師団長

坂の上の雲 > 秋山好古 > 第六章 > 第三 師団長


 大正二年一月十五日、将軍は騎兵監在職実に七年の長きを終えて、高田第十三師団長に補せられた。騎兵監の設置以来、将軍以上に永くこの職に在った者はないのである。この七年の長年月に於いて、将軍は宿望たる「日本騎兵の建設」を果たし、「騎兵の秋山」は、我が陸軍史の上に赫々(かくかく)と輝き、その名は国軍のあらん限り、不朽のものとなったのであった。
 将軍が長岡中将(外史)の後を襲うて、第十三師団長に転補され、一月二十八日衛戍地高田に赴任したが、それに先ち同師団は満州派遣の大命に接していたのである。されば将軍は、旅装を解くこともなく、翌日より早速諸団隊の巡視をなし、二月十三日その終了するや、十七日には団隊長会議を開き、渡満部隊及び留守部隊に対して、それぞれ訓示をなした。殊に渡満部隊に対しては、将来の作戦を顧慮し、内地に於いて行う能はざる諸研究を実施すべきことを要望した。
 この巡視の時、折からの大雪のため、将軍の乗れる列車は、鉢崎駅で立ち往生をなし、運転を中止するに至った。町に適当な旅館がなかったため、将軍一行は列車内でその夜を徹し、持ち合わせの菓子類で餓えを凌いだ。然るに翌日に至るもなお開通の見込みが立たない。そこで駅より配った握り飯あるいは車内の炊爨(すいさん)で、その日を過ごしたのであった。こうしている中に将軍立ち往生のことが伝わると、近在の在郷軍人は何れも酒徳利持参で、将軍を見舞に来たが、飯を持参した者は一人もなかったので、幕僚等相顧みて苦笑するばかりであったという。
 やがて渡満の正式命令あり、団下諸部隊は三月二十二日より逐次渡満したが、将軍は四月一日よりの師団長会議のため、上京して会議に列し、五日新橋出発、七日に師団司令部と共に宇品を出帆し、十日に大連上陸、やがて駐屯地遼陽に到着した。
 これより先、師団がその衛戍地高田を出発せんとするに方り、参謀長倉田大佐(新七)は病気のため引き籠もっていたが、まもなく市内の病院に入院することとなった。時に将軍は、
「どうかして、参謀長を満州に連れて行きたい」
と、種々心配し斡旋したが、参謀長の病気は、益悪化するばかりで、将軍のこの希望は遂に満たされることができなかった。
「気の毒だが致し方ない」
病参謀長を、ムリにも満州へ連れていこうとしたのは何故であったろうか。将軍には、この参謀長の病状は判っていた。そして全快は到覚束なく、死はただ時日の問題であることも、ほぼ想像がついていたのである。
「軍人であるからには、せめて公務のため満州で死なせたい」
軍人ならでは味わい得ぬ武士的愛情の発露であった。果たして倉田参謀長はその後幾ばくもなく死去したのであった。
 満州駐剳中の将軍は、率先躬(み)を以て活模範を示し、平素の持論そのままを実行していたが、この間もまた幾多の将軍らしい逸話を残している。
 ある時部下旅団長の統裁せる諸兵連合演習を視察したことがある。この演習中、斥候に出た青年将校が、遠く部落に下馬休憩している将軍一行を見誤って、敵の歩兵一中隊某村落に進入していると報告してしまった。ために所属部隊指揮官は、指揮上に大なる蹉跌(さてつ)を来たし、演習は甚だ不結果に終わった。演習終了後統監某少将は、この誤報を申告した斥候将校を処罰すべく、連隊長に要求した。然るに将軍は、その講評後統監に対して言った。
 「統監は誤報を出した将校を処罰せよと言うが、由来騎兵の将校斥候と雖も、平戦両時を通じて誤報を齎(もたら)すことは尠(すく)なくない。処分することは再考を要するし、またそれは隊長にまかしたがよい」
 処罰されんとした青年将校は、将軍のこの寛大なる一言に感激して、流沸く暫し止め得なかったという。
 大正三年一月八日の陸軍始の観兵式は、遼陽で施行された。遼陽駐剳中の歩兵第五十八連隊、工兵第十三大隊等の諸隊が、師団長たる将軍に対し、閲兵式及び分列式を行うこととなった。陸軍の服装として、儀式の軍装にあっては、将校は白革の手套を用いることになっており、また師団命令も左様に下達された。
 満州の酷寒期に於いて、この白革手套は疼痛を感ずることはまだしも、凍傷にかかる虞(おそれ)があるので、各部隊長は将軍に対して、これを防寒手套に改められ度き希望を申し出た。しかし将軍は厳として言い渡した。
「師団長が一旦命令したことは、これを改めることは出来ない。各隊は命令に服従せよ」
