森岡大将(守成)は、秋山将軍の居常を表してこう言った。
「秋山将軍は、極度に簡単明瞭を尚ばれた方であった。その軍隊指揮の上に於いても、またその日常生活の上に於いても、凡てが頗(すこぶ)る簡明であった。その真意のある所は、百事簡単にして且つ精練なるもの能く成功する、という戦闘の大原則に出発すべきを示されたのであろう」
実に将軍は、平戦両時を問わず、隊将として陣頭に立って部隊を指揮した時は、部隊の大小、単複の如何に拘わらず、常に簡単なる命令詩、或いは号令詩を用い、決してクドクドしい言葉を使わなかった。そしてそれだけで部隊を意の如くに運用したのであって、それが今日なお騎兵部隊の指揮法上に、多大の教訓を与えている。
日常生活またそれと同様で、戦時中の簡単主義は本編の随所に述べた通り、また平時に於ける生活も、実に簡易に徹し、俗界を離れた老僧の如きものがあった。
森岡大将はまた将軍をこう評している。
「秋山将軍の性格は、乃木大将の性格に能く似た所があり、非常にまた乃木大将を崇拝していられたと共に、乃木大将もまた将軍を信ずることが頗(すこぶ)る厚かった。そうした両将軍の関係は、日露戦争の末期、敵を奉天から北に追撃してから後の対陣中、乃木将軍が騎兵集団司令部に将軍を訪ねられた時、お二人の交情誠に濃かなものがあったことなどから見ても、それを推測するに難くないのである」
また将軍が朝鮮駐剳軍司令官時代の高級副官竹内少将(栄喜)は、将軍を左の如く評している。
「秋山将軍は実に型の変わった類のない非凡な将軍であった。強いてこれを求めるならば明石、宇都宮両大将であろうか。この三将軍の性格はどこか一脈相通ずるものがあったようである」
また将軍の同期生内山大将(小二郎)は、将軍の全生涯を評してこう言っている。
「秋山は勇気の人間であり、不言実行の男であった。余り饒舌らない所に、秋山の味があったようだ」
将軍の居常には屈託なく、技巧なく、天真爛漫、明朗磊落(らいらく)そのものであった。好物の酒に陶然として酔った時、よく歌ったものである。
大海は、みんな水だよ、手じゃ防がれぬ。
打っちゃって置きなよ人の口。
だって今更どうなるものか。
隠しだてすりゃなお知れる。
実に将軍の口からこれが洩れる時には、それは一片の都々逸ではなく、句中無限の教訓と真理とが含まれている現世への一大警鐘であるかに思われた。
将軍は意志堅確にして、一度決せんか、如何なる障碍ありとも、これを突破して進んだ。さればその戦闘に関して下す命令は、厳乎不退転の意志を明示し、一度下した命令は、如何なることがあっても、変更するようなことはなく、真に秋霜烈日の概があった。
秋山支隊が黒溝台会戦で苦戦しているとき、将軍は戦利砲中隊長に対して、砲二門を移して某地を守備せよと命じた。然るにその砲中隊長は、二門では優勢なる敵砲火のために、直ぐに沈黙させられる虞(おそれ)があるから、四門出したいとの意見を具申した。将軍は黙ってじっと考えていたが、突然大喝して、
「出せと言ったら出すのぢゃ」
侵し難い態度を以て、厳然として命じた。
将軍の命令は種々熟慮の末に下すのであって、一見部下の意見具申を無下に却下するようであるけれども、実はそうではなく、そうした意見は既に将軍の考慮の中に這入っているのであった。
将軍は部下に対しては、実に公明正大にして慈愛に満ち、いささかも依怙(えこ)偏頗(へんぱ)なところはなかった。将軍が朝鮮駐剳軍司令官から、軍事参議官に栄転する内報に接した時、幕僚は将軍の専属たるべき軍事参議官副官に就いて将軍の内意を伺い出た。
その当時、そうした場合、多くの軍事参議官は、同郷人とか、親戚の者とか、もしくは某兵科の者とか、というように望んだので、幕僚としては内々将軍の希望を確かめて、中央部に内報しようと考えたからである。
将軍はそれに対して、極めてあっさりと言った。
「別に副官に希望はないよ。お上できめてくれる者でたくさんだ」
軍司令官ほどの地位に上った人々には、多少の我が儘もあるものである。然るに将軍の公的生活には、全くそれがなかった。
内山大将はまた将軍をこう評したことがある。
