日本海海戦の戦闘詳報

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 天祐と神助とに由(よ)り、我が連合艦隊は五月二十七八日敵の第二、第三艦隊と日本海に戦いて、遂に殆ど之を撃滅することを得たり。
 初め敵艦隊南洋に出現するや、上命に基き当隊は予めこれを近海に迎撃するの計画を定め、朝鮮海峡に全力を集中して徐(おもむろ)に敵の北上を待ちしが、敵は一時安南沿岸に寄泊したるの後、漸次北行し来りしを以て、その我近海に到達すべき数日前より予定の如く数隻の哨艦を南方警戒線に配備し、各戦列部隊は一切の戦備を整へ、直ちに出動し得る姿勢を持して各その根拠地に泊在せり。果然二十七日午前五時に至り、南方哨艦の一隻信濃丸の無線電信は「敵艦隊二○三地点に見え敵は東水道に向うものの如し」と警報し、全軍勇躍直ちに発動し、各部隊は予定の部署に準じて対敵行動を開始せり。午前七時、内方警戒線の左翼哨艦たりし和泉も敵艦隊を発見して敵すでに宇久島の北西二十五海里の地点に達し、北東に航進するを報じ、第五、第六戦隊次いで第三戦隊も午前十時、十一時の交、壱岐、対馬の間に於て敵と接触し、爾後沖の島付近に至るまで、これ等の諸隊は時々敵の砲撃を受けしも、終始能くこれと接触を保有し、詳に時々刻々敵情を電報せしかば、この日海上濛気深く、展望五海里以外に及ばざりしも数十海里を隔つる敵影、恰も(あたかも)限界に映ずるが如く敵を見ざる前すでに敵の戦列部隊はその第二、第三艦隊の全力にして、特務艦船約七隻を伴うこと、敵の陣形は二列縦陣にして、その主力は右翼列の先頭に占位し、特務艦船は後尾に続航せること、また敵の速力は約十二海里にして、なお北東に航進せること等を知り、本職はこれに依り我が主力を以て午後二時頃沖の島付近に敵を迎へ、先ず左翼列先頭より撃破せんとする心算を立つるを得たり。

 第一、第二、第四戦隊及び各駆逐隊は正午頃、すでに沖の島北方約十海里に達し、敵の左側に出でんが為め西方に針路を執りしが、午後一時三十分頃、第三戦隊及び第五、第六戦隊等も敵と触接を保ちつつ、相前後して漸次に来り合し、同時四十五分に至り、正に我が左舷南方数海里に始めて敵影を発見せり。
 敵は予期の如くその右翼列の先頭に「ボロジノ」型戦艦四隻の主力戦隊を置き、「オスラービヤ」「シソイ・ウェリーキー」「ナワリン」より成る一隊一隊左翼列の先頭に占位し、「ニコライ一世」ほか海防艦三隻より成る一隊これに次ぎ、「ジェムチウグ」「イズムルード」の二艦は両列の間に介在して前方を警戒せるものの如く、なおその後方濛気の裏には「オレーグ」「アウローラ」以下二三等巡洋艦の一隊、「ドンスコイ」「モノマーフ」その他特務艦船等数海里に亘りて連綿続行するを仄(ほのか)に認むるを得たり。是に於て全軍に戦闘開始を令し、一時五十五分、全軍に対し「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」との信号を掲揚せり。而して主力戦艦隊は少時南西に向首し敵と反航通過すると見せしが、午後二時五分、急に東に折れその正面を変じて斜に敵の先頭を圧迫し、第二戦隊も続航してその後に連り第三、第四戦隊、及び第五、第六戦隊は予定戦策に準じ何れも南下して敵の後尾を衝けり。これを当日戦闘開始の際に於ける彼我の対勢とす。

第一、第二戦隊の戦況