 満州駐剳師団の将校には、すべて家族携行が許されず、各将校は、各々官舎に従僕の如き者を使用して生活していた。営内居住の者でない限り、官舎に帰れば誰しも直ちに私服に着替えたものである。然るに将軍だけは、朝起きるより夜寝る時まで、常に軍服を着用していた。酷暑の時季など、入浴や夕食後の軍服はなかなかの苦痛であったが、将軍は依然として軍服主義を改めなかった。
 ある夏の夕、将軍は参謀長首藤大佐(多喜馬)と、露台で夕涼みの雑談に耽(ふけ)っていた。時に首藤参謀長は、
「せめて夜間だけでも、軍服をおぬぎになりましては・・・。」
「いや、満州に来ると、兎に角若い者が気を弛めて、失敗じる者が多いから、せめて俺だけでも、謹直にしとらんとな」
首藤参謀長は自分の和服姿を顧みて、冷や汗三斗の思いをしたという。
 同じ首藤参謀長は、当時の将軍の生活振りに就いて、次の如く語っている。
「宿舎に起居していられる時は、入浴及び洗面は常にされたが、、演習に出られると、従卒が朝夕洗面の水を持って行っても、手拭いをその中にひたして、これを絞って顔を一、二遍ぐるぐるとなでられるだけで、決して洗面されなかった。で、私は、能く将軍に洗面をおすすめしたが、何時も将軍は、満州では水が大切だ、人間は洗面しなくても、死ぬことはないが、馬は水がないと殪(たお)れてしまう。一碗の水でも大切にすることを、平素から心がけねばならぬ。この意味で俺は顔を洗わぬ、と言われたが、将軍の簡易生活の真締、実に真から頭の下がるを覚えた。」
 大正三年の四月に恒例に依って、東京で師団長会議が開かれたが、将軍は満州から上京して会議に列した。その状況の途、留守部隊巡視のために、三月十九日高田に到着、その翌日から在高田の諸部隊を巡視し、さらに将校を偕行社に集めて、満州に関する講話をした。師団長自ら将校に講話するなどは異例なるために、一同大いに敬服した。それに引き続き、団下各地の諸部隊を巡視して、三十日に上京したのであった。
 会議終わって駐屯地に帰還することとなり、東京駅から乗車したが、これも衛戍地熊本に帰還する第六師団長明石中将(元二郎)と偶然同車した。この両将軍は、その風格に於いて相似たるもの多く、意気相投合していたので、酒杯の応酬と共に談論風発更に尽きず、夜に入りて僅かに仮眠したと思ったが、覚めると更に談論を続け、遂に下関に至ってここで両雄相別れた。この際両雄の性格の差を物語る小話がある。
 将軍は煙草「朝日」を愛用し、ほとんど絶え間なく喫していたが、その喫い方たるや徹底的なもので、指をこがす程度まで喫った。これに反して明石中将は「敷島」を喫い、その半分ぐらい喫うとそれを捨てていた。ここに両雄の性格の差が何となく浮き出ているように思えた。
 将軍の物欲に対する恬淡(てんたん)さは、この時代にも随所に発揮された。将軍がある時某所に出張したとき、某の高級将校が、将軍に対して好意的に次のような話をした。
「かつて肅親王所有であった八畳敷き位の虎の皮が、内密に売物に出ており、価格も極めて廉価であるから、記念のためにこの際購求されては・・・」
「僕は貧乏ぢゃ。軍人にはそんなものはいらんよ」
将軍は言下に拒絶してしまった。
 将軍はこの駐剳中、毎朝一時間は必ず乗馬運動をしたが、それは晴雨を論ぜず、寒暑を問わずで、時には酷寒零下二十度ぐらいの日でも、決してこれを廃することはなかった。
この駐剳中、公務にて地方に出張した場合、偕行社の如き軍人の宿泊所あれば、先ずここに、然らざれば日本人の経営旅館に宿泊した。その大小、清潔不潔の如きは、毫も問うところではなかった。そして部下の宿舎とか、守備隊とかへは、決して宿泊することはなかった。そして将軍はこう言っていた。
「軍隊に宿泊せば、濫(みだ)りに兵卒を使役し、隊長に心配をかけるばかりぢゃ」
 この頃将軍は、馬丁か職工かに見誤られたことがある。大連の満鉄本社の高級社員が、ある日食堂でしきりに語り合った。
「昨夜歌舞伎座の二階正面桟敷に陣取っていた××理事と一緒に観劇していた男を見たかね」
「うむ、僕は××理事が、馬丁みたいな男と親しそうに話していたので、驚いたわけだが、それが誰だか、、未だに分からないんだ」
「僕も××理事が、老職工に知己があるとも思えず、不思議に思っていたのだ」
 然るにこの老馬丁老職工こそ、何ぞ図らん遼陽駐剳中の第十三師団長たる将軍ならんとは。この日将軍が事務打ち合わせのため大連に来た機会を捉えて、××理事が一夕観劇に招待したのであった。背広服に鳥打帽姿の将軍が左様に見えたのである。
