秋山将軍は非常に親孝行であった事は、幼年篇にも書いたが、厳父の死後母堂は東京の将軍の邸に起居されていた。母堂は非常に将軍が可愛かったので、日露役の出征中は勿論、平時の公開中でも屡々母堂から将軍に対して送り物をされていたようだったが、そんな時将軍は包を解く前必ず押し戴いてからするのが例だった。あの無造作で時に傍若無人でさえあった将軍だけに、これは一入厳粛な気がする。
母堂の三年忌の法要の時、将軍は「お母さんは煎餅が好きだから」といって特にそれを供物のうちに加えられたのも一佳話であった。
日露戦争直前、将軍は確か青山高樹町に住んでいたが、この頃近くの親戚の家に家人が貰い湯に行く習慣になっていた。その頃母堂は病気で足腰が充分でなかったのであるが、将軍は当時既に海軍左官であったにも拘わらず、いつも自ら母堂を背負って貰い湯の往復をしていたのには、見る人感嘆せざるはなかったという。因みに日露戦争当時[注:この記述は誤りで、日清戦争中である]将軍が陣中より母堂に送られた書翰を左に収録する。文中「空豆二三斗」の一句痛快でもあり滑稽でもある。
御待兼の旅順大軍港も一昨日廿一日僅か一日の攻撃を以て容易く我軍の手に落ち先づ先づ一安心御同様万歳の至りに御座候。当日我筑紫は第四遊撃隊赤城、大島、鳥海の三艦を率いて払暁旅順の砲台下に現出し数時間の黄金山、饅頭山、威遠、牧猪礁、■[山ヘンに勞]律嘴、城頭山等の諸砲台と対戦以て海岸の敵兵を牽制し陸軍の背面攻撃を容易ならしめたり、吾海上の砲戦始まると間もなく陸軍之に応じて、猛烈なる背面攻撃を始め天尚暗ければ山上山下の大小砲火銃声真に凄じく一時は中々の激戦なりしも遂に午前九時頃敵の背面防御砲台の左翼吾陸兵の攻略する処となし是より各塁次第に陥落正午頃海岸砲台も黄金山、饅頭山の外皆発砲を止め崩れたる敗兵群をなし海岸に沿ふて東方大連方面に逃走する模様なれば吾第四遊撃隊の各艦は海上より敗兵の郡中に榴弾を放ち大に之を苦しめたるは当日の大快時に相覚申候。扨(さて)黄金山砲台も其夕景に陥落饅頭山は廿二日陸兵難なく乗取り旅順軍港全く吾手に落ちたす次第に御座候。然るに廿二日は北風頗る烈しく吾四艦は小濱島に風波を避け廿三日早朝旅順港口に来りて見れば海岸砲台には我日章旗已に翻り居り一同万歳を唱申候。廿一日の砲戦には吾四艦就中本艦は敵の猛烈なる砲撃を受けたれども幸に艦体少傷なく只鳥海の軍艦旗被弾の為破られたるのみに止り候。陸上も中々激戦の模様、本日鳥渡旅順市街に赴き候処敵兵死屍累々之に反して我軍の死傷金州以来三百を越へざるとの事に御座候。本日途上家兄にも解逅し馬上にて互に無事を祝し申候。戦利品は不相変沢山其内大なるものは、敏、超、海等の三小艦も御座候。船渠、機会工場、水雷営等悉皆其儘吾手に帰し砲台の大砲のみにても七十余門もあり兎に角非常の価ある物に御座候。目下敵の艦隊は威海衛に潜伏せるも敢て出でず最早闘志なきものと被察候。何れ詳細の報道は各長官よりの報告として新聞紙上に現れ可申吾々は戦地にあるも全体の事少しも不相分候。当地寒暖計廿六度より三十余度の間に昇降し強勢の北風屡々来り小艦の勤務中に骨折れ申候。小生元より非常に健全陸軍の家兄も色黒く肥へ太り勇気凛々と致し居り本月初金州攻撃の前日一中隊の騎兵にて敵の大兵を破り分捕を数多くなしたる由自慢話被致候。何か幸便あれば豌豆及空豆二三斗計りイリテ御送被下度候。
十一月廿三日 真之
母人様