明治二十九年の夏、子規は碧梧桐らと「一題十句」というものを始めた。そうやって作った「日蝕十句」について。
お日様を虫が喰ひけり秋の風
日の神も御病気とやらこの残暑
ある人は旧弊と笑ふけれども旧弊由来雅趣を存する事多かり。さりとて明治の詩人として生まれて科学的の俳句もなくてやはと戯れに
日と月と重なりあふて昼暗し
日蝕に満月の裏ぞ見られける
と試みたる。これにては天文学者の説明を聞くやうなりと独り笑ひやまず。ただ、暗に秋の季を利かせたる処俳句の特色とはいへそれもこじつけなるべし。されば事実にも違わぬやうにそれで今少し理屈を離るるやうにと自ら注文して
北海や日蝕見えず昼の霧
日蝕すること八分芭蕉に風起こる
とやりたる。いよいよ出でていよいよ拙し。筆を投じて笑ふこと半とき。
(因みにいふ。古人に月蝕の句は一、二首これを見たり。日蝕の句はいまだ見しことなし)
『松蘿玉液』(八月二十四日)
実際に日食が起きたのは八月九日の午後。このときは部分日食で太陽の8割ほどが隠れた。上記の「日蝕すること八分」というのは、その様子を表していると思われる。
アストロアーツの 「ステラナビゲータ for Windows95」 で再現した当時の日食
2004年10月14日の部分日食(望遠鏡に一眼レフデジカメを取り付けて撮影)
2012年5月21日の金環日食(望遠鏡に一眼レフデジカメを取り付けて撮影)
本州で金環日食が観測できたのは明治16年以来とのこと。
ちなみに、明治の文豪として生まれた漱石が作った科学的俳句(?)は・・・・、
化学とは花火を造る術ならん
今日の宇宙にして空気なき時は空中は果して何色を呈するや。(但し太陽の光線を送る者は他にありてその者は無色透明と仮定して)
『筆まかせ』(明治十八年)
この頃、科学者たちは「光を伝える無色透明の物体が宇宙に存在している」と考え、これを「エーテル」と名付けた。しかし、子規がこの文章を書いた2年後に行われた実験によって、エーテルの存在は否定された。
子規の疑問に答えると・・・・、空気(地球上でいうと窒素や酸素)が無い月面を考えると空中は「黒」。しかし、酸素以外の物質であっても、宇宙空間に存在すればそこに彩りをそえることになる。例えば電離水素が存在すれば空中は「赤色」になる。
白鳥座の北アメリカ星雲
ある天文学者に星の数を尋ねけるに、三十三萬三千三百三十三を三十三萬三千三百三十三遍言ふた程ありと答へける。其外に星一つ見出さんと空仰向いて歩行きける天文学者、どぶの中に落ちて茶屋の婆様に叱られぬ。其婆様は老人星となりしが、天文学者は土になりけるとぞ。
(・・・・・中略・・・・・)
今年十一月箒星と地球と衝突する由、外国の事迄は構はれずとも日本だけ助かる工夫は無きやと心配気にいへば、ある人髯を撫でて「それは安き事なり。日本といはず世界中の大砲の丸をこめて箒星の近づくや否や一時に打ってかからんには、いかな箒星も地球と衝突せざる前に粉な微塵になって飛び失せなん。これがために世界中の弾丸硝薬一時に尽きて、少なくも十年が間はいくさの起こる気遣いも無く天下太平、我々枕を高うして寝るべし」と星を指したやうに言ひける。
『ホトトギス』(明治三十二年十月十日)
ここで書かれている「箒星(ほうきぼし)」というのは、しし座流星群の母彗星である「テンペル・タットル彗星」のこと。この年に回帰して、中国では流星雨が観測された(このとき日本では流星雨は見えなかった)。数年前に日本でも観測されたしし座流星群の大発生もこの彗星の回帰によるもの。彗星本体は望遠鏡でないと見えない。
ちなみに、この11年後の明治四十三にはハレー彗星が最接近し、「彗星の尾の中に地球が入って空気がなくなり、窒息してしまう」、「青酸ガスによって生物が死滅する」などという噂が流れてパニックになったが、結局何も起こらなかった。子規がこの頃まで生きていたら、『大空の真つたゞ中や箒星』というような「ハレー彗星の句」を作っていたかもしれない。
ヘール・ボップ彗星