親に孝なるもの子女に厚きはこれまた自然の理である。
将軍には四人の男児と二人の女児があるが、これらの子女に対して、将軍は厳父として且つ慈父として誠に一個善良なる父であった。外軍務に鞅掌する傍ら、内よく子女と戯れ遊んだ。三軍を叱咤する将軍も若し興に乗れば、子供と一緒になって、夏の日など真っ裸で水合戦をしたりしたものである。
絵が堪能な将軍は、子供によく絵を描いてやった。それが多く馬の絵であった。そして子供にも絵を描くことを勧めた。その練習の手本だというので、将軍は一時絵葉書の蒐集(しゅうしゅう)に非常に凝ったことがある。日露戦争当たりから絵葉書が一きは流行を極めたものであったが、将軍は子供のために、毎日役所がひけると東京市内のあちこちの絵葉書屋を歩き回って、絵葉書を買い集めて来ては子供達を喜ばせた。今日は銀座のだ、明日は神田のを買って来てやるといった工合であった。
こういう慈愛の一面では、将軍は子女の教育という事に少なからず意を用いた。行儀などに対してもかなり口喧しかった。食事の時など例の無造作な性格から、自分では妙な格好をして箸を執りながらも、子供達に対しては、いつもキチンと行儀よく坐らせていた。
就中(なかんずく)長男の大氏を導くために将軍は余程心を使ったらしかった。将軍は人も知る如く、晩年は霊界方面に非常な熱意をもって進んで行ったが、自分のこの思想の後継者として長男の大氏を精神界に導くのに努力した。
ある日将軍が大氏を石龍子のもとに伴った時、石龍子は大氏の骨相を観て、「この人には敬神の念がない」と言ったので、将軍は愕然としてそれ以来大氏の心に敬神思想を扶植する事に力め、暇があると市内外の各所の神社に大氏を連れて参拝し、専ら神に祈る途を教えたという。その上将軍は臨終に際しての大氏に対する遺言が「心の人となれ」というにあった。
大氏は今は亡き将軍の遺志を完全に継いで専ら精神界研究のため、仏教その他の宗教学を究める事を以て天職としている。
かくの如く将軍は子女の教育には熱心であった。
なお余談ではあるが、将軍には子女の名を付けるに当たり一つの主義があった。それは名前は簡単を旨として一字名とし、字は子供が幼時からでも自分の名だけは書き覚え易いようにと、出来るだけ劃(かく)の少ないものを選び、しかも原則として「シンメトリ」即ち左右同形の文字を以てすることにしていた。将軍の息の名大(ヒロシ)、固(タカシ)、中(タダシ)、少子(ワカコ)、全(ヤスシ)、宜子(タカコ)等みなこれに合致するもので、ただ少子だけがシンメトリの原則を少し離れているが、これは大中に次ぐ小より来たものである。