 敵の先頭部隊は第一戦隊の圧迫を受けて、稍その右舷に転舵し、午後二時八分、彼より発砲を開始せしが、我は暫くこれに耐えて射距離六千米突に入るに及び、猛烈に敵の両先頭艦に砲火を集注せり。敵はこれが為め益々東南に撃圧せらるるものの如く、その左右両列共に漸時東方に変針し、自然に不規則なる単縦陣を形成して我と並航の姿勢を執り、その左翼列の先頭艦たりし「オスラービヤ」の如きは須臾にして撃破せられ、大火災を起して戦列より脱せり。この時に当り、第二戦隊も既に悉く第一戦隊の後方に列し、我全線の掩撃砲火は射距離の短縮と共に益々顕著なる効果を呈し、敵の旗艦「スヲーロフ」、二番艦「アレクサンドル三世」も大火災に罹りて、戦列を離れ陣形愈々乱れ、後続の諸艦また火災に罹れるもの多く、その騰煙は西風に靡きて忽ち海上一面を蔽い、濠気と共に全く敵艦を包み、第一戦隊の如きは為めに一時射撃を中止せるの状況なりき。また我軍に於ても各艦多少の損害を蒙り、浅間の如きは後部水線に敵弾を受けて舵機を損じ、且つ浸水甚しく一時止むを得ず列外に落伍せしが、機もなく応急修理して再び戦列に入れり。これ午後二時四十五分前後に於ける彼我主力の戦況にして、勝敗は既にこの間に決せり。
 我が主隊は斯の如く敵を南方に撃圧し、煙霧の中敵影を発見する毎に緩徐にこれを砲撃しつつ、午後三時頃には既に敵の前路に出で約南東南に向針しありしが、敵は俄に北方に向首し、我後尾を回りて北走せんとするが如きを以て、第一戦隊は急に左十六点に一斉回頭し、日進を嚮導として北西に向い、第二戦隊もその通跡を過ぎたる後、正面を変じてこれに続き、再び敵を南方に撃圧し、これを猛射し、午後三時七分敵艦「ジエムチウグ」は、第二戦隊の後方に突進し来りしも、遂に我砲火に因り殆ど撃破せられ、すでに戦闘力を失いたる「オスラービヤ」も同時十分に沈没し、孤立せし「スウオーロフ」は益々大破してその一檣ニ煙突を失い、全艦煙焔に包まれ操縦する能はず、混乱せる爾余の諸敵艦も多大の損害を受けつつ、またその針路を東方に採れり。ここに於て第一戦隊もまた一斉に右十六点に回頭し、第二戦隊これに次ぎ、遁ぐるを追て益々敗敵を掩撃し、時々機を見て水雷発射をも試み、午後四時四十五分頃に至るまで、主隊の戦闘に就ては別に著しき現象無く、始終敵を南方に圧して砲撃を継続したるに過ぎず、ただこの間壮烈事蹟として特筆すべきは、午後三時四十分の頃、千早及び第五駆逐隊が、並びに午後四時四十五分の頃第四駆逐隊が、敵の廃艦「スウオーロフ」に対し勇敢なる水雷攻撃を決行したることにて、前者の奏功は確実ならざりしも、後者より発せし一水雷は敵艦の左舷後部に命中し、須臾にして艦体十度計り傾斜するを見たり。この両回の襲撃中、第五駆逐隊の不知火、及び第四駆逐隊の朝潮は、附近敵艦より猛射せられ、共に一弾を受けて一時危殆に陥りしも、幸にして遂に無事なることを得たり。
 午後四時四十分の此に至り、敵は北方に血路を開くを断念せしにや、漸次南方に向って遁入するものの如く、仍(よ)て我が主隊は第二戦隊を先頭としてこれを追撃せしが、少時にして遂に敵影を煙霧の裏に失し、南下すること約八海里、行々我が右方に離散彷徨せる敵の二等巡洋艦以下、特務艦船等を緩射し、午後五時三十分、第一戦隊は再び針路を北方に執りて敵の主力を索め、第二戦隊は南西方に折れて敵の巡洋艦に迫り、爾後日没に至るまでこの両戦隊は分離して各別の行動を執り、また相見る能はざりき。
