大将秋山

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 禁闕の守衛という近衛師団長の重職に在ること正に一ヶ年半、将軍は大正五年八月十八日に、本職を免じ井口中将(省吾)の後任として、朝鮮駐剳軍司令官に補せられたのである。
 その十一月十六日、遂に軍人の最高官陸軍大将に任ぜられた。騎兵科出身の陸軍大将は、閑院宮戴仁親王殿下を除けば、将軍を以て嚆矢(こうし)とするのである。言葉を換えて言えば、騎兵科は将軍に於いて初めて大将を出したわけであって、これ将軍の過去の功績とその器量とに因るは勿論であるが、また一面から見れば、騎兵科重要性の認識がそれだけ向上したものというべきであろう。
 将軍の大将栄進を祝し、長谷川朝鮮総督(好道)は特に一夕の祝宴を張ったが、その席上総督は、日露戦争当時の騎兵の高級指揮官たりし将軍の赫々たる戦功を激賞し、今日大将の栄位に進んだことは極めて当然のことであると述べ、将軍のために乾盃したが、総督の挨拶は洵に至当であって、何ら誇張でも、追従でもなかった。
 将軍の着任後、恒例の披露宴を催うし、一夕外国領事その他外交関係の人々を招待した。その席上、将軍は簡潔のフランス語で挨拶を述べたので、将軍のフランス語の素養を知らない者は、アッと驚いた。最初幕僚達は、従来の慣例の如く、幕僚の予め作成せる原稿に依って将軍が挨拶し、それを副官古城大尉(胤秀)が通訳するものとのみ思っていたところ、将軍自身がその原稿を仏訳して話したのであった。将軍の仏国留学、あるいは平和会議参列を知る者にとっては何等驚くに当たらないのであるけれども、蛮骨稜々、容貌魁偉な将軍の一面のみを知る者には、このフランス語の挨拶が洵に意外であったのである。
 将軍の朝鮮駐剳軍司令官在任中、また数々の逸話を残したが、それは何れも豊かな教訓の含まれているものであった。
 当時朝鮮には第十九師団が完成していて北部朝鮮を鎮守していたが、南部には臨時派遣の歩兵一旅段が各地に分屯して守備に任じ、軍司令官の直轄となっていた。故にその部隊は軍司令官が直接検閲を行ったのである。それである時、将軍が南朝鮮地方守備の分遣歩兵中隊の臨時検閲を行ったが、その時某中隊長は熱心なる精神家で、状況報告の中に次のようなことを述べた。
「当守備隊は、毎日起床時限三十分前に中隊長以下一同中庭の小山に集まり、東天を拝して先ず、天皇陛下の万歳を祈り奉り、次に故郷にある父母の無事を祈ることに定めて居ります」
 これは内地を離れて、診療度を守る軍隊として、一応殊勝な心掛けと思われた。ところが巡閲終了後、将軍は座談的に中隊長に対して、次のように諄々と諭した。
「軍隊では、軍隊内務書の細密な規定だけでも、満足に実行することは困難だ。中隊長の精神教育に関する心懸けはよいが、中隊長だけの考えは、次の中隊長の代となって行われないとも限らない。軍隊内務書だけで沢山ぢゃよ。余り色々なことを兵に要求せぬがよい」 
 また同じ南鮮地方派遣の某連隊の一歩兵曹長が、ある時経理上法規違反をやって問題を起こした。軍の経理部長はそれほどのことは、さほど重く罰する要なしと言えば、法官部長は司法処分を適用せよと言い、問題の処決に意見対立して、甚だしい紛糾を生じた。そこで連隊長は、その執るべき処置に就いて、軍司令部に伺い出た。然るに将軍は、別に両部長を呼んで、その事情を確かめるでもなく、即座に極めて簡単に
「隊長に委せておけ」
ただの一言であった。これでさしもの難問題も容易に片付いてしまった。後で将軍はこの事に就いて語った。
「余り平時から、上の方で兎や角指図すると、肝心の戦場に出ても、隊長は自分のなすべきことを、一々上の方に伺い出て、独断の気勢を鈍らすことになる」
 将軍の就任当時、軍司令官の地方旅行と言えば、特別に一客車を連結し、また初度巡視の際などは、鉄道沿線の主要停車場には、小学校児童が整列して送迎する慣例になっていた。
 然るに将軍は、こうした仰々しい大名儀礼が大嫌いで、結局汽車には普通客車を以て当て、小学校児童の整列送迎は、学業を欠いてまでその必要なしとして、これも断ってしまった。
