東郷平八郎

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東郷平八郎

出身地

薩摩藩

生没年

1847年〜1934年

海軍兵学校

海軍大学校

日清戦争時

浪速艦長

日露戦争時

連合艦隊司令長官

最終階級

元帥海軍大将

伝記、資料

「東郷平八郎全集」(小笠原長生)
「聖将東郷平八郎」(小笠原長生)

 薩英戦争で初陣し、戊辰戦争では藩の海軍隊士として阿波沖海戦、宮古湾海戦に参戦。維新後は鉄道の勉強を志したが、西郷隆盛の薦めでイギリスへ留学し海軍の基礎を学んだ。帰国後は各艦の副長、艦長などを歴任した。日清戦争では浪速艦長として参戦し、高陞号撃沈事件では国際法に基づいた判断能力が高く評価されることとなった。その後は水上勤務から離れて海大校長、佐世保鎮守府司令長官、舞鶴鎮守府司令長官などを務めていたが、日露海戦前の明治36年に山本権兵衛の推挙で連合艦隊司令長官に就任した。
 日露戦争では旗艦三笠に座乗して旅順港攻撃、黄海海戦などの海戦全般を指揮し、明治38年の日本海海戦ではロシアのバルチック艦隊を壊滅させた。この勝利で東郷は国民的英雄となっただけでなく、ロシアの圧力に苦しんでいたトルコで「トーゴー通り」が出来るなど世界的にも有名な提督となった。英国のホレーショ・ネルソン、米国のジョン・ポール・ジョーンズと共に「世界三大提督」と称されている。
 戦後に元帥となった東郷は政治に積極的に関わることはなかったが、軍縮問題や海軍内の改革などで当事者に担ぎ出されるなど、その存在は軍政面にも大きな影響を与え続けた。

東郷の逸話(戊辰戦争〜英国留学)

東郷の一喝

 明治二年、東郷は「春日」乗員として函館征討戦に従軍した。5月11日の陸海総攻撃では敵の応戦も激しく、軍艦「朝陽」が火薬庫に敵弾を受けて轟沈するほどであった。この激戦の中、僚艦「第二丁卯」が敵の勢いに恐れて急に逃走しようとしたため、それを見た東郷は怒気心頭に発して「この卑怯者め!」と大喝した。普段口数の少ない東郷の一喝ということで、この一件は当時仲間内で有名になった。


勝海舟から操鑑術を学ぶ


 藩の海軍隊に所属していた頃、東郷は当時幕府の海軍奉行であった勝海舟から操艦術を学んだことがあった。勝は操艦術を教える際、必ず海波険悪な日を選んでいた。これに反し、後に東郷が留学した英国では、波が穏やかな日に操艦練習が行われた。その後、日清、日露戦争の諸海戦を経験した東郷は、風波険悪な日に操練する必要性を悟ると共に、勝の先見性に推服したという。


兄の戦死を聞いて

 英国留学中の東郷のもとに、西南戦争に二人の兄が従軍して死傷したという連絡が入った。友人たちが心配して慰めると、東郷は「二兄はじめ一門こぞって薩軍に投じたことは朝廷に対して誠に遺憾であるが、自分ももしそこにいたら恐らく同じ行動をしただろう。幸か不幸かこのように外国に来ているので、せめて自分だけでもますます海軍の技術を習得し、後日事あった際には粉骨砕身して皇恩に報いる決心だ」と毅然と言い放った。

東郷の逸話(帰国後〜日清戦争)

上官の命令である

 英国留学から帰国した直後、東郷は士官として比叡に乗艦することになったが、八年間も留学していたので日本海軍の号令がよくわからず、英語や薩摩弁の号令を発していた。兵員達は東郷が何を言っているのかほとんど理解できなかったので、これを見かねた同僚が注意すると、東郷は「どんな言い方でも、上官が下に発すれば命令である」と言って、我流の号令を押し通した。
 また、迅鯨、天城の副長時代、新任副長だからと侮って東郷に従わない部下が何人かいた。しかし、東郷が「予の命に背くは是れ上官の命に背くなり、その罪許すべからず」と辞色共に激しい態度で臨んだため、それ以降は命令に服さない部下はいなくなったという。


