出身地 |
海軍兵学校 |
||||
生没年 |
1869年〜1956年 |
海軍大学校 |
|||
最終階級 |
日露戦争時 |
第一艦隊参謀 |
|||
|
出身地 |
陸軍士官学校 |
||||
生没年 |
1854年〜1924年 |
陸軍大学校 |
|||
最終階級 |
日露戦争時 |
満州軍高級参謀 |
|||
田村と論争明治35年、陸軍省の軍事課長を務めていた井口は、ある問題について参謀本部総務部長の田村怡与造と激論を交わしたことがあった。正午から始めた議論は夕方になっても止まず、大声怒号は室外にまで聞こえるほどであった。この時、田村が「大佐の分際で少将に対し、この無礼な言を放つとは何事か」と言い出すと、井口も負けずに「階級を以て論ずることは止めてもらいたい。軍事課長としてその職権を以て論ずるのが何が悪いか」と押収し、室内が暗くなってやっと議論が終わった。この数日後、田村は参謀次長に栄転すると、自分の後任に井口を推薦したという。メッケルの胸像明治42年、陸大校長であった井口は「メッケル氏胸像建設委員会」を設立し、陸軍関係者への根回しや資金集めに奔走した。胸像は翌年に完成し、除幕式では井口が式辞を朗読、序幕は好古が行った。飛行機を見た感想明治45年に初めて飛行機を見た井口は、その驚きを表す句を残している。「いかに世は 進むといへと 思ひきや 雲井をわたる 人を見んとは」 |
1826年〜1891年。松山藩出身。高浜虚子の父。柳生流剣術の達人であったという。維新後に帰農。後に旧藩主の能道具が競売に出されると藤野漸らと保存に奔走し、東雲神社に奉納した。秋山兄弟の父平五郎とは旧藩時代の同役であり、「秋山の息子は皆ええ出来で、八十九さんは仕合わせじゃ」と虚子に語っていたという。
1886〜1912。岩手県出身。明治時代の歌人、詩人。「坂の上の雲」1巻の文中にある「その故郷に対し複雑な屈折」とは、中学時代の退学処分、寺の住職であった父親の宗費滞納事件による一家退去、代用教員時代のスト騒動による退職などの体験を指していると思われる。後に啄木は「石をもて追はるるごとくふるさとを出でしかなしみ消ゆる時なし」と詠んでいる。なお、故郷を懐かしんだ短歌「ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」の歌碑は、上野駅15番線車止め前にある。
出身地 |
陸軍士官学校 |
||||
生没年 |
1854年〜1917年 |
陸軍大学校 |
− |
||
最終階級 |
日露戦争時 |
第三軍参謀長 旅順要塞司令官 |
|||
伊地知に対する評価伊地知に関するエピソードは少なく(伊地知に限らず、後年出世した上原勇作、座談会で発言している藤井茂太を除くと、第二軍、第三軍参謀長の逸話はほとんど無いが)、あるとしてもあまり評判の良いものではない。「坂の上の雲」で述べられているような軍内部からの伊地知批判は主に「機密日露戦史」(谷寿夫)から採られたものと思われる。「日露戦争の軍事史的研究」(大江志乃夫)に於いても「参謀長としては全く不適格であり、軍内部における当時および後世のどの資料によっても、無能という評価しか与えられていない」と評されているように、今でも評価が真っ二つに分かれる乃木と違って、彼を擁護する声もほとんど無い。 |
出身地 |
海軍兵学校 |
||||
生没年 |
1852年〜1920年 |
海軍大学校 |
− |
||
最終階級 |
日露戦争時 |
軍令部次長 |
|||
|
出身地 |
陸軍士官学校 |
兵学寮 |
|||
生没年 |
1855年〜1931年 |
陸軍大学校 |
− |
||
最終階級 |
日露戦争時 |
歩兵第6旅団長 第3軍参謀長 |
|||
詳細情報一戸のエピソードは個別ページ「一戸兵衛」に掲載。 |
出身地 |
|
出身校 |
松下村塾 |
||
生没年 |
1841年〜1931年 |
日露戦争時 |
枢密院議長 |
||
|
|||||
