漢学に造詣が深かった久敬は、子供たちの名前は漢文の一節からとっていた。信三郎
好古は孔子の論語にある一節「信而好古」(古くからの教えを信じ、好む)、淳五郎 真之は張衡の思玄賦にある一節「何道眞之淳粹兮」(道徳の真髄は純粋である)というように、その読みに何か古い響きを持たせようとしていたようである。
真之は、子供の名前は簡単を旨として一字名とし、幼時からでも自分の名だけは覚え易いようにと、出来るだけ画数の少ないものを選び、原則として左右対象の文字をにしていた。軍艦旗のように裏から見ても同じに見える方が良いという考えもあった。この原則にのっとり例えば息子たちは大(ヒロシ)、固(タカシ)、中(タダシ)、全(ヤスシ)と命名された。
一方、好古はあまり細かいことは考えず、例えば「丈夫な方がよいだろう」ということで次女には健子と名付けた。真之は利口な方が良いと考え、健子宛てに手紙を出すときは「賢子殿」と書き換えていたという。
好古は服装に無頓着であった。どんなに良い物を着ていても眠くなればそのままで寝てしまうし、またどんなに粗末な物を着ていても気が向いたらそのままで出かけてしまった。後に妻の多美子が好古の服装について次のように語った。
「秋山はあれでなかなか着物に趣味があったらしいのですよ。気に入った物を着せるとニコニコしていますが、粗末な物を着せるとやはり機嫌が良くなかったようです。それなのに少しもお構いなしなので、着物だけには弱らされました。ひどく襟垢のついた着物で久松様の御邸へ平気で出かけてしまうので、ちっとも油断できないのです」
真之は将校時代には甲板に出ると所構わず腰掛けていたので、いつもズボンが汚れていたらしい。注意しても効き目がないので、艦長が真之のために特別座る場所を作ったほどであった。しかし、好古ほど無頓着だったわけではなく、軍服の飾緒は弛ませずに佩用し、帽子や上衣にも気を使っていたという。ちなみに、日本海海戦の「褌論」にも後日談がある。安保清種が語ったところによると、
「東城画伯が三笠艦橋の場面を描くときに、実際に秋山君は上衣の上にバンドをしていたのだからその通りに絵を描こうとしたのだが、秋山君もまだ色気があったと見えて 「それだけは勘弁してくれ」と請願に及んだため、今残っている三笠艦橋の油絵には、秋山君は規定通りチャンと剣のバンドを上衣の下に締めた姿で描かれているのです」
また、真之は着物の見立てなどもうまかった。夫人にサイズを聞いて自分で子供たちの着物を買ってくることもあった。そのため、好古の長女が結婚することになったときは多美子から頼まれて真之が着物の柄や模様の見立てをした。これを聞いた好古は「そのくらいのことなら俺だってできる」と、次女の結婚の際には自分で呉服屋に出向いて着物の選定をしてきた。届いた着物を見た家族は好古の見立てに感心したが、請求書を見てその値段があまりにも高いことにまた驚いた。金銭にも無頓着な好古は値段を気にすることなく、自分が気に入ったものを買ってきてしまったようだ。そのため、好古の買い物はその一回で落第ということになってしまった。
好古は若い頃から医者嫌いで、薬すらほとんど飲まなかった。落馬して足を痛めたときは「水で冷やせば治る」と言って、大盥に一杯汲んだ水の中に足を突っ込み、三日間ほど痛い冷たいを我慢して治してしまった。また、検閲中に食中毒で寝込んだときも、軍医の診察も受けず、薬も飲まず、翌朝になると「今朝は酒が飲めるようだから大丈夫だ。治った」そう言ってそのまま検閲を行った。
真之の場合、食べ過ぎて腹が膨れて苦しくなったときには、いつもナイフと風呂敷をもって出かけていった。まず桃を買って風呂敷に包み、次に氷屋に向かう。そして、氷屋の店頭で桃の皮をむいて食べ、氷水を飲む。そうすれば下痢をして膨れた腹が萎む。こんな荒療治を平気で繰り返していた。
好古の旅支度は手提げ鞄にシャツと軍服の着替え、竹楊枝、歯磨き粉、手拭い一本という非常に簡素なものだった。そのため私服の着替えなどを持ち歩くことはなく、地方出張で歓迎会に招かれたときはいつも旅館の主人の紋付きを借りて出席していたので、好古の家紋は毎回違うものになっていたという。