袁世凱に一言だけ

 天城の副長として仁川警備をしていた頃、東郷は公使館付武官と共に袁世凱を訪ねた。袁は若い日本人将校の訪問を喜び、一段高いところから見下ろすような態度で、世界や東洋の情勢、日清親善について力説した。1時間ほど弁じ立てた袁は、東郷らが何か答えるのかと期待していたが、東郷は「分からん」と一言答えただけであった。


清国北洋艦隊を評す

 明治24年、北洋艦隊を率いて来日した丁汝昌は、旗艦「定遠」に日本の名士を招いて祝宴を開いた。東郷も招かれたのだが、祝宴中は黙々と装備や乗員を観察し続けていた。そして数日後、ある用務を口実にして再び「定遠」を訪れてきた東郷は同僚にこう語った。「レセプションの時は艦内はどこも整頓され、乗員も威儀を取りつくろい、巨艦の雰囲気が盛り上がっていた。しかし今日は大砲に洗濯物が干してあり、水平の動作も何となく機敏さに欠けていた。だが丁汝昌や艦長に会って話してみると、どちらも侮りがたい人物だった」。

 ※この逸話はNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」でも登場する予定で、定遠艦内の撮影は三笠下甲板で行われた。



平八郎は馬鹿でござる

 高陞号撃沈の知らせが内閣会議に届いた際、席上にいた西郷従道は「平八郎は馬鹿でござる」と一言発しただけであった。この時の「馬鹿」というのは「非凡な人物」という意味で用い、東郷を称賛したのだと言われている。


ハワイ新政府との駆け引き

 ハワイがアメリカと合併しようとして女王を廃し新政府を樹立した時に、日本は居留民保護のために軍艦浪速を派遣した。これを聞きつけた入獄中の日本人が脱走して浪速に逃げ込むと、東郷は「よし、日本人である以上は救っておけ」と部下に命じて保護した。数日後、浪速を訪れた新政府の役人から脱獄者の引き渡しを要求されると、「女王の政府とは罪人引渡の条約を結んだが、今の政府とは結んでいない。それに、今の仮政府を認めることもできない。従って、引き渡しは出来ない」と拒絶した。その後、ハワイ新政府は英文の公文書で再び引き渡しを申し入れてきたので、参謀が英文で回答を送ろうとしたところ、東郷は「向こうが自国の文字で書いたのだからこちらも日本語で答えてやれ」と言い、仮名交じり文で書いた返事を送った。ハワイ新政府は返信文を見ても何のことかさっぱり分からず、通訳を使ってやっと読んでもらったところ、前に東郷が口頭で答えたことと全く同じ内容であったという。その後、東郷は沖で演習を行って新政府を威嚇し、ついに引き渡しを諦めさせた。この一件でハワイの人々の記憶に「東郷」の名が残ることとなり、後に日露戦争で彼が連合艦隊司令長官に就任したことを知った時は、日本が必ず勝つと信じて疑わなかったと言われている。


八代六郎よりも強情

 明治28年、常備艦隊司令官として台湾に赴いた東郷は、その酷熱で持病のリューマチが悪化したのだが、激痛に耐えながら甲板に立ち続け、職務が終わるまで決して立ち去ろうとはしなかった。海軍中でも有名な強情者の八代も、この様子を見て大いに辟易したほどであった。


東郷の逸話(鎮守府長官時代〜日露戦争)

