将軍は酒を嗜んだが、、決して酒に淫することはなかった。将軍と姻戚関係のある奥平清貞氏が海軍技師として鎮海に勤務中、将軍の軍艦が入港すると、よく奥平氏の家に泊まったが、将軍の酒に就いて同氏は次のように語っていた。
秋山将軍は酒が好きであった。
一体軍艦生活というものは居間も寝室も立派だし、食物でも洋食の食いづめで陸上より遙かに贅沢だが、しかし結局は一つの軍艦に閉じ込められ、檻の中の生活のようなものだから、不自由な点では決して愉快な生活という事は出来ない。だから士官でも水兵でも軍艦が港へ着くと争って上陸する。上陸すると先ず何よりも先に求めるのは酒だ。
秋山将軍もその点ではやはり御多分に洩れなかった。将軍が私の家に見えられる時は、いつも真っ先に「酒を出してくれ」と言われたものだった。
軍艦が入港した時、将軍は他の士官たちと一緒になってよく酒を飲んだ。そんな時にはいつも誰よりもはしゃいで唄え飲めで騒いだものであったが、その代わり一旦軍艦へ帰ったとなると、酔いなどはどこかに吹き飛んだようにまるで別人になって執務するのが酒呑みとして将軍の最も好い所であった。これには他の士官も舌を巻いて感嘆していた。
これは将軍が同じ酒好きでも過度に暴飲しなかった事を説明している。実際将軍は愉快に明るく酒を飲んでいる人であったが、酔態というものを一度も人に見せたことがなかった。
右の奥平氏の話からでも想像出来るが、将軍の酒席に於ける態度は、非常に朗らかであった。かつて日露戦役後旗艦乗組員の凱旋祝賀会の席上、将軍は指名さるる儘に隠し芸として長唄の勧進帳を一くさりやったのには並居る一同アット言った。将軍が長唄を知っているなど誰も意外であった。
戦前にはまるでそんなものは知らなかったし、戦時中はそんなものを研究している余暇はない。一同不思議に思って「秋山という男は底の知れない怪物だ」と言ったが、豈計らんや、横浜碇泊中旗艦敷島の幕僚室で、蓄音機でひそかに稽古していたものだが、万事につけて器用な将軍は乗組員の気づかぬ程の短期間に、早くも宴会に披露出来るほどに仕上げたものだった。兎に角一国の軍隊の死活を決定する作戦計画にしても、こうした一席の戯事にしても、動もすれば人の意表に出るのが将軍の持前であったらしい。
また将軍は前記奥平氏の話のように同僚の士官達と一所に集まって飲むこともあるが、飄々乎として一人で飲んだことの方が寧ろ多かった。軍艦が寄港地に着くと、一人でプイと上陸して旗亭にあがり、多くの芸妓を聘げてチビリチビリやりながら勝手に勝手放題の事を喋り散らかして、さっと引上げるというやり方である。この「飄々乎」という感じは、酒ばかりでなく、将軍の言動のうちに屡々現れる。これは確かに将軍の性格の一面であったろうと思われる。
また将軍の酒席に関した話では、次のような逸話が残っている。話者は小笠原中将である。
明治三十九年正月四日の事だったと記憶するが、水交社で新年祝賀会が催された時、余興に大相撲があった。恰度(ちょうど)角力が済んだ時に傍らで見物していた八代大佐(故六郎大将)が、当時中佐であった秋山中将と余に「食事をするから来ないか」と云うので、中佐と余とは招かれて築地の一割烹店に行った。すると八代大佐は「今に常陸山ここへ来るから紹介しよう」という。間もなく常陸山が来た。種々壮快な相撲の話に花が咲いた時、常陸山は何と思ったか突然着ていた紋付の羽織を脱いで「どうかこの裏へ寄せ書きをして頂きたい。」
という。何でも無地の七子か何かの裏だったと思う。請に委せて三人は各々酔筆を揮て書き終わった時に、秋山中佐は微笑を含みながら常陸山に、「この羽織は大切にして置き給え」といったので八代大将は傍らから「どうも豪い気焔だな」といって笑った。その時に中佐は同じく笑いながらではあるがどこか真面目な力の籠った調子で「いや君、そりゃ実際だよ!」といわれた。実にこの一語にもその見識の程が窺われるではないか。
この正に家宝に値する寄せ書きの羽織は、震災当時常陸山の郷里に持ち帰ってあったので、幸いに災を免れて今なお同家に保蔵されているということである。