熱火の愛国心

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 将軍の燃ゆるが如き愛国心に至っては、今更細説を要せぬところである。
 大正七年六月、芝青松寺に於ける将軍の追悼会の席上、将軍の令兄秋山好古大将が言われた一語「弟真之には兄として敢えて誇るべき何物もない、が、しかしただ一事、私から皆様に申しあげて置きたいのは、弟真之はたとえ秒分の片時たりとも「御国のため」という観念を捨てなかった。二六時中この観念が頭を去らなかった。この事だけはハッキリと兄として言い得ると思う」と。
 この言葉は誠に至言であった。追悼会に列する者一人としてこれには異議はなかった。もって秋山真之将軍はが如何に熱烈な愛国者であったか、この一事だけでも明らかである。また将軍がその晩年に於いて兎もすれば奇矯な言多く、就中軍務局長時代の如き余りに献策多きに過ぎて、上長をして殆ど応接に遑(いとま)あらしめざりしというのも、事悉く国家施設の問題で、その一として愛国の至誠より出でざるはなかった。
 日露戦争の末期、将軍と共に連合艦隊参謀として、また戦後も特別の知遇を受けていた清河純一中将は将軍のこの熾烈なる愛国心に対して次のように語っている。
 
 将軍がその死病であった盲腸炎を始めて病んだ時のことだった。病篤しというので秋山家から使いがあったので、私は取るものも取りあえず飛んで行った。
 その時将軍は襲いかかる患部の激痛のために顔一面ビッショリと冷汗をかいて居られた。にも拘わらず、その苦痛を抑えて私を引き寄せ、その頃問題になっていた艦隊補充計画を初め、海軍の重要問題に対して悉く自分の意見を述べ、こうして置きさえすれば万一、九州の一部を一時的に委する様な苦境に陥っても、終局は必ず勝って見せる、この事は書きはじめようとしてい居た所へこの病気如何ともする能はず、仄聞(そくぶん)する計画はよくないから、この意見を至急次官、次長に咄(はな)してくれと謂われた。将軍がこれを語る間、さしこんで来る激痛を押し堪えるため油汗がにじみ出て額から流れる、一語また一語、気息奄々、真に文字通りで、私は将軍の熱烈なる至誠に打たれ、「世に国士というのは、真にこの人のこと」とつくづく感じた。
 実をいうと、それまで私は秋山という人の学識才略には尊敬していても、人間「秋山」として別に感心も何もしていなかったが、この時ばかりは、その愛国の至情に打たれ、将軍の至誠が将軍の瑕瑾(かきん)の総てを掩(おお)い真に心の奥底から景慕の念が湧き起ったのであった。

 この話は清河中将生涯を通じての一大感銘であったものの如く、中将は談秋山将軍に及べば必ず進んでこの事を語り、「自分はあの時ほど憂国の熱誠を身に沁みてヒシヒシと感じた事はない、それであるから、後日紅葉館に於いて将軍追悼会の席上、令兄好古大将が謙譲翼々の謝辞中、「ただ真之が終始一貫お国を中心に考えて居た事だけは確かであります」と述べられたとき、全くその通り、その一語万事を竭(つ)くす、兄克く弟を知ると感じたり」というのである。また「晩年編」佐藤中将の言の如く秋山将軍が余りに日米戦争の作戦に凝り過ぎて頭脳を害したというのも、その一班を説明するものだ。晩年将軍の言の奇矯を酷評するもの時に「秋山狂せり」とまで極言したものであるが、仮に一歩譲ってもし果たしてそれが「狂」なりとせば、それはまさしく「愛国狂」と称すべき「狂」である。狂は狂でも寧ろ将軍の名誉であって、狂するほど国を愛する者果たして凡々の士に見ることが出来るであろうか。
 凡そ帝国軍人たるもの誰一人として忠君愛国の赤誠を持たざるものはあるまいが、秋山将軍に於いて殆ど愛国心の白熱点にまでその熾烈さを見るのである。


 仄聞 : かすかに聞くこと
 瑕瑾 : 欠点、短所