財部の好意を尊重する

 北清事変の際、天津に上陸した東郷は福島安正の愛馬を借りてきた。この馬は有名な荒馬であったので、東郷は逸走せずに静かに歩かせていたのだが、このことを知らなかった財部彪は馬を走らせようという好意で急に後ろから鞭をうった。そのため、急に馬が疾走を始めたので東郷は驚いたのだが、財部の好意を理解し、怒らずに何事も無かったかのように馬を駆ったという。


舞鶴鎮守府司令長官時代

 舞鶴鎮守府司令長官として在職していた頃は、部下たちからは「おやじ」と敬慕され、東郷が市街を通過すると道端で遊んでいた子供たちが走り寄って敬礼をしたという。ある人から「鎮守府司令官としてご多忙のように見受けられるが、日々のお務めは何事ですか」と尋ねられた東郷は、「至極暇でござる。日に二回ずつ手を上げ下げ(登庁と退庁の敬礼だけ)すれば宜しいのです」と笑いながら答えた。


若い奴の言う事も聞きましょう

 明治36年、東郷は舞鶴鎮守府を訪れた伊東祐亨、上泉徳弥と水交社で会食した。その席上で酔った上泉が開戦論を語りだすと、前回も宿舎で同じ話を聞かされた伊東はあきれて「この餓鬼、酔っ払えば理屈ばかりでうるさい奴です」と言うと、東郷は笑いながら「伊東さん、まあそう言わずに若い奴の言う事も少しは聞いてあげましょうよ」と言って、上泉の話を聞き続けたという。


鬼平八?

 日露戦争が始まり、海軍大勝利の公報が続々と届き始めたころ、元海軍技師の工学博士が海軍省を訪れ「近頃、諸新聞に「鬼平八」と書いてあるのは嘗て舞鶴鎮守府の司令長官であった東郷平八郎氏の事でしょうか?」と尋ねてきた。海軍省の応対者が「そうですが、なぜそのような事をお尋ねになるのですか?」と反問すると、博士は「あの温厚実直な東郷将軍が今日「鬼平八」と言われるほど勇敢な働きをならろうとは意外でした」。


若い頃の東郷の写真

 日露戦争から凱旋帰国した東郷一行は明治38年10月21日に横浜停車場に到着した。その時、出迎えた一般民衆の中から一人の老紳士が東郷のもとに歩み寄り、「東郷さん、これを覚えておいでですか」と一枚の写真を手渡した。その老紳士は東郷が若い頃に寄寓していた幕府の代官 石川氏であり、手渡した写真には若き頃の東郷と旧友達が写っていた。しばらくこの写真を見ていた東郷は「片岡さん、片岡さん」と近くにいた片岡らを呼び寄せ、写真を示して「(自分が居るのが)解りますか」と尋ねた。片岡や出羽が東郷を捜している傍らで、写真の裏表を眺めていた上村は「ああ、居る居る。しかし分からんなぁ」と叫んだ。東郷はこの様子を可笑しげに眺めていたが、最後には声をあげて大笑したという。


毛髪を英国海軍協会に送る

 日露戦争終結後のある日、英国海軍協会から東郷のもとに一つの小包が届いた。開けてみるとネルソン提督の遺髪の一部と胸像が入っていて、そこに添えられていた手紙には、『日本海海戦の偉勲に対してこの二品を贈呈する。ついては甚だ不躾ながら、閣下の毛髪を頂戴して、記念のため本協会で永久保存したい』と書かれていた。東郷は躊躇していたが、小笠原長生に説得されて自分の毛髪を英国海軍協会に送ったという。


東郷が笑った

 日本海海戦で敵将ロジェストウェンスキーが捕虜となったという報告を受けた東郷は、将官、将校一同を集め「諸君、お骨折り御苦労であった。今回は萬々結果宜しく、殊に敵の提督を捕虜とせしは申し分なき大捷。喜ばしいことである、アハハハハ」と笑ったという。開戦以来、東郷が笑ったのはこの時が初めてであった。