「秋山は、これは重要なことであると思えば、人一倍努力する男であったが、大局から見て、これはつまらぬことであると考えると、これまた人一倍放って置く男であった」
これは実によく将軍の風格の一端を言いあらわした言葉である。
また森岡大将も、その点についてはこう評した。
「秋山将軍は、騎兵の練成と教育に就いては、常に大局からこれを見ていられたからこそ、その初期に於いて、甚だ不振であった騎兵を根底から刷新して、今日のように発達せるものに仕上げられたのだ。あれがあの当時、区々たる形の上のことばかりしか、気が付かぬ将軍であったならば、貧弱不振であった騎兵を、到底今日のような騎兵にすることは出来なかったであろう」
実に将軍の気宇(きう)は宏壮(こうそう)であり、その着眼は雄大であり、その大局の把握に至っては、実に将軍の天稟(てんりん)であったかに思われるものがあった。
明治二十六年六月七日、将軍の令弟真之氏は時に海軍少尉であったが、英国出張を命ぜられた。将軍(騎兵第一大隊長)が隊から帰宅した時、真之氏は自分の部屋で頻りに出発の支度をしていた。
将軍は軍服を脱いで座敷に座ったが、それを知っても、別段真之氏の所へ行って話そうとも、手伝おうともせず、いつもと同様であった。真之氏の出発の朝、将軍はいつもの如くに出勤した。出がけに、
「淳、行って来い」
「うん」
それが洋行する兄弟の決別の辞であった。
後で母堂が如何にも物足りなげに、
「いくら男だとて、弟が初めて洋行するというのに、もう少し言い方もあろうに・・・・・・」
と言っていたということである。
将軍が辺幅を飾らず、極めて質素な生活を以て甘んじていたことは、周知のことであるが、鈴木陸軍少将(文次郎)の左の追憶談なども、その例証である。
日露戦争が終わって凱旋した後、将軍の部下であった将校の懇親会が、両国の亀清楼で開かれたことがある。彼等は年余に亘る戦塵と殺伐だった気持ちとを、この帝都屈指の料亭で綺麗さっぱりと洗い落とそうというので、皆申し合わせたように一張羅の紋付きを引っ張り出して、着飾って集まってきた。
やがて開宴となり、一同が定まった席についた所へ、魁偉(かいい)な容貌、しかも慈顔近づきやすい風貌の将軍が来た。これはまた田舎親爺そっくりの綿服に小倉の袴という姿で、おもむろに床柱の前に座して、一同を見渡した。流石に百戦に百勝した将軍、実に威風堂々として、「流石に将軍だな」という感を、今更ながら一同の胸に覚えさせたが、それにも増して一同を敬服せしめたのは、質素なるその服装であった。一張羅に着飾った者共は、陰かに赤面すると同時に、この不言の教訓に感銘しない者はなかったという。
将軍は純真にして明朗、人に対して秘密をもたず、人を疑うことをなさず、また自らを粉飾することを知らなかった。将軍が旅行に出ても、その鞄に鍵をかけたことがなかったなども、人を疑わなかった一証であろう。
白川中将(義則)が陸軍次官に補せられた時、将軍は教育総監であったが、部下の人事に関する希望を、墨で葉書に大きく書いて出した。白川次官は驚いて、
「人事は秘密を要しますから、以後葉書ではなく、親展書として書いて頂きたいものです」
「それぢゃ、電話で言おうか」
「電話では、後に書類が残りませんから、やはり書物にして頂きたいので・・・・・・」
将軍は何事にも簡単を期していた。
大正五年度陸軍特別大演習は、九州福岡地方に於いて行われたが、当時朝鮮駐剳軍司令官たりし将軍は陪観を仰せ付けられ、副官竹内中佐(栄喜)を従えて福岡に投宿した。演習開始に至らざる閑散な一夕、夕食後、
「オイ散歩に出よう」
将軍は副官を促し、二人は旅館の和服を借りて福岡の巷に出た。演習気分の横溢した晩秋の夕暮れ迫る福岡の街に、将軍は久し振りで内地気分を味わった。彼方此方物珍しげに歩いている中に、何時か場末の活動小屋の前に出た。
「竹内、入ろうか」
突然の声に、竹内副官は怪訝な面持ちで、
「どこへでありますか・・・」
「活動によ」
表の看板に見入りながら、将軍は莞爾として言うのである。竹内副官は吃驚(びっくり)して、
「イヤ、お止めになった方がよろしゅうございます」
「でも沢山人が入っとるぢゃないか。入ろう、入ろう」