吉野の回航委員として英国出張したとき、現地で晩餐会に招かれた真之は礼服を粗末な風呂敷に包んでそのまま出かけていた。そのため、外国ではみっともないということで見かねた艦長が自分のトランクを貸したということがあった。
日露戦争終結後に行われた凱旋祝賀会の席上、指名された真之は宴会芸として長唄の勧進帳を披露して一同を驚かせた。何事も器用な真之は横須賀停泊中に幕僚室の蓄音機で密かに稽古し、短期間で修得していたのである。
一方、好古の宴会芸(?)は伝記の言葉をそのまま借りると、「あまり上手ならぬ浄瑠璃のサワリや、調子外れの都々逸を口ずさむ位のものであった」。
松山の同郷会に出席したとき、好古は次のように語った。「喧嘩というものはするものではない。喧嘩は双方の意志が通じないために起こるものだから、喧嘩をしても交際は続けなければならない。その人と交際している間に、双方のことが分かってくるものだ。だから、どれだけ喧嘩をしてもその相手を訪ねていき、交際を絶たぬようにしなければならぬ」。
真之は日清戦争中の宴会で仁礼景一と大喧嘩となり、前歯を折られたことがあった。酔いがさめた真之は自分にも非があり大人気なかったことに気づき、歯を折られたにもかかわらず自ら仁礼のもとを訪れて仲直りを申し出た。仁礼は寛容な真之の態度にすっかり恐縮してしまったという。
明治26年、真之は英国出張を命じられた。好古が帰宅したとき、真之は自分の部屋で出発の準備をしていたのだが、好古は話そうとも手伝おうともしない。そして真之出発の朝、好古は出がけに「淳、行って来い」「うん」 それが洋行に関する兄弟の唯一の会話だった。後でお貞が「いくら男でも、弟が初めて洋行するんだから、もう少し言い方もあろうに・・・」と言っていた。
『連合艦隊解散の辞』など、真之の文才は非常に有名である。あるとき山本英輔が
「あなたは色々な名文を書かれますが、何か秘訣があるのですか?」
と尋ねると、真之は
「何も秘訣なんてものは無いよ。ただ、常に人の名文に注意して、新聞や雑誌にあるものを切り抜いて時々読むことはある」
と答えた。実際に真之の死後、熟語や成語を抜き書きした雑記帳が見つかっている。
しかし、真之も生まれつき文章が得意だったというわけではないようだ。七変人の一人、菊池謙二郎は次のように回想している。
「秋山君も学生時代は文章は得意な方ではなかった。正岡や僕などよりも作文の点数は劣っていた。彼はそれを残念に思って、必死に文章の修練をしていたこともあった。当時の文章は一般に漢文調であったので、漢学の素養が比較的豊かでなかった彼の作文は漢学の先生に認められなかったようだ。「俺は英語の解釈法で漢文を解釈するのだ」と彼は言っていたが、これは半面に応用の才が現れていると同時に、半面に漢学の素養の乏しかったことを意味するのであった。しかし後になって独創的な文章で名を揚げるようになった。その素地は多分この時代に培われたものと思われる」
一方、好古は真之ほどの文才はなかったが、ユニークな文章が多い。例えば、日清戦争中に真之に送った手紙の末節には次のように書かれていた。
『気温は常に零下数十度なるも、東京に在りて懐の零下なるよりは凌ぎ易し』
また、戦場から家族に宛てた手紙や部下に与えた自作の軍歌には都々逸のようなものが書かれていることが多かった。
『人は帰るがわしや猶ほ残り、俊寛気取りも面白し』
『父は遼陽奉天に、小伯父は旅順に日本海』
『朝早く起き顔洗ひ、食事済して学校へ』
さらに好古の筆無精は有名であった。部下からの詳細な問い合わせの手紙に対しては、名刺の裏に鉛筆で数行の走り書きをして返答したという。年賀状も少数の知人に出すだけであり、揮毫も晩年に至るまではほとんど断っていた。そのため、真之に比べて残っている文章が少ないようである。
山梨勝之進は 『小柳資料』の中で次のようなエピソードを語っている。
『私は兄の好古(陸軍)大将に屡々会った。この人は騎兵出身でフランスに留学し、まことに立派な大将軍の器であった。弟とは人物のスケールが違う。よく「真之のことを海軍では名士だとか何とか云って騒いでいるがあんなのがどこが偉いのだ。海軍と云うところは存外人物がないナァ」と云っておられたそうだが、真之将軍にも色々欠点はあろうが常人には到底追随を許さぬ非凡なところがあった。』