りたる如く、敵に対して兵船を横に並べ、敵を包囲攻撃するに用いる陣形で、東郷大将得意の「丁字陣形」と、全然同一の精神である。而してこうう教えている。
「敵術軛に備え来らば、われは鶴翼を以て押包みて打つべし」
また別にこんな意味の説明もある。
「まず水戦の初めに、敵の先頭に立つ一艘に、味方の数艘が攻めかかり、やにわにそれを撃ち破るべし、二三艘も沈むれば敵全体の勢いくじくなり」
益々以て一致しているのは不思議に思われるばかりである。
続いて戦況はわが第一戦隊が北方を塞ぎ、第二戦隊が東方をさえぎり、いわゆる「乙字陣形」に変じた。これを水軍に照らすと「正奇の備」というので、即ち一は正面から他は側面ないし裏面から、敵を挟撃するのである。
かくて一日にして殆ど勝敗の数は定まったのであるが、ここに注目すべきは、われは終始単縦陣を以て戦った事で、単縦陣は即ち水軍にいわゆる「長蛇の備」である。水軍書はその利ある点をこう説いている。
「これは大蛇の横たわる形をいうなり、長く備えて左に敵を受くる時は右より助け、右に至れば左より救う、中に懸かれば左右より討つ、これは陣法の根元なり、四頭八尾にして相助けるというはこの陣の心なり。形は何にてもあれ、この心を呑みこみたる時は変化自在なり」
何んと移して以て単縦陣の立派な説明となるではないか。
以上は明治三十八年五月二十七日の昼戦であって、その夜は駆逐隊、水雷艇隊の活躍となっているのも水軍の「敵船敗れたる時は夜討ちすべし」に合するし、翌日戦闘が所々に分れて
も然も統一が取れているのは、水軍の「散舟その志を一にす」を実現している。
かく大観し来ると、水軍即海軍で、わが臣民と海事思想の関係には、昔も今もあったものではない。何にしてもたのもしい事で実以て人意を強くするに足るね。