東郷と真之が談笑

 明治38年10月19日、大阪毎日新聞の記者 奥村不染(後の六代目毎日新聞社長)は同業者と共に横須賀に向かう旗艦「敷島」に乗艦した。その時の様子を後日「東郷艦隊便乗記」と題して紙上で下記のように紹介している。

「戦利艦ニコライ(壱岐)、ベスレウィット(相模)、ポルタウ(丹後)なんど、また煙を揚げ居るを見る。 (中略) 東郷大将は須臾も望遠鏡を放つことなく、例の外套を着けられたるまま遠望に余念なかりしが、やおら秋山参謀を顧みつ、莞爾として何事か談笑されき。或いはそれ、日本海もしくは旅順の戦利艦が雄姿に接して、満足の意を表されしにあらざるか。」

(明治38年10月22日 大阪毎日新聞)


東郷の大鼾

 普通の人ならば戦争の開かるる前などは殊に神経の興奮すべきものなるに、東郷大将の豪胆は又実に驚くべき哉。日本海の大海戦前数時間敵艦隊見ゆとの無線電信我哨船より旗艦三笠に伝わるや、東郷大将はこれにて安心せりと云わんばかりに、悠然横臥して仮寝を貪る事二三時間、鼾声雷の如く四辺に轟きしと云う。

「日露戦争実記」第七十五編より 

東郷の逸話(渡英、渡米、晩年)

高陞号艦長との奇縁

 英国王戴冠式のため渡英した東郷は、留学中に乗船していた練習船ウースター号の卒業生達が歓迎会を開いた。その席上、東郷のもとに一通の手紙が届けられた。それは日清戦争時に東郷が撃沈した高陞号の艦長だったガルス・ウオルスエーからの手紙で、『私は高陞号撃沈の際、救助されて軍艦浪速に移されたときに、あなたとは浅からぬ因縁があることを知りました。私もあなたと同じようにウースター号で海事を学び、あなたの二期後に卒業しました。だから私もこの歓迎会に参加する資格を有しているのですが、高陞号事件のこともあるので、今回は遠慮させていただきました』 と書かれていた。これを読んだ東郷はその奇縁に驚くと共に、撃沈事件の際に艦長がこの関係を一言も言わなかったところに、いかにも英人気質が現れていると賞賛した。

ウースター号
練習船ウースター号


ルーズベルトとの会談

 戴冠式後、東郷は帰国前にアメリカを訪問した。そしてワシントンの墓地、アナポリス海軍兵学校、アメリカ議会などを訪れたあと、日露戦争の調停を行ったルーズベルト元大統領の別荘に向かった。二人はここで初めて対面することになる。待ちきれずに邸内ウロウロしていたルーズベルトは、東郷が乗った車が到着すると玄関の前に駆け出して自ら出迎えたという。
 邸内に入り初対面の挨拶をすませたあと、東郷は日本からの土産として武者人形の入った箱を手渡した。受け取ったルーズベルトは嬉しさのあまり客前で箱を開け始め、翌日の新聞に『あたかもクリスマスプレゼントを貰った子供のように熱心に包みを解いた』と書かれてしまうほどであった。そのあと東郷はルーズベルト夫妻と共に昼食をとり、1時間ほど日露戦争の話をした。
 昼食後、ルーズベルトは部屋の奥から一振りの日本刀を持ってきて東郷に手渡した。「これは明治天皇から贈られた刀で、我が家の家宝です」。刀を受け取った東郷は姿勢を正して両手でこれを押し頂き、鞘から刀身を引き抜いた。見事な太刀であったが、手入れをしていないせいか所々で油が凝結していた。そこで、東郷は刀と一緒に送られてきた打ち粉と油で自ら手入れを行い、ルーズベルトにもその方法を丁寧に教示した。(後日談:ルーズベルトの死後、彼の遺品はほとんど博物館などに寄贈されたが、この刀だけは家宝として家に残されたといわれている)。
 このあとルーズベルトは東郷らを自分の書斎に案内し、壁に飾ってある記念品を一つ一つ説明した。途中で所用のためルーズベルトが部屋を出たあと、入れ替わりに夫人が入ってきた。彼女は壁に掛けてある一枚の連隊旗を指し、「主人はこの旗について閣下に何かご説明しましたか」と東郷に尋ねた。「いえ、何も伺っておりませんが、何か由緒でもございますか?」東郷がそう答えると、「そうですか。この旗は主人が初陣で敵から奪った大隊旗で、客人が来たときはいつも自慢しているのですが、きっと閣下のような世界的な名将の前では恥ずかしくてお話しできなかったのでしょう」と、夫人が説明した。「いえ、そんなことはありません。私の微功もご主人の御勲功も、時と所こそ違うものの、国家に対する覚悟と責任に違いはありません」そう東郷が言い終えたとき、ルーズベルトが部屋に戻ってきた。彼は「余計なことを言うな」と恥ずかしそうに夫人に言った。
 その後も話が尽きることはなかったのだが、東郷は午後3時頃に次の約束があったので別れを惜しみながら別荘をあとにした。この数年後にルーズベルトが亡くなるため、両者の対面はこの時が最初で最後だった。