 当時の将軍の簡易主義はその起居にも見られる。龍山の軍司令官官邸は、初代の長谷川軍司令官(好道)当時、特に軍部の偉容を示す必要から、経費を惜しまずに建築したもので、実に堂々たる洋風建物である(後に日本座敷の建て増しをしたが)。邸内の設備等もこれに伴い、今日内地の師団長官舎などとは、到底比較にもならない宏壮なものであった。前任井口司令官時代には、家族同伴の関係もあって、階上、階下の殆ど全室を使用していた。それを将軍は単独赴任にも依るが、宴会等の場合の外、単に階下の一室を自分の起居に充てたのみで、前後類例なき簡易生活で終始したのであった。
 将軍はこの様に虚飾を嫌い、真実を以て人に接したので、一見近づきにくい威容を備えていたに拘わらず、親しく接した人々は、何れも春風に溶するような気持ちで、婦人子供に至るまで、「秋山さん、秋山さん」とて、親しみの敬慕を払っていた。
 将軍司令官在職期間は、丁度一年であったが、この間機会ある毎に、口癖の如くに満蒙発展の緊要を高調した。それは言うまでもなく、満蒙に対する領土的侵略を意味するのではなく、日本の自衛の上から、朝鮮の領有及び治安の維持は絶対に必要であるが、その朝鮮の領有及び治安の上から、満蒙を我が勢力圏内に保持することを、緊要無二の条件なりとしたのである。
 大正六年八月六日、将軍は職を松川大将(敏胤)に譲って軍事参議官に転補された。
 その秋の第十六回特別大演習は、江州彦根付近で行われたが、将軍は北軍司令官として、南軍司令官大谷大将(喜久蔵)と相対戦した。幕僚長は参謀総長上原大将(勇作)これに任じ、将軍の隷下に属したものは、第三師団(長 大庭二郎)、第九師団(長 橋本勝太郎)の二個師団、大谷大将の隷下に属したものは、第四師団(長 宇都宮太郎)、第十六師団(長 守正王殿下)の二個師団であった。
 十二月十七日、馬政局及び軍馬補充部臨時検閲官を命ぜられた。この検閲は馬の特命検閲と俗称され、軍事参議官を以て検閲官とし、しかも他省所管の馬政局をまで検閲するが如きことは、未だかつてその例を見ないことであった。これ将軍の如き軍事参議官を俟(ま)って、初めて実行し得たものであり、また将軍の主張多きにあることを想わしめる。その時将軍は、我国馬政の根本方針として、戦時所要馬数を充足することに重きを置き、遂に能く今日の我国馬政の確立を見るに至ったのである。
 この検閲は植野少将(徳太郎)、南大佐(次郎)、蒲少佐(穆)等を属員として、大正七年一月より三月上旬に至るまで、馬政局及び軍馬補充部関係の各部に亘って、広く実施したものであるが、将軍は馬産と国防との密接なる連繁の必要を認め、当局に対しては、地方産馬の状態に関する調査を周到にし、且つ馬政局及びそれと軍隊との連繁を緊密ならしめることの喫緊時を説き、なおまた馬産に対する国家の要求、及び馬匹の経済的利用法を地方官民に徹底させ、更に民度に適応する馬匹の経済的飼育法をも調査研究して、これを普及することを要求したなど、いかにも当時の実情からして、将軍らしい卓見であった。
 この検閲に於いて、当時に於ける本邦馬政の実際を見たる将軍が、地方官民に対して口演したる要旨は次の通りである。
 馬産事業は地方官民の努力に依り、逐年進歩の跡を示しつつあるは、邦家のため同慶とする所なり。抑軍国の事改善を庶機すべきもの一にして足らずと雖も、就中馬産の改良、増殖は急務中の急務に属し、軍備充実の主要条件たるは勿論、これを農、工、商業より見るも、此年益々その要求を高めつつあるは、幾多交通、運輸機関の進歩発達を見るに拘わらず、益々馬匹の需用を増加するに於いて明なりとす。而して本邦産馬の現状は、如上の要求に対して、なお研究考慮の余地を有し、各位の適切なる指導監督に待たざるべからざるものあり。左に所見を開陳して参考に資せんとす。

一、素質に就いて
 近時本邦の生産馬は、これを日露戦争前に比すれば、素質の向上著大なるものあるは何人も認むる所なりと雖も、尚改良の過渡期に属し、将来一層の研究努力を要するものあり。
