林檎と放屁

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 日本海海戦の前、連合艦隊が、敵艦隊を迎撃するのを対馬海峡にするか津軽海峡にするかの重要会議が三笠艦上で行われた時、あの緊張し切った空気の中で、将軍が東郷長官の面前にも拘わらず無造作に手を出して卓上の林檎を食ったというような話が伝わっている。
 が、中にはこの一事を将軍のわざとらし衒気(げんき)のように言う人もあるが、それは当たっていない。将軍は実際そういう性格の人なのだ。その前にしても、将軍は東郷長官と食事をしている最中まだ食事が済まず、デザートの時でもないのに卓上の果物をヒョイと取ってムシャムシャ食うことは屡々(しばしば)あった。これは食事中将軍が何か作戦上の事でも考えていて、無意識にやっていた事らしいと菅野中将が話していたが、実際将軍として有り得べき事である。
 将軍は執務しながら、よく放屁をする人であった。しかも妙な癖で殊更力を入れて勢いよく一発放って置いて、
「ああ、屁か!」
と言って、笑いもしないで済ましている。
「実際秋山という人は変な人だったよ」
 飯田中将が笑いながらその話をしていた事があった。
 こういうわけで、磊落から来る無造作のため傍若無人の挙動も屡々あったが、それが作為的でなく別に悪意があるわけでもないのであるから、それで通っていたのも蓋し将軍の一徳というべきでもあろうか。
 この性格は、また一面家庭の人としても屡々現れていた。食事の時間に、夫人が折角料理の用意に取りかかっていても、不意に外出していつまでも帰って来ないというようなことがよくあった。そして思いもかけぬ時刻に帰って来て、急に膳の用意を命ずるという風だった。何か重要なことを思いつくと、眼前の食事などは忘れてしまうらしい。ここいらが世間でよくいう天才気質なのであろう。 
 そういう無造作でいて、服装に対しては編に厳重なところがあった。殊に軍服に対してその傾向が強かった。例えば胸部に下げる参謀の飾緒にしても、誰しも装飾的にダラリと下げるのが普通であるが、将軍に限って、胸部というよりも直ぐ襟の下から出来るだけ引き締き詰め、少しも緩みを見せずに佩用するのが常だった。
 その他帽子にしても 、縁をいつもピンとさせて置くのが好きで、上衣にしても、人並低い身長に準じて短くするという具合に人一倍意を用いていた所がある。あの無造作の性格に対して、服装に対するこの綿密さだけは不思議であった。


 衒気 : 自分の才能などを見せびらかして自慢したがること
 磊落 : 度量が広く、小事にこだわらないこと