修養の人

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 将軍は天才の人であると同時にまた修養の人であった。
 将軍が自分の欠点弱点と思う所に、如何に修養これ力めて矯正しようとしたか、あの無造作な性格の人として、いささか意外の感なきを得ないのである。
 将軍が自分の性格のうちで最も欠点と見たのは短気であった。幼い時しばしば近所の友達と喧嘩して相手をやっつけては尻ばかり貰っていたのは、つまりは幼少から短気な性格であったからだった。
 将軍は成長して後この短気の性格を矯めるのに余程の苦心を払っていたものと見えて、軍艦三笠の副長時代、副長室の天井と本棚の下に「短気は損気、急がば廻れ」と紙片に書いて貼って置き、それを座右の銘としていた。
 こうして日頃の修養は殆ど理想に近い域まで将軍の欠点を匡正(きょうせい)していたらしかった。将軍が副長や、艦長や、水雷戦隊司令官として部下から推服尊敬されていたのは、そうした修養の結果に於ける寛大性(一つは人情深い天性にもよるが)の賜であった。
 明治二十七年十二月三十日の事であった。むろん日清開戦中の話であるが、当時将軍は軍艦筑紫の航海士であった。
 その日の正午、大連港の戎克湾で陸海軍合同の宴を神戸丸で開き、会する者四百名に及んだ。その席上で将軍は血気にはやる青年時代の元気で、仁礼大将の令息で、酒狂の評のあった同輩の景一氏と言葉の争いが募って大々的の格闘を演じた。その結果、将軍はその有名な乱暴者のために前歯を二三本折られた。将軍も相当に酒が廻っていたらしかった。
 が、将軍は後になって、酔余ではあるが自分にも非があり大人気ない事に気づいた。で、前歯を折られながら、翌日仁礼氏をたずねて進んで握手を求め、極めて虚心坦懐(きょしんたんかい)に仲直りをした。仁礼氏の方では思いがけない将軍の寛大な態度にすっかり恐縮してしまったという話だ。これは将軍が自分の短気を顧みて、深く反省し矯正に努めた結果だと思う。 

 匡正 : ただすこと。
 推服 : 敬って心から従うこと。
 酔余 : 酒に酔ったうえでのこと
 虚心坦懐 : 何のわだかまりもない素直な心で物事に臨むこと。