兵理の会得

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 次に将軍が軍書を渉猟(しょうりょう)した学究方面であるが、支那の孫呉から西洋のブルーメ、メッケル、我が国各流の軍書は勿論の事、苟も軍書の名の付くものだったら手当たり次第に読破した。しかもそれが単なる軍書ばかりでなく、馬術、弓術の如き武芸書まで、苟も事軍事に関するものだったら抜目なく眼を通した。これはつまり馬術なり弓術なりその原理を抽象して、軍学に応用しようとするのであって、将軍はまたこういうことにかけては独特の才があった。
 この点からいうと、秋山軍学なるものは非常に帰納性に富み、同時にまたあらゆる軍学の綜合だとも言い得るのである。現に将軍が大学校に於ける兵学講義中に左の訓言を学生に与えた事があったが、それは取りも直さず将軍自身の態度を移して以て学生に示したものだ。

 諸君願わくは自ら兵理を会得せんには戦史の研究、各種兵書の渉猟を敢行されんことを、これ実に諸君の術力を増加する唯一無二の方法である。講座にて教官に聞く所は啓発の端緒となることはあっても、ただ斯くの如きこともある、これもある、という知識の増加で力は増加しないのである。即ちこれら戦史、兵書より得たる所を自分にて種々様々に考え、考えた上に考え直して得たる所こそ実に諸君の所有物で、たとえ観察を誤ることあるもなお百回の講座に勝る所得である。殊に兵術は口で言い筆で書いたものではない活術で、各自の研究により会得する外はないのだ。

 既にこの用意ある将軍である。ひとり弓馬に限らず、あらゆる種類のものを凝結して自家薬籠中の物にしようとする態度は、この事を以て相察できる。更に、将軍が造船術を専門的に深く研究した一事は、海軍戦術家として有り得べき事には違いないが、しかもその徹底振りには今更の如く驚嘆せざるを得ない。海軍逸話集に次の事が書いてある。

 秋山将軍が世間でアレ程の戦術家戦略家といわれるには、青年将校時代から専らこの方面に関する文献のみに没頭したかのように想像している人も多々あろうと思われるが、戦略戦術に長ずるには、ただこれだけを研究したのでは充分とはゆくまい。その基は何というても艦であり人でなければならぬ。将軍は実に青年将校時代からこの点にも余程力を注いでいたらしい。艦はその構造により。耐波性にも関係があり、速力の関係もある。武装にも、安住性にも影響する、その他武力発揮の上に、万般のことを左右する根幹であることはいうまでもない。これを専門家即ち造船家だけに任せて、唯々諾々造ったものを利用するだけでは将来艦長となり幕僚となり、司令長官となるべき将校の職責を尽し得るものではない。将校も相当に艦の構造の知識も知悉(ちしつ)していなければ、大戦術家になれない。それと同時に人も知らなければ、その教育も、統御も出来ないからである。今人の問題はさし置いて、将軍が艦の構造に就いて、如何に早くから研究していたかを少し紹介してみよう。
 造船中将浅岡満俊氏は当時造船大技士で、横須賀に勤務して居られた。日曜などには、同郷出身であった関係上、秋山中尉が造船書を抱いて、根気よく氏の許に通ったそうである。そしてその質問振りを見ても、当時既に相当権威ある持論を有っていたということである。同僚の多くが或いは散歩に、或いは料亭に、貴重なる時間を空費していた際、寸暇を惜しみて、斯くの如く将校の余業と考えていた造船術に関して、夙に着眼し、孜々(しし)その堂奥を探らんとしたところに、将軍の面目が躍如たるかのように思はれる。
 後日日露の役、三笠艦上にその籌算(ちゅうさん)奇謀を捻出した将軍の頭にも、斯かる用意のあったことを聞いて、その偶然ならざることを深く感ずる次第である。


 渉猟 : たくさんの書物を読み漁ること
 知悉 : 細かい事まで知り尽くすこと
 孜々 : 熱心に励むこと
 浅岡満俊 : 1861〜1936。松山藩出身。佐世保工廠造船部長、技術本部4部長などを務めた。