「もみじ饅頭」生みの親日本三景の一つとして有名な宮島を訪れたとき、伊藤は一軒の茶店に立ち寄った。茶店の少女がお茶を差し出したところ、伊藤はその手を取って「もみじのようなかわいい手だね。焼いて食べたら、さぞ美味しかろう」と言った。この話が広まって、『もみじ饅頭』が作られたと伝えられている。フグを解禁豊臣秀吉によってフグ禁止令が出された後、江戸期にも各地で禁令が出されるようになり、長州藩ではフグを食べて中毒死した場合はお家断絶という厳罰まで設けられた。明治になってからもフグに対する禁令が残っていた。明治21年頃、伊藤が下関の春帆楼を訪れたが、あいにくその日はしけで魚がなかった。「下関まで来たのに魚がないとは」と皮肉られた女将が、処罰覚悟で禁令のフグを出したところ、伊藤は「こんなうまいものを禁ずるのはもったいない」と言って、さっそく山口県令に命じてフグを解禁とした。 その後、伊藤はこの「春帆楼」で李鴻章との日清講和条約交渉に臨むことになる。 囲碁好き馬関で負傷した息子を見舞いに行った際、旅館で暇を持て余した伊藤は官吏、書記など近くに居る人間は誰でも構わず囲碁の相手をさせた。しまいには護衛の巡査にまで相手をさせたので、囲碁の出来ない巡査は伊藤の護衛に適さないということになってしまった。 |
出身地 |
出身校 |
開成所 |
|||
生没年 |
1843年〜1914年 |
海軍操練所 |
|||
最終階級 |
日露戦争時 |
軍令部長 |
|||
詳細情報伊東のエピソードは個別ページ「伊東祐亨」に掲載。 |
1836年〜1915年。長州藩出身。当初は尊攘運動に加わり、高杉晋作らとともにイギリス公使館焼き討ちなどに参加したが、イギリス密航後は開国論に転じた。
維新後は江藤新平に汚職を追及され一時失脚するが後に復帰し、明治16年からは外務卿として条約改正交渉に携わり、鹿鳴館に象徴される欧化政策をすすめる。晩年は元老として政界に影響を与え続けた。
1843年〜1925年。三河国挙母藩(豊田市)出身。宮内省の書画鑑定士や東京帝室博物館の学芸委員を務めた。八代六太郎から秋山真之と三女 季子の縁談を勧められた際、当初は「軍人には嫁にやらない」と渋ったが、真之を知るようになった後は「軍人に嫁がせるなら秋山さんしかいない」と快諾したという。
正倉院保管物を復元正倉院に保管されていた箜篌(くご)という弦楽器は保存状態が悪く、明治期には一部分が原形を留めているだけであった。そこで、稲生は戒壇院の扉絵に描かれている箜篌の絵をもとに復元した。後に孫の秋山大に「何、本当は初めの形なんかわかるもんか。まあ、あの絵でやったのさ。明治天皇様は大そうお喜びになって、よう出来た、名を入れさせておけと仰った。まことに有難いことだ。天子様の思し召しで、お祖父さんの名が稲生真履と、御物にちゃんとついたわけさ。それを今の奴は何も知りもせんで、あれがあのまま天平のものだと思っているのさ。そしてなんのかんのと講釈をしくさる」と得意げに語ったという。(秋山大著「箜篌遺響」より) |
1851年〜1903年。伊庭家は幕府の剣術師範役であり、兄の伊庭八郎は幕府軍の遊撃隊を率いて箱館五稜郭で戦死している。戊辰戦争後に家督を継いだ想太郎は家塾 文友館を開設して地域教育に貢献。東京農学校の校長や日本貯蓄銀行の頭取も務めた。明治34年に星亨を暗殺。無期徒刑となり獄中で病死した。
子規の随筆に登場星亨暗殺について、子規は随筆に次のように記している。・刺客はなくなるものであらうか、なくならぬものであらうか。(墨汁一滴 六月二十三日) ・新聞の号外来る。曰く伊庭想太郎無期徒刑に処せらる。(仰臥漫録 九月十日) ・秋の蚊の源左衛門と名乗けり └ 伊庭想太郎カ (仰臥漫録 九月二十日) 「源左衛門」の横に小さく「伊庭想太郎カ」と書かれているのは、蚊が伊庭のような刺客として自分を刺しにきた、ということだろう。 小笠原とにらめっこ小笠原長生は一時期、伊庭の塾に通っていたことがあった。ある日、小笠原は失態を犯したのだが謝り損ねてどうにもならなくなってしまった。伊庭はなかなか謝りに来ない小笠原に対し「よし、お前がそんなに強情を張るなら、ここでにらめっこをしよう」と言い出し、二人で対座したのだが、小笠原も負けず嫌いだったため二人のにらみ合いは夜明けまで続いてしまった。すると伊庭が「俺はお前のためを思ってこうまでしてやっているのに、それがお前には分からないか」と泣きだしてしまい、小笠原は「私が悪うございました」と謝罪したという。 |
1845年〜1906年。中岡慎太郎が率いていた陸援隊に属していた。中岡が坂本龍馬と暗殺されると、当時暗殺者であると噂されていた紀州藩士を陸奥宗光らとともに襲撃している。北越戦争では山道軍を率いて長岡に向かい、越後小千谷の慈眼寺に於ける河井継之助との会談では停戦案を一蹴した。維新後、佐賀県権令として佐賀の乱の鎮圧にも関わっている。
明治七年に愛媛県令に着任。「翔ぶが如く」では『浅草本願寺』に「弟・岩村の高俊はこの地方官会議の時期は愛媛県権令であったが、愛媛にあって権令みずから民権思想を鼓吹した、と、当時松山で少年期を送っていた正岡子規が感想を残している。」という記述もある。