和漢洋片っ端から渉猟したとはいっても、それらの書籍は固より玉石同架で、その間将軍の選択眼が鋭く働いていた事は申すまでもない話である。
従って将軍が特に愛読し、常住の参考としている書籍がなければならないはずだが、それをいろいろの点から考察してみると、和書では甲越の争いに関する兵書、山鹿流軍書、漢書では孫子、呉子、洋書ではブルーメの「戦略論」などがそれである。中でもブルーメについては将軍とは同郷の竹内重利中将が次の如き回顧談をしている。
日露戦争が終わって、自分は米国駐在を命ぜられた。当時秋山君は海軍大学教官となって居られ、かつまた曾て米国駐在の経験を持っておられるので、出発前同君を訪問して、教えを請うた。秋山君曰く「自分は渡米の際、ブルーメ戦略論一冊を携帯して、その他の書籍は何も持って行かなかった。この戦略論は陸軍的ではあるけれど要点は総て海軍にも応用し得る。それで着米後は無論専ら米国軍事の研究に従事したけれど、暇ある毎には必ずこの戦略論を繰り返し通読咀嚼し、それより得たる結論を米国軍事研究上に応用して、海軍学の基礎根底を作った。今日大学校にて戦略戦術を教授し得るのもこの根底に因るのである。外国に行くときに、徒に雑多の書籍を携帯するのは自分は大反対である云々」。私は無論秋山君の如き偉人ではないけれども、君の教訓に従って研究を続け、凡人相当の効果を収めることができた。
また山本英輔大将は将軍から露国の海将マカロフ将軍の「戦略論」を貰ったと話している。将軍にその著述を読まれた当のマカロフ中将が、将軍の案出した作戦にかかって戦死したなどは皮肉の話ではないか。