 生産馬の身幹徒に伸長して体幅これに伴わず、動もすれば細い骨韮弱に陥り、以て実用的素質を欠如する傾向あるは戒めざるべからず。将来飼育管理法の改善、就中個体の鍛錬に勉め、以て堅実剛健なる馬の生産育成に勉むること頗る必要なり。また良種の生産を望むは可なりと雖も、単に少数の駿馬を得るに熱中し、一般の需用に適すべき堅実なる馬の多産に著意せざるが如きは、策の得たるものにあらず。
 蕃殖牝馬の素質は、種牡馬に比して著しく遜色あり。この如くんば優良の種牡馬ありと雖も、良駒の生産得て望むべからず。種牡馬の整備は、これを当局の画策に信頼するを得べし。当業者は宜しく牝馬の改善に一段の努力を為すを要す。
 牧草の耕作、天然草の改良は、飼育管理の改善と相俟って馬生産上の要件なり。然るに当業者に於いて財力乏しく、、これが実行を難んずるの風あるは遺憾とする所なり。将来馬力の応用、厩肥の利用等宜しきを得ば、一面馬匹需要の増加に伴う価格の昂騰に伴い、経済上の考慮また従って減少するの秋あるべし。当業者もまた進んで馬匹使用に関する経済事情の研究に著意するを要す。欧米列強の如き、夙にこれが研究に従事し、既に収支相償って余りあるの実情に達せるは、以て範とするに足らん、
 馬匹買上価格は、日清戦役当時一頭平均七十円内外より漸次高上して、今や百四五十円に達せるを以て見るも、一般経済界の趨勢に応じ、必ずや相当の高上をなすべきは信じ得る所なるべし。
 育成上個体鍛錬の至要なるは既に述べたるが如し。然るに民間飼育の実情は、漸次舎飼に陥り、以て馬匹天賦の能力を空しく槽櫪(そうれき)の間に没却せしむるもの鮮からず。宜しく上下協力して放牧地の設定、放牧の励行を策せざるべからず。また飼養の方法及び蹄の保護等に関しては、失宜の点頗る多し。将来特にこれが指導に努力するを要す。

二、馬数について
 自給自足は国防上の原則にして、現に欧州各交戦国が食料、船腹、鉄、石炭及び平気等悉くこれが自給策を講じつつあるは、周知の事実なり。就中馬匹の供給に就いては各国共に苦心惨憺たるものあり。蓋し馬は食糧、船舶、兵器等の如く使用の制限、工業動員作業力の増加等一時的努力に依りて、急速にその需用を充たすを得ざるものなればなり。
 戦時欧州に現存せる馬数は、約四千万頭にして、亜細亜に比して約四倍なり。就中露国はその大半を占め独国四百五十万、墺洪国四百万、英、仏国は各三百万及至三百五十万を算せり。然るに露国を除くの外各国は開戦後直ちに軍馬及び民間用馬匹に大なる不足を生じ、独墺はこれを土耳古、和蘭又は丁抹に、英仏は米国、南阿、濠州等より輸入し、その数米国内のみに於いて、開戦後三ヶ年にして約九十万頭に達し、その経費は実に八億及至十億に達せりと言う。馬政の進歩発達吾人の範とすべき欧州に於いて既に然り。翻って本邦の現状を観るに、明治四十三年以来大正六年迄八ヶ年に間於いて、馬匹の総数は百五十七八万の間に在りて、啻(ただ)に増加を見ざるのみならず、北海道及び鹿児島等を除くの外、各地共に若干の減少を示しつつあり。この如きは邦家の前途に鑑み、真に憂慮措く能はざる所なり。而も本邦全馬数中採りて軍用に供し得る資格あるものは、僅かに四五十万を出ず。然るに将来戦役間所要の馬数は百万に達せんとす。この如くんば本邦馬匹の資源を枯渇するもなお及ばざるものと言わざるを得ず。故に馬数の増加は素質の改善と相俟って、馬政上の要件たり。よろしく世界の大勢と国家の要求に鑑み、これが生産使役を奨励せざるべからず。
 これを要するに、産馬事業は一朝にしてその功を収むるを得ず。必ずや堅忍持久苟(いやしく)も一時の利害に眩惑せず、以て良果を永遠に期すること必要なりとす。而して馬政に関しては法規既に備わり、当局また各位と共同連繋(れんけい)を怠らざるべし。各位また進んで当局と常に密接なる関係を保持し、相協力して斯業の発達を期せんこと本官の切望して止まざる所なり。

 その後大正八年五月十日、馬政委員会管制の制定せらるに及び、当時軍事参議官であった将軍は、其の委員長を仰せ付けられた。ここでも将軍は、我国馬政の根本は、飽くまで国防上の見地に立ってこれを企画し、戦時所要馬数の充実に遺憾なきことに重点を置くべきを、懇切に指導したのである。当時未だ馬政上に確乎たる準拠のなかったものに対して、画然たる準拠を与えたなどは、馬政上に於ける将軍の一大功績と言い得るのである。