竹内副官の言葉を聞き捨て、将軍は中に入っていった。
白川大将が、なお青年将校時代のこと、同郷の先輩たる関係から、秋山将軍から常に指導を受けたものであったが、その時の将軍の言葉の中に、
「偉くなろうと思えば邪念を去れ、邪念があっては邪欲が出る。邪欲があっては大局が見えない。邪念を去るということは、偉くなる要訣だ」
という大訓言があった。実に将軍はその全生涯を通じて、この言葉の如く、自分自身が邪念より脱却して一切の邪欲を捨て、そして偉くなったひとであった。
将軍は金銭に対しては、極めて淡白にして、いささかの執着もないらしかった。将軍は何時も財布を持たず、貨幣をそのまま軍服のポケットか、和服の袂かに入れていて、時に料亭などで支払う場合など、ポケットなり袂なりから、貨幣を無造作に握み出して女中に渡し、
「残りは君等にやるよ」
この勘定に対し、何程の釣り銭があるかなどは、将軍の眼中に更にないのだった。
また旅行の場合などは、数百円の札束をむき出しのまま鞄の中に入れて置き、必要に応じて副官に、
「金は鞄の中にあるから勝手に出せ」
というが常であった。
将軍の騎兵監時代、一夕増田大佐(熊六)と共に主馬頭藤波言忠子を訪い、大いに馬事を語った事がある。藤波子は酒肴を設けて将軍を遇し、痛飲快談、時の移るのを忘れるばかりであった。将軍は余程愉快であったものと見え、殆ど起つ能はざるまでに酔った。
増田大佐は時すでに夜半の一時にもなったので、将軍を自動車に担ぎ込んで、将軍の家まで送り届けた。翌日、教育総監部で増田大佐と顔を合わせた時、
「昨夜は大変手数をかけてすまなかったな。今子爵邸に名刺を置いて来たんぢゃが、君からも宜しく言うてくれ。あんなこと滅多にないことなのぢゃが、俺は大いに愉快になると、つい失敗することがあるのぢゃ。戦地でもあまり弾丸が飛んで来るので、愉快になったもんぢゃから、ついやり過ぎて、稲垣(三郎)や中島(操)に小言を言われたんぢゃよ」
増田大佐が将軍の言葉をそのまま藤波子爵に伝えると、子爵は思わず讃嘆した。
「そうか、そうか、軍人はうらやましい。文官の総てが、今の秋山さんのようなら、日本の国家も今少しく隆盛になり、叡慮を安んじ奉ることが出来ように。実にうらやましい」
将軍は時折後輩に対して
「人間は一生涯働くものだ。死ぬまで働け」
と訓えたものであったが、常に信念の上に立って、身を以て範を示した将軍の生涯は、実にその通りであった。
昭和四年二月末のある夜、嘗て将軍の薫陶を受けた島田少将(良一)が、偶々将軍の郷里松山に所要のあった機会を利用して、簡素な寓居に将軍を訪うたことがある。主客の間に久濶(きゅうかつ)を叙し合う言葉が交わされ、一別以来様々な話のつづいた後で、談偶々逝ける仙波中将(太郎)の事に及んだ時、将軍は、
「うむ、仙波は死ぬまで能く働いたよ」
と言い、仙波中将の生涯が如何にも我が意を得ていたものだというような、寧ろそれを羨んでいるような口吻をもらしたという。
また将軍は、嘗て部下であった人たちに会えば、いつも慈父のような態度で、
「今は何をしているか」
と尋ねるのが常であった。そうしてその次には、屹度付け足した。
「何でもよいから働け。仕事は見つけさえすれば、何でもある」
武藤獣医総監(喜一郎)もある時松山に将軍を訪ねたことがあるが、談偶々老後の奉公のことに及んだ時、将軍は例に依って、
「人間は一生働くものだ」
と言って、大いに総監を鞭撻(べんたつ)したのであった。総監は退職後老齢をいとわず、現に某学校の校長をやり、その余生を育英事業に捧げているが、時に老境寒暑の身にこたえることもあると、何時もこの将軍の一言を想起して、大いに勇を鼓しているということである。
将軍が大将に累進して郷里に帰った時、先祖の菩提寺に参詣した。庫裏の方へ廻って、十円札を紙に包み、住職の前に置くと、住職はそれを開いて見るなり、
「これでは少し頂きすぎますので、お返し致します」
と言って包みを押しやると、
「ああそうかい」
その紙包みを軍服のポケットに入れるなり、そのまま帰ってしまった。
