愛剣挿話

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 将軍は刀剣を愛した。鑑刀の技に至っては玄人の域に達して居た。それには岳父稲生真履翁に負う所が多かった。稲生翁は帝室博物館学芸委員で、書画刀剣の鑑定家としては一方の権威である。鑑刀の技はなかなか容易ではないのに、将軍の行くとして可ならざるなき例の天才で僅か五六年の間に、しかも談笑裏にいつの間にやら鑑刀の奥義を呑み込んでしまった。
 将軍はかつて呉軍港の古物商からすっかり錆ついた無銘の一刀を見出した。一見見る影もないみすぼらしい刀であったが、将軍はその鑑定眼で確かに一文字作と睨んだ。そこで刀を買ってきて舅の稲生翁に見せると、はたしてそれは一文字の祖則宗であったので、翁は僅かの間に進歩した将軍の鑑定眼に驚いた。翁は早速金粉で則宗の銘を入れたが一時将軍が献じて松山市の名城勝山城(加藤嘉明築造)の天守閣に飾られてあったという名刀はこの則宗である。今は秋山家に蔵せられている。
 稲生翁がかつて伯耆国眞守、大和千手院の二刀を発見して、これを買い入れようとした時の事だった。翁は真物と鑑定をつけて買おうとしたが、まだ何とやら不安が残るので、念のため将軍に見せて相談した。将軍は一見して眞守の真刀たる事を看破すると、急にそれが欲しくなりだした。
「阿父さん、これは眞守に間違いありません。しかし私の名はご存じの通り真之です。真之を守るのは即ち眞守、これは身の守りに私が頂きたい」
 うまい理屈をつけて、将軍は横合いから自分が買うと望み出した。ところが眞守といったら千古の名剣、翁の方でもウンとは言わない。
「それはお説御尤もだ。だが、真之を守るのが眞守なら、真履を守るのも真守だ。ご存じの通り儂の名前は真履だから」。
 これで父子二人の「真」が同じような理屈を言って降らない果てがつかなくなった。とうとう最後に妥協して、稲生翁が伯耆國真守を手に入れる代わりに、将軍がもう一本の大和千手院をもらうことでやっと鳧(けり)がついたという話。
 秋山家の話では、将軍が特に愛好した刀は関物であったという。最初稲生翁に刀剣が何がよかろうと聞いたら関物がよいという答えだったので、それ以来関物を愛し、孫六、兼定を数本所有していた。現に日露戦争に佩して行った短剣は兼定であった。村正なども愛しこれを相当に集めていたということである。