 右の検閲実施間、種々の事情から、検閲官の行動予定を変更するを利とするような事情が起こった。高級属員植野少将は、この変更につき将軍の許可を求めた。然るに将軍は、
「それはお前等の意見通りに変更すれば、それだけ便利かも知らないが、併し規定通り実行しても出来ないことはあるまい。多少の不便を忍んでも変更しない方がええ。自分は戦時に予定の変更をやって、後になって取り返しのつかない齟齬を来たしたことがある。爾来一旦きめた予定は決して変更しないことにした。変更して得る処の利益よりも、これがために失う処の損害の方が必ず多いものだ」
将軍は頑として変更案を斥けた。その同じ検閲中に置いて軍馬補充部萩野支部に行った時、新庄の旅館から支部所在地まで二里余りの道を、酷寒を冒し、大吹雪を衝き、馬橇(ばそり)に乗って往復し、更に各分厩を巡視したが、この日将軍の宿痾である神経痛が劇しく発作して、余程困難なようであった。併し将軍は一向受診服薬せず、翌日もなお劇痛を忍んで大吹雪の中を、橇或は馬若しくは徒歩で、終日検閲に従事した。
 この検閲中の二月三日、将軍は白河に於いて東京の山下亀三郎氏からまたとなき悲報に接した。それは令弟海軍中将秋山真之氏の病気危篤の飛電であった。「どうも容体がよくない、余程重体のようだから直ぐに来て貰いたい」との意味のものであった。
 植野少将は、
「細部の査閲は、我々で続行もし、要すれば若干予定を変更しても差し支えなかろうと思いますから、至急御帰京になっては・・・・」
 将軍は即座に拒絶した。
「自分は東京を出る時、今日あるを予期し、弟には別れて来たのだ。今帰る必要はない」
そして傍らの南大佐に「行かぬ、宜しく頼む」の返電を、打つことを依頼した。
 翌四日に至って、真之提督遂に逝去の悲電が飛来したのであった。併し将軍は官命を帯びている以上、縦令(たとえ)肉親の死なりとも帰宅することは出来ぬと言って、依然検閲を続けたのであった。併し令弟というも、日露海戦に於いて、統合司令長官の帷幄(いあく)に参じ、赫々たる籌策(ちゅうさく)の功を樹てたる一代の傑将である。事必ずしも私事とのみはいうことが出来ない。
 そこで随員一同は相談して、専属副官から当時の人事局長白川少将(義則)に宛て、電報でその趣を通報したところが、今度は同局長から将軍に宛て、
「検閲の方は一時高級随員に代理せしめ、速やかに帰京せらるよう、大臣の命によって伝う」
 そこで将軍は初めて帰京することに決し、二月七日の令弟の葬儀に漸(ようや)く列することが出来たのである。そして葬儀の後再び検閲地に赴き、二月十三日の長野種馬所からの検閲を引き続き実施したのであった。
 大正八年二月十二日、朝鮮に出張を命ぜられ、三年振りで旧任地を巡視した。その時の朝鮮軍司令官は宇都宮中将(太郎)であって、朝鮮駐箚軍は既に(大正七年五月三十一日)朝鮮軍と改称されていた。
 同年秋、須磨を中心として、摂津、播磨地方で行われた第十八回特別大演習には、将軍は再び軍司令官として指揮を執った。統監幕僚長は参謀総長上原大将(勇作)で、将軍は西軍司令官として第十一師団(長 齋藤季次郎)、第十七師団(長 古海巌潮)とを指揮し、東軍司令官柴大将(五郎)の率いる第四師団(長 町田経宇)及び第十師団(長 金久保萬吉)と対戦したのである。
 大正九年四月十四日、将軍は第一特命検閲使仰せ付けられ、三たび朝鮮に渡って第十九師団及び第二十師団の諸部隊を検閲した。その際北鮮地方警備及び開発に関する意見を、陸軍大臣田中中将(義一)に提出したが、それは非凡の卓見であって、後年に於ける満州事変の箴(はり)を為したかの如くにさえ思われる。