将軍は我が騎兵科建設の恩人として、全国の騎兵将校から銀製の大花瓶を記念品として贈られた。表に見事な富士山の絵が彫刻されていた。武川大佐(壽輔)遊びに来て、色々の話の末に、この大花瓶のことに及んだ時、将軍は、
「この大花瓶は百円もするのかな」
武川大佐は将軍が物の評価を、全然知らぬに驚いた。
「いいえ、その数倍もいたしました」
「そうか、それは大変な物を貰ったが、そんな高い物を何故呉れた!!」
大佐はまるで叱られたようであった。
「ハッ」
将軍はある人にこう言ったことがある。
「無造作に家なぞは建てない。大将の家を建てれば、子供の代になって困るよ。借家で沢山だ」
将軍のこの言は確かに真理が籠もっていて、将軍が住宅など眼中になかったというよりも、この信念によって終生家を建てなかったのである。将軍が騎兵監時代から久しく住っていた原宿の家は辰巳少将(寅吉)の親戚に当たる某未亡人の持家で、随分古い家であった。時には風や雨のもれることもあったが、一回と雖も家主に修繕を請求したことなく、極めて呑気なものであった。
その未亡人も能く言っていたそうである。
「秋山さんであればこそ、我慢して、あんなぼろ家に入って下さるのです。」
将軍の軍事参議官時代、ある機会を利用して帰郷したことがあったが、一日井上吉利氏と同行して、中ノ川の菩提寺にある祖先の墓を詣でた。
将軍の祖先の墓としては、余りに小さくまた余りに見すぼらしいので、井上氏は、
「もう少し大きなお墓をお拵(こしら)えになっては如何です」
暫く黙っていた将軍は、つと井上氏をふりかえり、
「君はそう考えるか。私は元来微禄の者であったのが、幸いにして今日の地位に進んだのぢゃ。先祖の残した墓を修繕しないということは、一寸悪いようにも考えられるが、併し私は将来子孫がこの墓を見た時に、奮発心を起こすぢゃろうと思うて、わざと何も手をつけぬのぢゃ」
将軍の服装が甚だ質素なものであったことは、既記の如くであるが、現在の省線電車が汽車であった頃、将軍は和服で二等車に乗ったことがある。車掌が見ると木綿着物に羽織の紐は紙捩(ねじ)り、何だか薄汚い田舎老爺としか思えぬので、
「オイ、ここは二等車だよ。あんたの乗る所はあちらだ」
将軍は黙って青切符を出し、
「これぢゃ、いいぢゃろう」
騎兵監在職中、地方の検閲に行く時など、旧式の手提げ革鞄一個に、夏のこととてシャツと軍服の着替えだけは入るが、他は何も入らなかった。ところでよく地方の師団長などが、将軍のために歓迎宴などを開くが、その際特に私服で、という註文のあることが往々あった。そんな時将軍は何時も旅館の主人の紋付きの借着で出席したので、将軍の紋は衛戍地毎に変更したのであった。
「大概の病気は、自分で我慢しておれば自然に治るものぢゃ」
これが将軍の闘病信念であった。将軍が七十才の長寿を保った所以は、一にこの信念に因るのであろう。一見現代科学に反するようだけれども、所謂理外の理で、この所に却って闘病の真理があるのかも知れない。
将軍が未だ独身で四谷の家に母堂と一緒に居た頃のある日、将軍は役所から帰って来ると、突然女中に大盥(たらい)に水を一杯汲めと命じた。母堂が、何をするのかと見ていると、将軍はその中に足を入れはじめた。
「どうかおしたか」
母堂の不思議そうな問いに対して、
「今日、馬から落ちて足を痛めたが、水で冷やせば治る」
将軍の答えは簡単であった。そうして三日間も、痛い冷たいを我慢しながら、盥の中に足を入れ通していたが、遂にそうして治してしまった。
また騎兵監時代、岡山の騎兵第二十一連隊の検閲に行った時、昼食の鮎の中毒で下痢発熱したことがある。そのため朝食もとらずに福知山に向かったが、福知山に着くなり旅舎に入り、直ちに床に就いたけれども、軍医の診察はどうしても受けず、随行員が心配して軍医と相談の上、薬を枕元に置いたが、それでも遂に服用せず、翌朝離床の後、
「ああ、今日は酒が飲めるようぢゃから、大丈夫だ、治った」
そしてその日は、予定の如く検閲を行ったのであった。
将軍が大中将時代、検閲とか演習とかで、乗馬で野外に出る場合、幕僚が戦闘に立って将軍を誘導するのを、通例としたが、やや大なる水流や、その他の障碍物に遭遇すると、騎兵科あるいは少なくも乗馬兵科の者以外は、一寸躊躇するものである。
