将軍が無慾恬淡で常に清貧に甘んじたことは、将軍の偉大なる性格を形作る一つの要素であった。それに就いては幾多の事例がある。
騎兵第一大隊長として日清戦争に従い、満州の野に赫々たる勲功を樹てた将軍は、平和克復と共に明治二十八年六月、原隊を率いて広島に凱旋し、征戦一年、生死の巷に出入りしたる将兵も、武運目出度く再び故国の地を踏むこととなった。凱旋の喜びは、歴戦者のみに与えられたる特典である。
戦争中は酒と煙草の外は金の使い道がないので、俸給は何時も袋のまま鞄の中へ投げ込まれていた。宇品の検疫も終わり、愈(いよいよ)喜びの第一歩を広島に踏むこととなると、将軍は副官に命じて鞄の中から俸給袋を取り出し、
「皆よく働いてくれた、これで凱旋祝いの酒でも飲んでくれ」
と全部部下に与えたという話もある。
若い将校間に人望のあった将軍は、宴会の帰りなどには屡々彼等に二次会に引っ張られることがあった。そんな場合には会費は他の者の知らぬ間に将軍が支払うのが常であった。出張旅行の際などは旅費を裸のまま鞄に入れて、出納は副官に委し切りで計算書等は調べたことがなかった。当たり前の事のようであるが、旅館のチップまでも随行の者と頭割りにする者さえあるというのに比して誠に恬淡の至りである。
北清駐屯の三年間に於ける将軍の功績と努力とに就いては、その章に於いて既に述べた通りであるが、その間あるいはその徳を慕うため、あるいはその功を謝するため、あるいはまたその労を慰めるため、在留邦人並びに支那官民から寄贈された記念品の類は非常に多かった。然るに任を終えて帰朝した時、トランクの中には目録の紙ばかり一杯詰まっていたが、品物は一つもなかった。そこで将軍に尋ねると、
「ウンあれか、どうせ只(ただ)で貰ったものだから、欲しがる者にくれてやったよ。しかし先方の好意を受けるため目録だけは貰って帰ったんぢゃ」
万事この方式で内地に於いても同様であった。あたかも西行法師が頼朝からもらった銀猫を門前の子供に与えたという古事にも似たる恬淡さである。
将軍の次女健子は三輪田高等女学校の出身であった関係から、その結婚問題のため、校長の元道氏がある日将軍の邸を訪ねた。家は勿論借家であったが、室内へ通って見ると、器具用度などの質素なのに先ず驚いた。然るに座敷に通ると、そこには周囲と甚だ不似合な立派な豹の皮の椅子掛があるのを見て、再びその不調和に驚かされた。元道氏が
「大変御立派な物ですな」
というと将軍は、
「ウンこれか、これは朝鮮の国王から貰ったのぢゃ。二枚あるから君が要るなら、一枚遣ってもよい」
手拭かハンカチでもくれるように甚だ簡単に話すので、元道氏は三度驚いた。しかし戯談とも思えないので、
「頂ければ結構ですけれど、こんな立派な品を・・・」
と聊か躊躇すると、
「なに好いよ、俺のところは一枚あれば沢山ぢゃ」
と奥から他の一枚を持ち来り、自分で紙に包み、紐まで掛けてくれたとは、元道氏の談話である。
将軍はまたある時、山下亀三郎氏から北海道の大きな熊の皮の敷物を貰ったことがある。借家住まいの座敷には不似合いぢゃと言って、惜しげもなく旧藩主の久松家へ贈呈してしまった。
また軍事参議官時代のことである。同郷の陸軍軍人会をどこかの牛肉屋で開いたことがある。将軍は和服で出席したが、幹事から会費は十円と聞き、もし会費が足らなかったら俺が出すからと言いながら、いつもの通り袂から三枚の十円札を取りだした。見ると将軍の袖の間から出たメリヤスの襦袢の肘が破れたのを繕ってある。幹事はこの将軍の質素に感ずると共に、己に奉ずること薄くして、後輩に厚きに感激したということである。
将軍は和服を着た時には、何時も紙幣を裸のまま袂に入れるのが常であった。そして料理屋等の勘定には、それを無造作に掴み出して、「残りはお前達が取って置け」と女中に与え、決して釣銭を取らなかった。
将軍の家には翠石の筆になる虎の軸物がある。それは嘗て巴里の博覧会に出品して入賞したという逸品で、それに東郷元帥が賛を書いたものである。令弟真之氏が元帥から貰ったのを更に将軍に贈ったもので、将軍は非常にこれを愛翫し、北豫中学校長時代には態々松山に取り寄せ、何時も床に掛けて楽しんでいた。ある日遠山道氏が将軍の寓居を訪ねた時、将軍はその軸物を見せて、
「これは一万円で買い手があるのだが、俺とこの家宝ぢゃから、金では売らんのぢゃ。だが学校の寄付金が都合よく集まらなかった時には、仕方がないから手放すつもりぢゃ」
と言ったということである。その頃北豫中学校では、基金の寄付金募集を行っていたのである。学校のためには愛蔵の家宝さえも売ることは厭わないのであった。
物質慾に恬淡であった将軍は、従って清貧であった。将軍は郷里にある父祖伝承の徒士屋敷の他には自分の家を持たなかった。借家で死んだ大将は、陸海軍を通じて恐らくその類を見ないであろう。