前述兵学の根本義に関し、将軍が海軍大学で講義した海国戦略論の草稿(将軍自筆、明治三十六年九月の稿)の一部分を左に掲載する。これによって将軍の兵学基本観念のある物は掴めると思う(原文片仮名)。
海国戦略と題してここに戦略を講究せんとするに先ち、抑も戦略とは如何なるもので、戦術に対し如何なる差別ありやを説明し置くの必要があります。概括していえば戦略は戦争もしくは戦役に於いて軍隊を運用するの技術即ち戦争術もしくは戦役術で、戦術の戦闘術の上に立ってこれを支配し、戦闘の時、戦闘の地、戦闘の兵力を定めるものである。故に戦争及び戦役と戦闘の種別が分明すれば戦略と戦術の区別も立つべきはずであります。然るにこの戦争及び戦役と戦闘の現象が種々様々でありまして、従って何処までが戦争で何時からが戦闘の範囲に属するかの区別が容易に立ち悪いのであります。例えばここに極く近接して呼べば応ずるが如き甲乙の両国が各その全兵力を挙げ直に衝突して合戦し勝敗を決するときは戦闘も戦争も戦役も同時同地に起こりまして、戦闘は取りも直さず戦争たるが如き外観を呈しまして(奉天の戦、例を引く−と頭書あり)何処から何処までを戦術の大範囲とし、また何時からが戦役であるか、戦闘であるか更に区別の付け様がありません。故に敵と視界内に入りて合戦するを戦闘と言い、その合戦地および合戦時を定めんがために我兵力を大地域に運用するを戦役と云う学説もこの如き戦闘に於いては当て嵌(は)まりません次第であります。然しながらこの如き極端なる戦例に於いてもなお戦闘の時を定むるは戦術にあらずして戦略の掌るものであります。故にもし両軍が初めより隔離してある時日の間互いにその兵力を動かしてこの地を合戦場を定めたとすれば、ここにまた戦略は戦闘を地を定むるの仕事を為します。なお更に両軍が兵力を集散離合して虚々実々に対して遂にこの一地に終結して会戦するか、あるいは各地に分かれて個々に戦闘するときはさらに戦略の仕事は増加するようになります。これを戦略というのであります。即ち戦時、戦地、戦う兵力を定めるのであります。ここに誤解なからしめんために一言を添うるはこの戦の日を定め戦の兵力を定めると謂うことは必ずしも戦闘すると謂う意義ではありません。戦略は戦闘をするを目的とせるにあらず。却って戦闘を避けんとせることは応用戦術の総説に述べるが如くで、即ち戦の日を定め戦の地と決するという意義の内には戦闘を為す為さずと決するの意義を含有するのであります。
将軍は右の如く戦略、戦術の区別に就いて明確なる意義を下している。そしてこの両者の意義は異なるが、その根本の原理は同一であるという事を主張し、東西兵家の学説を参酌して左の如く断じている。
泰西の兵家は兵力集中を戦略唯一の目的の如く論説し、戦術の原理と異なれる如く解釈すれども決してそんなものではなく、矢張り同一のものなり。この如きは和漢の兵家が遙に達識を以て見抜き居りて、物徂徠のツ録戦略編等を見れば吾人の祖先の見識の高いのがわかる。(中略)戦術に於ける戦闘力の要点が攻撃力、防御力、運動力、通信力にあると等しく、戦略に於ける戦争力の要点もまた同一なり、ただその種類を異にするのみ。