そうしたとき将軍は、無言のまま挺進馬を躍らせて障碍物を飛越するを常とした。幕僚等もこれに倣って、障碍物を飛び越えるのであった。安東大佐(直康)の言うところによれば、将軍は馬術は寧ろ不得意であったようであるが、騎兵実施校長時代には、教官馬術演習には必ず出場し、馬術科長の号令で馬術を練習していたとのことである。
将軍は大中将時代、地方出張の時など平気で映画館に入ったように、東京でも地方出張の際などでも、平気で市内電車に乗って、吊革にぶら下がっていた。
大将などになると、大衆と共に電車などに乗るのを、威厳でも損ずるかの如く思い、何となく厭がるものであるが、将軍はそんなことは全く考えの外であって、謙遜な一老人として電車の一席を占めていたものである。
将軍が近衛師団長たりし時のある日、師団司令部の将校集会所の会食で、副官後藤大尉(秀四朗)が将軍と卓を同じうした。一座の話声が途切れた瞬間に、将軍は不意に後藤副官に対し、
「お前の顔は支那人によく似ているな」
後藤副官は不意のこの言葉に、ただ、
「そうでありますか」
というより外に仕方なかった。しかし将軍の顔を見ると、その後藤副官を見つめる眼からは何か知ら追憶の光が流れているように思われたが、この瞬時、ふと後藤副官の頭に閃いたものがあった。それは日露戦争当時に於ける思い出である。
日露戦争に於いて後藤大尉は、将軍の部下として出征したが、ある日将軍から任務を授けられて将校斥候に出た。何分敵の警戒頗る厳重にして、到底潜入することが出来なかったので、大尉は一人の兵と共に支那人に変装して敵地に潜入し、千辛万苦の末任務を果して、恙(つつが)なく将軍の許に帰って来た。これ一つは大尉が支那人に似ていることに因るのであった。このことを思い出して将軍は今斯く言ったのではなかろうか。と後藤副官は考えついたのであった。
「あッ、そうです、似ているらしいのです。それであの時は助かりました。」
「本当になあ、よくあの時は助かったものぢゃ。えらかったろうの」
後藤副官は、部下の労苦を何時までも忘れぬ将軍の真情に、思わず涙ぐまるるを禁じ得なかったという。
将軍は仏蘭西留学によって上達したる仏蘭西語の語学力を、常に維持せんとして努力していた。大中将時代に至るも、なお常に仏蘭西語の原書に親しんでいたのみならず、袖珍和仏辞典をポケットに入れ、暇さえあればそれを取り出しては仏蘭西語を勉強していた。
将軍の朝鮮駐剳軍司令官在職中、数代の軍司令官に亙(わた)って勤続した下士出身の老功な一大尉副官がいた。所謂軍司令官の専属副官という格で、軍司令官の公私生活や宴会などに、所謂?い所にてのとどくといった至れり尽くせりの世話をしていたのである。故に代々の軍司令官は、洵に重宝な副官として、これを交送せしめることなく重用していた。
然るに将軍はある日突然、右の副官交送の意を漏らした。それは苟(いやしく)も高等官衛の副官には、衆の認める優秀な人物を充てるのが至当である。即ち副官たるべき者は、宴会の世話に馴れたるの条件で採否してはならぬという意であって、将軍のこの意見は洵に至当であったが、ただこの老大尉は他に用うべき適所もなかったので、特に将軍も同情して、停年満限までそのまま軍副官として勤続せしめた。
将軍は何事にも研究心が盛んであったが、陸軍騎兵実施学校長時代は、外国軍事雑誌および新刊書は、発行所の目録に依り、必要と認めれば直ちに購入して、自ら一応の通読をなし、大部のものは翻訳依嘱者に托したが、直接必要なものは、学校教官ら等に指名翻訳せしめて、あるいは研究用たらしめ、あるいは直ちに実地に応用せしめるが常であった。さればこの時代翻訳せしめた参考書は、戦術、馬術は勿論、その他の軍事書にも亙り、その数も少なくはなかった。
また何時の時代でも部下に対し、常に新刊書を読んで、新知識を獲得することを勧めた。そしてこう注意した。
「新刊書は先ず著者に注意せよ。著者にして有名な人ならば、その著書は必ず有益なものぢゃ」。
