加藤拓川の真之評

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 加藤拓川にとって真之は、親友 秋山好古の弟、甥 正岡子規の親友である。加藤は「秋山真之の似顔」と題し、子規や当時の政治家たちと比較しながら、真之の気質や性格を次のように論じている。


 剛毅は星亨に、公正は浜口雄幸に、才智は原敬に、清廉は尾崎行雄に、雄弁は犬養毅に、ブッキラは加藤高明に。

 外ブッキラ棒、内親切、加藤高明に似たるものは、秋山真之君である。星、浜口、原、尾崎、犬養、皆一世の雄、一大政治家、一身を忘れて国家の重きに任じた。しかし短所もある。短所を掩うて、長所の益々発達助長したものである。
 正岡子規の剛毅は血統に出ず、故に縁につながる我が輩にも剛毅闊達を見た呵々、命旦夕に迫るも筆を捨てず、死後を叙し、火葬を記し、悠々として死生の外に超然たるものがあった。幼少既に負けじ魂を子規に見た。その剛なる子規が、剛友秋山真之君と呼んで、剛気に感服していたのだから、秋山君の剛なる所以を解せらるるであろう、哲学を研究したことなど子規と軌を一にする。
 居常読書を好みあらゆる研究に没頭したことは星亨そのままである。己が信ずる所を押し通した、精神主義の星亨を髣髴せしむる、星も公使として亜米利加に、秋山も駐在武官として亜米利加に、米国を透視、研究して、星はその黄金万能を学んだ、秋山はその尨大気質を、推理究明して、米国恐るに足らずと喝破した。秋山君は日米の開戦また止むべからずと覚悟して居た。
 浜口は坂本、馬場、武市、中井、板垣の土佐人気質を完全に受け継いで公正厳直、殉難報国その及ばざらん事を恐るの態度、土佐の先輩を辱めない。秋山の少年時代より経書に親しみ、孟子の気質に負うて秋山家の家憲自主独立を奉ずるや、荀も公正厳直に背くを許さなかった。
 原敬の自ら内閣を組織して、与党の多数を制しながら、議会解散の一大鉄槌を揮うて、敵党の心胆を寒からしめた芸当に至りては、秋山君の剛毅と果断と相一致する。日本海海戦の一撃がなければ、必ず浦監港口の一撃があるべく、何れにしても一撃は秋山の常套語であった、そして用意があった。
 秋山君のこの気質は幼年時代より此隣を驚かした。学校遊戯の間にも、郊外戦闘遊戯の間にも、隙に乗じて、他の意表の外に出る、大胆にして豪快なる神童の名を博した日本海の戦禍漸くおさまり、降服敵艦受領の使命を帯びて敵の旗艦に乗入らんとする意気、既に敵を呑んで居る。原敬の我が輩に対し、秋山真之、何たる好漢ぞ、松山には案外人物が居ると快笑したるが如き中々面白い。
 尾崎行雄の二十歳にして己の国葬を叫ぶ、太だよい、理想は高きほどよし。四十にして大臣たりしまたよし。秋山君を以て尾崎に比す、その清廉にある、故伊藤博文公に追随して宮中の信を恢弘(かいこう)せんとし、敵党に大陣笠を自称して節を屈する秋山の近衛公に知られて露国打つべしと進言した如き、何れか甲、何れか乙、相比するに及ぶまい、愕堂(がくどう)に欽すべきは清である、ああ清である。廉直である、愕堂の政界五十年の生活、その成るも敗るも悉く清の致す処である。政界人多しと雖も、明治、大正、を通じて清の第一人者たるに背かない、愕堂常に独乙(ドイツ)人の聴明と、負けじ魂と、廉直を説いて止まない。秋山君また独逸に学べ、独逸の気骨に倣えと、勧説力行止まなかった。しかし独逸は最後の運命、惨たるものがあった。因は軍国主義たる所以のみではない。列国の嫉視(しっし)はその正にあった。清にあった独逸は巧言令色の国ではない、寧ろ正義の国である。軍国主義を円曲に振り廻し過さず、余りに露骨に過ぎた、露骨は正直の致す所、愕堂の正と清は時代に超越し過ぎた、小人跋扈(ばっこ)の現代に、正と清との一点張りを許さない、而も愕堂の偉人たるを失わない如く、秋山君の偉人たる所以もまた清にある。
  犬養毅の弁は低声であるが荘重である。滔々(とうとう)懸河の弁ではないが、一言一句に底力がある、威力がある、正々堂々である、漢学経書に負う処が多い。
 秋山君の弁は沈重である、声量もある。政談は畑違いではあるが、行らせれば立派に行って除ける事、請合である。少年時代、付近の野に出て咽喉を掘り、胆を練った、宝である。同輩を集めて高台に立ち、天地の大道を説くや、大声一喝四隣を圧したものである。弁論家として一家を成してもよかった、これまた漢学経書に負う処、犬養と相同じ。
 ブッキラ棒は加藤高明に、対照の妙、神に入らん、人を叱しても、他を褒めても、唯一と口である。淡々率直なものである。故白石(海軍少将)の兵学校入学受験当時の逸話がそれだ。これこれ斯く斯くの禁制、督励の箇条箇条が実行出来るや否、然らざれば仮令(たとえ)父兄折角の依頼でも、気の毒だがお断りする。万事この徹りである。イエースか、ノーか、話は早いのである。内に情熱、外に冷静、三尺の孤児を托するに足るものがあった。艦内生活にも東郷長官に対しても無駄な御つきあいは御免を蒙ってサッサと居室に退き職務と修養に努めたと云うことだ。居常言詳しくして、行に敏、丁度加藤高明のブッキラ棒その儘であった。何の曲も何の風情もない、実に癪とさえ感ぜられた。秋山君の事を執るや、諄々として、利害を説き、行く手を指呼し、修養と準備、積善積徳を薦め、縷々(るる)として数百言、懇切叮嚀至らざるなしであった。衷心より迸(ほとばし)る情熱は触るるとも焼けざるなく、熔けざるはなかった。言行一致と云うも、言った丈けのことを必ず行う主義であった。行ったことが、行ったことと違うや否やを顧慮する用はない、と云う風であった、原敬に似てソックリである。



 恢弘 : 事業や制度などを押し広めること
 愕堂 : 尾崎の号
 嫉視 : ねたむ気持ちで見ること
 跋扈 : ほしいままに振る舞うこと、はびこること