将軍が仏蘭西留学中に親父に寄せた手紙の中に、
「エキスレベンの温泉場は仏国の東境にして瑞西国に近接する山間の一地部に候。夏期は常に浴客充満し平素の人口よりも三倍に至り候。リュウマチスに大効ある由にて普通無病の人には何の効も無しの由に候。小生は殆ど二十日間も滞在候へども他に面白き事多きゆえ僅かに二回入浴せるのみに候。この温泉場を去る十町余の所に・・・・・・と名付くる湖水これ有(東西四里南北一里余)。好古は予ての漁猟好きゆえ滞在中殆ど半分は釣遊にて相暮候(下略)」
とある。将軍も幼少時代には松山の多くの子供が然りし如く魚釣りが好きであったらしい。松山の市外近郊には石手川という鮎の釣れる川や、鮒池、ドンコ池などという小さい池があって、少年太公望が何時も糸を垂れていた。信三郎時代の将軍もその一人であったのであろう。だが晩年の将軍は余り竿を手にしたことを見ない。
将軍の最も好んだものは碁であった。碁は子供の頃から竹馬の友であった平井重則氏を相手に好く打ったものである。それは両人の親父同志が打つのを側で見ていて自然に覚え、四つ目殺しから始まったのである。平井氏の談に依ると子供同志こととて、強弱の差は余りなかったが、その頃から負けず嫌いであった将軍は、よく「待った」をした。それも二三目前まで勝手に上げてしまうという所謂お大名碁であった。晩年将軍の北豫中学校長時代に平井氏が帰松して互いに久濶(きゅうかつ)の挨拶を終るや否や、久しぶりに対局したが、矢張りその癖は残っていたそうである。
碁が終わるとちょうど食事頃になったので、平井氏が食事はどうするかと聞くと、将軍はどこからか貰ったらしい菓子折りを出して来て、
「ここにええ物がある」
と食事の代わりに、カステラの食い残しを食ったのを見て、平井氏は将軍の簡易生活ぶりに驚くとともに、その独身生活の不自由さに同情したということである。
将軍の碁は晩年に至るに従い益々熱心となり、同郷の加藤恒忠氏が最も好き相手であった。旧藩主の邸等で二人が顔を合わすと、何を差し置いても盤に対するのが常であった。二人とも一時間に何局という騎兵式スピードの笊(ざる)党の雄なるもので、戦場に於ける猛将軍も、碁にかけては戦争程に強くはなかったらしい。加藤氏が絶えず軽妙なる揶揄を放つに反し、将軍はただ黙々として巨眼を見張りながら、不恰好に石を並べていた。
それほど好きな碁でありながら、戦争中は如何に無聊(ぶりょう)の時でも石を手にすることをしなかった。副官などから「少しおやりになっては如何です」と勧められても、
「俺がやると皆がやりすぎるようになるから」
と言って、遂に一度も盤に向かったことはなかった。
碁に次いで将軍の好きであったものはおそらく相撲であろう。相撲は春夏の本場所ごとに必ず見物に出かけ、習志野在勤中の如きも態々上京して、あの魁偉な顔を軍人桟敷に曝したものである。常陸山とその部屋の力士が贔屓であったが、贔屓力士の勝ったときなどは、若い士官と一緒に痛飲淋漓たるものであった。
芝居に対してもまた、将軍は深い趣味を持っていたが、それは主として旧劇であった。相撲には決して女の子を連れて行かなかったが、芝居には何時も家族同伴で、歌舞伎座や帝国劇場へ行ったものであるそして子供達に筋書きを説明して、
「芝居には善人と悪人とは、顔で判るように出来ているけれども、世の中の人はそうはいかないから、よく気を付けねばいかん」
などと教訓的な話をしたりするのであった。
義太夫もまた将軍のもっとも好愛したものの一つで、大阪へ行けば新田長次郎氏等と共にしばしば文学座に出かけたものである。また折々新田氏の邸に泊まった間に、同家に蔵する義太夫の書物を悉く読み尽したという程である。文学を見物に行った時などは、傍らの者の言葉などは一切耳に入らぬほど熱心に聞き入っていた。自分でも「俺の浄瑠璃好きなのは祖母の遺伝ぢゃ」と言っていたそうであるが、将軍が浄瑠璃に興味を持ち始めたのは、多分大阪師範学校時代からであろうと思われる。
将軍はそれほど浄瑠璃が好きであったが語る方はあまり上手ではなかった。それでも親交者の宴席などでは、他人の隠し芸に負けぬ気になって、サワリの一くさりをやることもあったが、あの魁偉な顔の口を窄め、しなを作って語りだす姿の方が見物であったということである。最も得意としたのは伊賀越道中双六沼津の段や朝顔日記宿屋の段などであった。近衛師団長時代に八王子方面の地形実査に赴いた帰途、随行の部下を慰労するために多摩川で鮎漁をやった時、酔顔を川風に吹かれながら「今頃は半七さん」と独りで口ずさむのを聞いて、若い幕僚たちは鮎の御馳走以上に喜んだということである。
将軍は書画骨董類に対しては殆ど興味を有せず、陶器の如きも雅味あるひねくったものよりも、美しい九谷焼の類を愛した。花卉盆栽に対しても何等の興味を有せず、ただ樹木の枝などの延びているのを非常に嫌ったらしい。松山の邸の庭にある松の木に小枝が出たので、留守居の加井氏が非常に愛育していたのを、ある日将軍が何の惜し気もなく枝の根元から摘み切ってしまった。これを知った加井氏は、
「自分の指を切られたよりも辛い」
と惜しんだそうである。また青山の邸で令嬢が丹精して育てた薔薇の蕾を、何と思ってか、これも根元から悉く摘み切ってしまったので、令嬢から強硬な抗議を受けたこともあった。つまり将軍は何事に依らず散漫なのが嫌いであったらしい。