将軍の軍人時代、若しくはその後も軍人に対する言葉遣いは、随分乱暴であった。同輩以下に対しては、日常如何なる場合でも、その姓を呼び捨てにし、また「オマイ」という二人称を用いたので、往々奇異に感じる人もあったが、これは将軍の郷里の方言で、極めて親密を表する言葉であった。将軍が言葉を改めて「アナタ」と呼ぶのは、長上以外には譴責(けんせき)の意を含む時であった。
然るに中学校長となるや、この言葉遣いがガラリと変わって、教師に対する言葉は丁重となり、常に「アナタ」を用い、その態度また頗る慇懃なものであった。
なお将軍はその人に当面しては、「某」と姓を呼び捨てにし、また「某副官」と呼んだが、従卒などに対しては、「某さんの所に持って行け」というように「さん」をつけていた。
将軍が朝鮮駐剳軍司令官著任当時は、恰も世界戦争の初期であって、独逸軍の進撃は破竹の勢いで、西部戦線に於いて、最も華やかな、また最も得意な絶頂であった。
当時我が陸軍首脳部には、独逸に留学したためか、独逸贔屓の人が多く、従って独逸に対する観察はどうしても有利で、独逸の敗戦は、絶対に考えられぬという観察が部内に漲(みなぎ)っていた。独逸との国交断絶に反対する意見の一部に行われたのもこれに基因したのである。
然るに将軍は、こうした中にあって、敢然と反対意見を表明していた。
「今でこそ独逸は買っているようだが、独逸のやっている跡をみると、甚だ驕慢であり、自惚れが強すぎる。それのみならず作戦方面はよいが、外交が甚だまずい。きっと今に孤立に陥り不遇な立場に立つだろう」
明石中将(元二郎)なども、将軍と同一意見であったが、事情を洞察し得る人の見解は、期せずして一致したものと見える。
将軍の中学校長時代、将軍と植岡陸軍少将(寛雄)と井上吉利氏との三人で、道後の鮒屋で鼎座して語ったことがある。植岡氏は親しい仲とて無遠慮に
「閣下はよく禿げましたな、どうしてそんなに禿げたのです!」
「うむ、これか。俺が今日の地位を得るまでの艱難辛苦は、一通りや二通りぢゃないのぢゃ。その間俺は何千回何万回となく頭を下げたので、到頭このように禿げてしまったのぢゃ。お前たち若い者も、少しぐらい見識があったとて、威張りくさって、上に対して頭を下げることを知らなかったら、出世はできないのぢゃぞ」
冗談とも本当ともつかず、平然と二人に語った。
北豫中学校長時代の一日、道後に浴しての帰途、将軍は電車に乗った。傍らに尋常小学校の一年か二年の男の子が乗っていた。
「坊はどこの学校に行っているのかえ」
子供がそれに答えると、
「うむ、いい子だ、勉強しなくてはいかんよ」
我子の如くに、如何にも嬉しそうに話しかけた。
中矢博氏が将軍を訪問した時、遠くに半鐘が鳴り出した。将軍は松山弁で
「ああ、火事が行きよる」
傍らにいた東京生まれの夫人が笑いながら
「火事に足がありますか」
「ハッハッハッ」
中矢氏は「校長閣下が奥様からやり込められたのを見た」と言って面白がった。
将軍の朝鮮駐剳軍司令官時代の話であるが、将軍は入浴の際、熱い時は知らぬ顔で、身体を拭いて黙って出てしまい、またぬるい時はこれまた知らぬ顔で、長く長く湯にひたっていて、浴室掛の給仕に一言も小言など言ったことがなかった。
将軍に近づく者は、いずれも将軍から大きな力と教えとが与えられた。将軍の最後の病気を診断した小林賛治医師はこう書いている。
「家庭の御生活は、尤(もっと)も令息宅に仮に御滞在中の事でもあったが、随分質素で且つ簡素な生活をして居られた。そして人間は余り沢山金を持つといけない。贅沢をしてはいけないと仰っていた。すべてに於いて忍耐力があり、修養の積めた偉い方のように思う」
「長い間の局所の疼痛を我慢されたことは、並大抵ではなかったと感ぜざるを得ぬ。また屡々我々には、もっともっと勉強して何か得意の実力を付けねばならぬ。人の後に付随して、後塵をなめるようではいかぬと、教えられた」
将軍が財物に、また衣食住に無頓着であったことは、随所に記した通りであるが、人に依っては無頓着ではなく、着物などに相当渋い好みを示していたと見る人もあった。例えば岩崎一高氏の如きはこう語っている。