 将軍の支那に対する着眼は北清駐屯中に始まり、当時早くもその重要性を認め、当局に具申して佐藤安之助氏をして特にこれが研究に当たらしめたほどである。日露戦争後は更に眼を満蒙に開き、満蒙なくして日本の安全と発展との途なきことを痛感し、これが研究調査には常に多大の力と心とを注いだのである。令弟真之提督また見を同じくしたるため、当時日支貿易に従事し居たる令婿塚原嘉一郎氏を交え、三人鼎座、夜をこめて語り合うことも屡々であった。また満蒙問題研究を目的として伊集院彦吉、花井卓蔵、馬越恭平、早川千吉郎、寺尾亨氏など二十余名の組織したる十一会にも参加して毎月会合には必ず出席し、熱心に意見を上下したものであった。
 大正九年も押し詰まった十二月二十八日、将軍は教育総監に補せられ、軍事参議官を兼ねしめられた。前総監大谷大将(喜久蔵)の予備役へ編入された後を承けたのである。栄職から顕職へ、一歩々々進み来て、今や陸軍三長官の一に任ぜられたのである。
 教育総監としての将軍は、恪勤精励、鋭意陸軍教育伸刷新を図った。時恰(あたか)も世界戦争後の思想動揺期に際会していたので、軍教育に取っての重大時期であった。将軍は静に時代の進運を察し、深く軍隊教育の真髄を慮り、軍隊教育令、軍隊内務書、その他諸典範令の改訂に関し、それぞれの意図を示して研究を積ましめた。
 将軍はまた身を持すること甚だ謹厳で、例えば総監用として、送迎用自動車の備付があったに拘わらず、毎日の出退庁には、絶対これを用うることなく、いつも原宿の邸から、乗馬で教育総監部に通っていた。それは自分が軍人であり、また騎兵であるという立場から、常に馬に親しむの範を示したのである。
 大正十年、山陰地方の諸隊を視察したが、濱田歩兵第二十一連隊の視察を終えて、大阪の方に出発しようとする前夜、旅館の主人が将軍に、
「明日は途中、出雲大社を御参拝になっては如何ですか」
と勧めた。随員も未だ大社を参詣したことのない者が多かったので、内心将軍の行くことを望んでいたが、将軍は、
「さあ・・・」
曖昧な返事をしていた。後刻副官がその決定を促したところ、
「お前等だけ行け、俺は行かない」
 また北海道の諸隊を視察中、帯広より十勝牧場に行く途中にあるアイヌ部落を視察されんことを幕僚が勧めた時も、将軍は承諾しなかった。即ち将軍は公務の傍ら私用を弁ずることを極度に嫌ったのである。
 教育総監の在職は二年三ヶ月であって、大正十二年三月十七日に、本職及び兼職を免ぜられて待命となり、尋でその三十一日に予備役に編入され、茲に光栄に満てる軍人生活を終えたのである。思えば明治十二年、陸軍騎兵少尉任官以来、実に四十四年の長年月の間、騎兵将校として出身し、騎兵部隊長として戦場に臨み、騎兵学校長として兵科刷新を図り、騎兵監として理想を実現した。将軍の全軍人生活は、北清事変の暫時の兵站監を除けば、殆ど騎兵の隊将若くは騎兵の教育家として終始一貫し、騎兵科に関係せざる軍方面、軍政方面等には、一度も関与したことがなかった。権勢に憧れず、名利を求めず、只管我が騎兵科のために尽くしたる功労は、日露戦争の功績と共に不朽のものでなければならぬ。「日本騎兵の建設者秋山将軍」は、溢美の言にあらず、過褒の辞にあらず、事実そのものなのである。


 嚆矢 : 物事の始まり
 槽櫪 : 馬の飼料を入れる桶。
 帷幄に参じ : 軍事上の機密の相談に参加する
 籌策 : 策略、はかりごと


※長谷川好道(1850〜1924): 陸軍元帥。岩国藩出身。戊辰戦争、西南戦争に従軍。日清戦争では旅順攻撃に参加。日露戦争では近衛師団長として鴨緑江会戦、遼陽会戦に参戦。明治37年9月に朝鮮駐剳軍司令官に就任。戦後は参謀総長、朝鮮総督などを歴任。朝鮮総督在職中に起こった三・一独立運動に対しては軍を動員して鎮圧するなど、武断政治として批判を浴びた。
※植野徳太郎:陸士3期、陸大13期卒、陸軍中将。軍務局騎兵課長、軍馬補充部本部長を歴任。この検閲時は陸軍騎兵実施学校長を務めていた。
※南次郎:陸士6期、陸大17期卒、陸軍大将。騎兵第1連隊中隊長として日露戦争に出征。その後は軍務局騎兵課長、関東軍司令官、朝鮮総督などを歴任。満州事変時の陸相で、戦後はA級戦犯に指名され終身禁固刑となる。
※伊集院彦吉(1864-1924):外交官。好古が清国駐屯軍守備隊司令官をしていた頃に天津領事を務めていた。パリ講和会議全権委員、第2次山本内閣外務大臣などを歴任。