 第一戦隊は午後五時四十分頃、その左方近距離に在りし敵の特務艦「ウラール」に一撃を加えて直にこれを撃沈し、なお北方に索敵進航せる時、左舷艦首に当り敵主力の残艦約六隻の一群が北東に向い遁走しつつあるを発見し、直に近づきてこれと並航戦を再始し、漸次敵の前方に出でてその先頭を撃圧せしかば、敵は初め北東の針路を執りしも次第に西方に屈折し、遂には北西に向針するに至れり。この並航戦は午後六時より日没まで連続し、敵は大破の余その砲力減少せるに反し、我が沈着なる射撃は益々その威力を逞(たくま)しうし、「アレクサンドル三世」と見えたる敵艦は早く列外に出でて後方に落伍し、先頭に占位せし「ボロジノ」型戦艦は午後六時四十分頃より大火災を起し、七時二十三分に至り俄然爆煙に包まれて瞬時に沈没せり。蓋し火災の弾薬庫に及びしならんか、また当時南方に在りて敵の巡洋艦隊を北方に追撃しつつありし第二戦隊の諸艦は、すでに傾斜して進退自在ならざる「ボロジノ」型戦艦一隻が、午後七時七分敵艦「ナヒーモフ」の側に来り遂に転覆沈没せるを目撃せり。後日捕虜の言に依り、これ即ち「アレキサンドル三世」にして、第一戦隊の見たるものは「ボロジノ」なりしを知るを得たり。この時夕陽すでに春き、我が駆逐隊、艇隊は、東南北の三面より漸次に敵に迫り、すでに襲撃準備の姿勢を執れるを以て、第一戦隊は次第に敵に対する圧迫を弛めて、日没(午後七時二十八分)と共に東方に変針し、同時に本職は龍田をして、全軍北航して明朝鬱陵島に集合すべしと電令せしめ、ここに当日の昼戦を終結せり。

第三、第四戦隊及び第五、第六戦隊の戦況
 午後二時戦闘開始の令下に、第三、第四戦隊、及び第五、第六戦隊は、何れも我主力艦隊と分離し、敵を左舷に見て、反航南下し、予定戦策に準して、敵の後尾に占位せる特務部隊及び「オレーグ」、「アウロラ」、「スウェートラナ」、「アルマーズ」、「ドンスコイ」、「モノマーフ」等の巡洋艦等を脅威迫撃せり。第三及び第四戦隊は終始共同連繋して、午後二時四十五分より、先ず敵の巡洋艦隊に対して、反航戦を開始し、漸次的の後尾を旋撃して、その右方に出で更に並航戦を試み、爾後優速を利用し、機宣我が正面を変じて、あるいは敵の左に現れ、またはその右に廻り、攻撃を持続すること約三十分にして敵の後方部隊は漸次に動揺潰乱し、その特務艦船の如きは遂に左往右往して為す所を知らざるの状態に陥れり。この間午後三時過ぐる頃、「アウロラ」と見えたる敵艦、単独敵中より突進し来りしも、我が猛射に多大の損傷を負うて撃退せられ、また午後三時四十分頃、突撃し来りたる敵の駆逐艦も為す所なくして撃攘せられたり。
 第三、第四戦隊協力攻撃の効果は午後四時の交に及んで著しく発展し、敵の後方部隊は全く潰乱して個々分裂し、その諸艦船皆多少の損害を受けたるものの如く、特務艦船中には、既に操縦の自在を欠くものあるを見るに至れり。第四戦隊は、午後四時二十分頃、三檣二煙突を有する敵の特務艦船一隻(あるいは「アナジーリ」ならんか)一方に孤立せるを認め、直に近づきてこれを撃沈し、次いで四檣一煙突の特務艦船(あるいは「イルツイシ」ならんか)を猛射して殆んどこれを撃破せり。この頃より第五、第六戦隊も来り加わり、第三、第四戦隊と共同して、共に潰乱せる敵の巡洋艦及特務艦船を掩撃しつつありしが、午前四時四十分の頃、北方より我が主隊に撃圧せられたる敵の戦艦(あるいは海防艦)四隻南下し来りて、その巡洋艦に合力せしかば、第四、第五戦隊の如きは、少時近距離に於てこれと対戦するの苦境に陥り、何れも多少の損害を受けしも幸に大ならざることを得たり。
 これより先き、第三戦隊の旗艦笠置はその左舷炭庫水線下に一弾を蒙りしが、爾来浸水漸く増加し、その応急修理のため波静かなる所に行くの止むを得ざるに至り、出羽司令官はその麾下新高、音羽を一時瓜生司令官の指揮下に属し、自ら笠置、千歳を率いて午後六時油谷湾に赴き、その将旗を千歳に移し、夜に入りて出港北行せしも、笠置は修理に時間を要し遂に翌日の追撃に参加する能はざりき。また第四戦隊の旗艦浪速も後部水線に敵弾を蒙り、為めに午後五時十分頃、同戦隊は一時避難してその損所の応急修理を為せり。