「秋山大将は何時会っても、洵に品のよいつくりであった。極く渋味好みの高尚であったものです。大将のマントは、普通のマントと違い、袖付きで羽織的になっていて、帽子を見ても、履物を見ても、なかなか渋味好みがあった」
ところが将軍は矢張り無頓着であったので、それに就いて来往輝雄氏はこう言っている
「松山へ帰られて後、着物、和服などもキチンと着ていられたのは、女中さんが気をつけたからです。大将は元来無頓着で、何処へ行かれても着たきりです。日露戦争の時、岡山駅に下車されるとのことで、我々一同お迎えに行ったところ、大将は例の如く無頓着、毛布を一枚持っておられたが、それは縞目も分からないような赤毛布でした。東京に居られる間着ておられた着物などは、黒い着物のはげてしまったものでした。それが今度松山に来て見ると、東京時代とは比べものにならぬ薩張りしたものを着て居られる。これは東京の夫人の苦心もあるが、加井氏夫婦それに女中等の注意もあって、将軍自身の発意ではないのです。加井夫人が「これを着なさい」といえば「うむ」、「あれを着なさい」といえば「うむ」で、要するに他から着せられていたので、放っておけば寝衣のまま、何処へでも行くという無頓着さでした」
将軍が北豫中学校の校長となるや、教師も生徒も将軍の陸軍大将の正装の姿を見たがった。しかし将軍は正装どころか、軍服を着て学校に出た事さえ一度もなく、常に背広服であった。
「正衣袴は東京にある。正装をしろといったとて駄目ぢゃ」
将軍の答えは何時もこれであったが、余り執拗に「是非一度だけでも」と言わるるままに、昭和五年の紀元節に陸軍大将の正装で登校したが、これが校長の前にも後にも唯一度の、陸軍大将姿であった。
将軍が中学生たりし次男次郎氏を伴い、東京から松山まで旅行したことがある。その時将軍は一等車に乗ったが、次朗氏を三等車に乗せて、別々に旅行した。
「子供も相当大きくなったから、独立独行するという習慣をつくる必要がある」
将軍は大将たる身分上、一等車に乗らねばならぬが、中学生は左様な贅沢をしてはならぬという意味も含まれていた。
厩舎あるいは牧場には虻が多い。将軍がそこを巡視する時、虻がブンブン将軍の方に飛んで来るが、将軍は平然として、これを追うことをしない。将軍の手などに喰い付いても知らぬ顔している。いよいよ離れずにいると、将軍はピシャリと叩くが、それはまた百発百中であった。
将軍は河豚(フグ)が好きであったが、多美子夫人は、河豚に生命をとられるようなことがあっては大変だというので、極力止めていた。将軍の中学校長時代、三好善兵衛という近所の人が河豚の代わりとして九州産の鮟鱇を将軍に贈り、「加井さんに料理してお貰いなさい」と付言した。
その後、三好氏が将軍に会ったので、「如何でしたか」と尋ねたら、
「うむ、うまかった。鮟鱇って、俺の顔みたいな魚ぢゃの」
将軍はまた小魚が好きで、松山時代には加井氏の贈った小魚を、非常に喜んで食べていた。
将軍が現役時代、松山同郷会の会合に出席した時、こんな話をしていた。
「喧嘩というものはするものではない。一体喧嘩は、双方の意志が通ぜぬためであるから、喧嘩をしても交際は続けねばならぬ。その人と交際している間に、双方のことが分かって来るものである。故にどれほど喧嘩をしても、その喧嘩をした人を訪ねて行き、交際を絶たぬようにしなければならぬ」。
将軍は金銭には極めて淡白で、金鵄勲章等の年金を役所で受け取ると、それを「困った」などといって来る人にやったり、また部下の宴会などに寄付してしまうので、副官が気を利かせて、何時もそれを多美子夫人まで直接届けていた。
それは早く処置しないと、忽ち無くなるので、副官は年金の渡る毎に一苦労していたという。
将軍が旅行する時、副官に、何時何分に何々駅で落合おうと打合せることがあると、その時間の相当前には必ず駅に着いていた。時として副官が遅くなることがあると、将軍は副官と二人分の切符を買い、手荷物を托して待っていた。そこへ副官があたふたと駆けつけて切符を買おうとすると、
「オイ、お前の切符・・・」
副官は恐縮することが多かったという。
将軍の旅行は頗る簡易なものであって、竹楊子、歯磨粉、それに手拭一本、これが将軍の旅支度であった。
