読書三昧

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 将軍は絶倫の読書家だった。
 将軍の素質には幾多天賦によるものが多かったが、その天禀の才を培って、偉大なるものたらしめたものは、この後天的の読書癖であった。読書癖といっては語弊があるかも知れないが趣味というよりももっと根強い努力的なものがあった。
 将軍は人の談話を聞くにも、何かを計画するにも総てそうであったが、物を組織的に整理するに独特の才があった事は十目の見る所である。この才能が特に将軍の読書の上に於いて最も顕著に働いた。物を組織的に整理する力は読書の場合では、巧みに要領を掴むということである。そしてその掴んだ要領はなかなか放さない。書中のどんな事を聞かれても、それが急所の質問だったら将軍はいつでも遅滞なく答えたものであった。随って将軍は一旦書中の要領を頭に入れてしまったら、これを蔵書として独占するよりも出来るだけ多くの人に読ませたいという主義であった。だから読了すると片っ端から知人にくれてやるのが常だった。
 将軍没後、将軍が読破した何万巻の書籍を以て文庫を作ろうという相談が起こったが、右のような次第で、それは結局沙汰やみになってしまったという話もある。
 将軍が同好の士に贈ったそれらの書籍には、必ず朱筆か鉛筆でもって圏点(けんてん)と批評が書いてあることは前にも書いたが、これは将軍が如何なる書籍に対してもこれを参考書として読むの用意を忘れなかったもので、書を読んで書に読まれることがないよう、厳粛なる批判者、冷静なる研究者として常に自分を書外の一点に置いて読書していたことを示すものである。

 圏点 : 強調箇所、注意すべき箇所を示すために、文字の横わきに付ける傍点。