 この時に当り敵は南北面共に、既に全軍潰乱滅裂の悲境に在りしを以て、午後五時三十分のころ第二戦隊が主隊と分離してこの方面に来り、南方より敵の巡洋艦を迫撃すると同時に、敵は群を為して悉く北方に遁走し、第四、第五、第六戦隊も共にこれを追撃せしが、その途上に於て既に進退の自由を失せる敵の廃艦「スヲーロフ」及び工作船「カムチャーッカ」を発見し、第五、第六戦隊は直にその撃滅に転じて、午後七時十分「カムチャーッカ」を撃沈し、次で第五戦隊に随伴せる第十一艇隊は突進して「スヲーロフ」を襲撃し、同艦はなお後尾の小砲一門を以て最終の抵抗を試みしも、遂に我が水雷二発の下に沈没せり。時に午後七時二十分なり。幾もなくこれ等の諸戦隊は鬱陵島集合の電令に接し、何れも戦を止めて北方に向針せり。

各駆逐隊及び水雷艇隊の戦況
 二十七日の夜戦は昼戦の終結直ちに各駆逐隊及び水雷艇隊に依り猛烈果敢に開始せられたり。この日朝来南西の強風波を上ぐること高く、小艇の操縦大いに困難なるを認め、本職が直卒せし水雷艇隊の如きは昼戦開始に先だち悉く三浦湾に避迫せしめたる程にて、夕刻に至り風較和らぎしも浪なお静からず、洋中の水雷攻撃は我に不利少なからざるの状況なりき。しかも各駆逐隊及び艇隊はこの一隅の時機を失するを恐れ、皆風濤を冒して日没前には来り合し、各先を争うて敵に近づき、第一駆逐隊は東方より、第五駆逐隊は南東よりその後尾に迫り、また第一、第十、第十五、第十七、第十八艇隊等は南方より敵の主力部隊及びその左後ろに並び、後ろに並走せる巡洋艦の一愴惶南西に避け、更に東方に変針したるものの如く、午後八時十五分、第二駆逐隊が第一撃を敵主力の戦闘に加えたるを始めとして各駆逐艇隊一時に突進して敵の周囲に蝟集し、午後十一時頃に至るまで連続激烈なる肉薄襲撃を決行したり。敵は日没より探照砲火を以て極力防戦せしも遂にこの攻撃に耐えず、その僚艦相失して四分五裂の状態となり、各血路を求めて任意に運動せしかば、我が襲撃隊の追躡(ついじょう)と共にここに一場の大混戦を現出し、少なくも敵の戦艦「シソイ・ウェリーキー」、装甲巡洋艦「ナヒーモフ」及び「モノマーフ」の三隻はこの間に我が水雷に罹りて全くその戦闘航海力を失い、また我が軍に於いても第一艇隊の第六十九号艇(司令艇)、第十七艇隊の第三十四号艇(司令艇)、及び第十八艇隊の第三十五号艇の三隻は襲撃の際、敵弾のために撃沈せられ、駆逐艦春雨、暁、夕霧ならびに水雷艇鷺、第六十八号、第三十二号等は敵弾または衝角等のために多少の損害を被り、爾後一時戦闘に参加し難く死傷もまた比較的に少なしとせず、就中第一、第十七及び第十八艇隊の死傷最も多し。ただ沈没水雷艇三隻の乗員は友艇雁、第三十一号及び第六十一号等に依り救助収容せられたり。後日捕虜の言を聞くに、当夜水雷攻撃の猛烈なりしは殆ど言語に絶し、我が艦艇連続肉薄し来るを以て、その応接に遑(いとま)なく、ただその距離あまりに近きがため備砲俯角の度を過ぎて照準する能はざりしという。
 右記せるものの外、第四駆逐隊及び爾後の水雷艇隊は当夜他方面に索敵せしが、第四駆逐隊は二十八日午前二時の頃、韓埼の北東微東約二十七海里の地点にて敵艦二隻の北走するを発見し、直ちにこれを襲撃してその一隻を轟沈せり。後日生存捕虜の言によれば、轟沈せられたるこの敵艦は戦艦「ナワリン」にして、同艦は両舷に連続二連続二発宛の水雷命中し、少時にして沈没せりという。爾余の諸艇隊は終夜各方面を捜索せしも遂に得る所なかりき。

(つづく)