旅行中の洗面は、所謂鳥の行水のそれの如く、洗面場で手拭を一寸水に濡らし、それを室内にもって来て、ゴシゴシ顔を拭くだけであった、何所までも戦場主義であった。
愛媛県加茂川の改修工事が完成したので、その記念碑の文字を将軍に頼んだところ、将軍は快く書いて与えた。尋でその記念碑が出来たので、竣工式を行う事となり、将軍の臨場を請い、且つ農民のためになるような講話をと依頼した。
将軍はこれも快諾し、さて愈壇に立って公演を始めると、諄々二時間、農事に関する最近の事情、農耕に関する新式の方法にも及んだので、聴衆一同はすっかり驚嘆してしまった。
北豫中学校の教諭近藤元晋氏が将軍に、
「世界中で、これは偉人なりと感ぜられた人がありますか」
「そう、余りないな。しかし強いて言えば、わしが仏蘭西にいた間親しく交わっていたジョッフル将軍ぐらいなものかも知れん」
将軍が時間を厳守せること時計の針の如くであったことは、既に記せる通りであるが、それに就いて在郷軍人会の向井国広氏も次の如く語っている。
将軍の北豫中学校長時代のことで、向井氏が居村北豫村青年訓練所のために一場の講演を将軍に請い、某日午後二時に校門を出て午後三時に着くように行くとの承諾を得た。当日、向井氏は将軍を学校まで迎えに行き、校長室に入ったら、将軍はしきりに執務していた。向井氏が
「今日は御出で下さいましょうか。お迎えにまいりました。」
「うむ、一寸御伺いしよう」
既に二時に間近くなったが、将軍は少しも立つ様子がない。黙々として何か調べている。向井氏は気が気でなくいると、漸く二時になった。将軍はそれと同時に立ち上がって、
「さあ、行こう」
日露戦争後、将軍はある宴会席で、戦争中将軍の副官たりし清岡真彦氏と一緒になった。
「清岡、お前ともう一度戦争に行きたいな」
「余り強いお酒さえ召し上がらなければ、是非御伴したいものです」
「この次は酒は飲まぬよ」
「その御言葉だけは保障できません」
「アハハ」
清岡氏は戦時中、将軍の酒には随分悩まされたのであった。
将軍には人を見るの明があって、その部下に対して、適材を適所に使用することを忘れなかった。日露戦争後、陸軍少将河野恒吉氏は戦争中第二軍の参謀たりし関係上、戦史の編纂に従事したが、同氏はこう言っている。
「沙河会戦の始まる前、秋山将軍の隷下には、各師団の騎兵連隊の主力なるものが大部分いたが、それらに対し、軍前方の捜索を命ずるに、何連隊はどの方面の捜索、何連隊はどの方面の捜索と、皆異なる任務を与えているが、それをよくよく研究して見ると、連隊長の性格と、その任務とが、ピタリと合っているのには驚き、流石に秋山将軍なる哉と敬服した次第である」
将軍の令弟真之氏(当時海軍少将)が欧州視察より帰朝するや、各地公私の団体より招聘されて、盛んに講演をした。同郷人等は、そのことが余り好ましい事ではないと考えたので、将軍に対して、令弟に然るべく注意を与えられたがいいだろうと忠告した。将軍はその厚意を謝し、注意を与うることを約したが、その後更に注意を与える模様はない。
然るにその後三ヶ月、将軍は朝鮮剳軍司令官として、朝鮮に赴任することになったが、この時真之氏に向かって初めて言った。
「俺はこれから朝鮮へ馬に乗りに行くから、お前は船に乗るがええ」
日露戦争中将軍は強烈な支那酒を飲用したが、従卒の綿貫はその害毒を憂い、ある時、日本酒を余分に携行せんがため、酒保で多量の日本酒を買い込まんとした。これを知った将軍は、
「それはいけない。貴重な日本酒はなるべく多くの将士に潤おすべきものぢゃ。隊長だけ余計に飲むことはいかん」
と言って、その買占めを禁じた。
将軍が陸軍騎兵実施学校長時代、伊太利武官が学校を参観したことがあった。参観し終わっての帰途、案内役の増田大尉(熊六)に向かって、
「ここの校長は日本人ですか」
という奇問を発した。増田大尉も大いに驚いたが、将軍の西洋人に見誤られたことは、この時だけではなく、北清事変に際し、第五師団兵站監として天津に行った時もそうであって、
「日本では仏蘭西人を指揮官に雇っておくのか」
と質問した外国人もあったというが、将軍の外貌はそれほど外国人に似ていたものと見える。