東郷流の自己紹介

 渡米中の宴会の席上では毎回「余の姓の東郷は極東を意味し、名の平八郎は平和を図る男の謂なり」と挨拶し、満場の喝采を博したという。


米国記者とのやりとり

 英語に堪能な東郷であったが、渡米中も自ら話すことはなく、通訳を介した場合も短い会話だけで済ませていた。アメリカで船に乗った時、記者達に会うと笑顔で会釈しつつ通訳を介して一言、「余は英語は話せない」。
 また、アメリカで「平和号」という特別機関車に乗車した東郷は、記者から乗り心地の感想を求められると「速力があまりにも早いから、感想にふけるひまもなかった」とだけ答えたという。


誰のための揮毫か

 東郷は特別な関係にある人以外は揮毫を断っていたのだが、幼い頃からの級友に頼まれるとその度に書いていた。ただ、ある旧友が訪ねてくる度に揮毫を頼むので、不思議に思った東郷が尋ねた。
 「おはん、いつもたくさん書かせるが、一体誰のナ」
 「私のでごわす」
 「すべてナ」
 「はい」
 「こげんたくさん、如何するナ?」
すると、問いつめられた旧友はついに開き直り、
 「売り申すが」
と答えた。これを聞いた東郷は「そうなぁ」と言いながら、そのまま5枚ほど書き上げた。


用兵に関する訓戒

 佐藤鉄太郎が海軍大学校長となる際、東郷に用兵に関する意見を聞いた。珍しく長々と語った東郷の訓戒の中で、佐藤の心に残ったのは、「大艦隊の戦闘は一々命令によって行われるべきものにあらず。全軍主将の態度を仰ぎ、全軍これに倣うて而して後、初めて大捷を得べし。主将は全軍の目標となるべき嚮導者なり。口喧しき号令者にあらず。予は我が主力を掌握し、全軍の模範者となりて戦わんことを欲する」という言葉であった。

秋山真之との関係

 昭和6年に伝記「秋山真之将軍 世界的偉人」を出版した松田秀太郎は、真之と交流のあった海軍軍人らに回顧談などの執筆依頼をしたが、東郷からは「秋山が偉い事は皆知っているのだから、特に話す必要もないだろう」という回答だけであったため、あとがきで「何か書いてくれてもよいのではないか」と苦言を呈している。しかし、東郷が真之と疎遠だったというわけではなく、他の軍人の伝記などでも故人に配慮してか積極的に思い出話などを語ることは少ない。島村、加藤の時も献辞だけに留めている。ちなみに、「智謀如湧」という真之への献辞については、松田は「小笠原長生の発案をそのまま書いただけ」と記している。

関連項目

記念艦三笠 東郷平八郎誕生地 多賀山公園 東郷神社