 大正四年二月十五日、第十三師団の内地帰還の直前、将軍は近衛師団長に転補された。全師団長山根中将(武亮)が定年満限にて後備役に編入された後を承けたのであった。そこで将軍は遼陽を去って三月九日門司着、下関より一路東上し、禁闕(きんけつ)守衛の重任に膺ったのである。
 その七月頃であった。将軍は副官後藤騎兵大尉(秀四郎)と参謀一名をつれて、秋季演習地の地理実査のため八王子付近に出張した。然るに将軍はその初日から下痢を催していたので、参謀と副官とは、後日出直すべきことを切に進言したが、将軍の気性としてどうしても帰ろうとは言わない。已むなく二人の幕僚は、医師も居ない僻地を数日間に亘って、将軍を介抱しながら、それでもどうやら予定の地理実査を終えて、最後の日に多摩川二子河原に出た。その時には、幸いに将軍の下痢はほぼ回復していたので、将軍は、
「大分心配かけたから、今日はお前達に鮎を御馳走しよう」
 将軍自身で料亭に命じて、屋形船を清流に流し、、獲れた鮎を酒肴として、二人の幕僚に感謝の意を表した。やがて将軍は、微醺(びくん)至るに従って、頗る上機嫌となり、舷側に足を出し膝から下を水にひたし、無邪気に河の水をかきまわしながら、頻りになにやら低唱しはじめた。後藤副官は将軍が低唱しているものは、詩吟か謡曲か、そんなものであろうと思いながらふと耳をすますと、豈(あに)図らんやそれは正しく、
「今頃は半七さん」
の浄瑠璃の一節ならんとは。多摩の清流に掉し、芳醇と鮎の珍味ですら最早十分の御馳走であったのに、更にまたここに猛将軍の口から、「今頃は半七さん」の一齣を聞こうとは、二人の幕僚の夢相だにしないところであった。
 また将軍はある時、二名の幕僚をつれて、群馬県藤岡町に出張したことがある。宿屋の夕食時に、幕僚の二人は将軍の隣室で食膳に向かったが、隅々鰹の刺身が変味していて、舌を刺すように思えたので、副官は取り敢えず将軍の室に行って、刺身に異常のあることを告げて、その不注意を陳謝した。そしてふと将軍の膳を見ると、刺身皿には既に一切も残されていず、綺麗に平らげてあった。将軍は微笑しながら、
「田舎に来て贅沢言うな。土地の人間は味の変わった刺身を当たり前と思っているのぢゃ。勢の好い刺身なぞは、この辺の土地の者は食べたことはないのぢゃ。その辺によく気をつけるものぢゃ」
 この頑健な将軍も、矢張り病気には克てず、一度入院したことがある。師団砲兵隊の検閲が世田谷練兵場で行われ、将軍は乗馬でこれに赴いたが、健康を害してでもいたためか、軽い脳溢血で、フラフラと危うく倒れんとした。これがため健康回復まで約一ヶ月間、赤十字病院に入院したことがある。
 将軍の近衛師団長時代はなお軍備整理前で、近衛、第三、第四師団等には、軍楽隊が付属されていた。されば恒例の年一回実施されている師団長の各隊随時検閲には、やはりこの軍楽隊をも検閲し、奏楽の一課をも検閲するを例としていた。然るにこの奏楽の検閲ということは、専門といっても極めて特殊なものであって、素人の軍人には判る筈がなく、検閲と言ってもほんの形式に過ぎなかった。従って師団長にして奏楽に就いての講評をしたことの前例は殆どなく、幕僚にしても、誰一人楽を聞きわける耳を持っていなかった。故にこの時の検閲にも、講評材料を師団長に提出した中には、奏楽にふれた項目は一つもなかった。然るにいざ講評となると、将軍は音律、調節等に関して滔々(とうとう)と講評した。驚いたのは幕僚及び楽長であって、さすが仏国仕込みの将軍だけに、こうした方面の知識をも、何時しか修得していたというので、尠(すくな)からず敬服したのであった。


 赫々 : 赤赤と照り輝くこと。
 炊爨 : 炊飯、炊事。
 蹉跌 : しくじること。挫折。失敗。
 偕行社 : 陸軍将校の親睦と学術研究を目的とする団体。
 敷島、朝日 : 日露戦争中に戦費調達のために販売された専売煙草。「敷島」8銭、「大和」7銭、「朝日」6銭。銘柄の名前は本居宣長の和歌「敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂ふ 山桜花」から採られた。
 恬淡 : 欲が無く、物事に執着しないこと。
 禁闕 : 皇居、皇居の門
 微醺 : ほろ酔い
 豈図らんや : 意外にも
 滔々 : 次から次へとよどみなく話すこと