将軍は日露戦争中連合艦隊先任参謀として専ら作戦計画の衝に当たり、小は艦隊の勝敗より大は国家の荒廃に至るまで己の方寸に掌りたるため、時に難に臨み危に際しては人間力以上の何物かの力を感じ且つ認めざるを得なかった。将軍の執筆に成れる連合艦隊の日本海海戦報告書の冒頭に「天佑と神助に依り」とあるに微してもその一端を窺うことが出来る。而も重任を負う将軍としてはこれを簡単に天佑とか天災とかの一語を以て片付けるには余りにも大きな且つ不可解な力であったに違いない。何事をも徹底的に究明せねば置かぬ将軍の性格は、戦争終了後直ちに霊力の研究を始め、やがてそれが宗教研究にまでつき進んだのである。
将軍の宗教研究は最初神道より行われた。神道家川面凡児氏はその頃将軍を導いた最も良き伴侶であった。当時の両者の関係は浅からぬもので、将軍は川面氏によって神道を知り、川面氏は将軍によって世に紹介された観がある。二人が結合の結果創立された皇典研究会は、この道に相当大きな足跡を残している。
が、将軍の宗教研究はなお神道をもって足れりとせず、更に仏教に転じてこれにも没頭した。それがため小笠原長生子や佐藤鉄太郎将軍の日蓮宗の団体天晴会に関係したこともあった。将軍が仏教から受けた影響の如何に大きかったかは、平常観音経を袂に入れ、臨終の節にはその朝般若経を誦したということだけでも知られる。
将軍は右のほか基督教(キリスト教)を除いては、種々雑多の宗教に手を伸べて研究した。だから要するにその態度は一個の宗教を得てこれに帰依しようというのではなく、各種の宗教の原理を抽出してそれを総合した上、確乎不抜の真理を把握しようとしたのである。丁度将軍がその専攻の軍学で、あらゆる軍書をあさって一つの真理、戦術に帰納しようとしたのと同じである。「兵学編」にある如く、ここでも黒砂糖から白砂糖を得ようとしていたのである。
そこで将軍がかくの如くに精神界の真理把握に力めたその窮極の目的は何処にあったのかというと、それは一個の人間としての人格完成にあった。そしてこの人格完成をもって国民精神の基調としようというのであった。
将軍は宗教の研究に力を入れながら、既成宗教の形骸化に対して軽蔑していた。内容−原理が主眼だったので、それがために大本教や池袋の神様の如き新しい宗教に対してこの原理探究のために相当関心を払い、あるいは進んでその中に入って行ったが、決してこれに対して絶対に帰依したのではない。結局空疎なる内容に失望してまた仏教に戻って来たのである。要するに将軍が自分一個の心に独自の宗教を大成しようとするために、大本教その他も原理把握前の一素材として接近したに過ぎなかったのである。
しかし将軍が大本教の狂言者であったとの誤解は今なお世間で相当大きい。が、これは将軍と生前交誼があっても、将軍の精神内容に触るる暇なかった人にこそこの誤解は存すれ、少しでもその点に触れている人は、いずれもそれを否認しているのである。