「坂の上の雲」登場人物
五十音順一覧表 【い】

坂の上の雲 > 登場人物 > 五十音順一覧表【い】


飯田久恒【いいだひさつね】


出身地

東京府

海軍兵学校

19期

生没年

1869年〜1956年

海軍大学校

甲種4期

最終階級

海軍中将

日露戦争時

第一艦隊参謀


 信州高遠藩士の子。攻玉社を経て海軍兵学校へ入学。日清戦争では厳島乗員として威海衛夜襲に参加。日露戦争では第一艦隊参謀として出征。明治37年7月から第二艦隊参謀に転出し、蔚山沖海戦に参戦。その後再び第一艦隊に戻り、秋山真之を補佐した。日本海海戦時の有名な電文「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動、之を撃滅せんとす」の部分は飯田が起草したと言われている。
 戦後は海軍大学校を卒業し、海大教官、海大教頭、「吾妻」「薩摩」艦長、第3艦隊参謀長、第4戦隊司令官などを歴任した。




井口省吾【いぐちしょうご】


出身地

沼津藩

陸軍士官学校

旧2期

生没年

1854年〜1924年

陸軍大学校

1期

最終階級

陸軍大将

日露戦争時

満州軍高級参謀


 明治8年に陸軍士官学校に入学し、在学中に征討軍団付で西南戦争に従軍。陸大卒業後、ドイツ留学、陸大教官を経て、第二軍作戦主任参謀として軍司令官の大山巌を補佐した。日露戦争では参謀本部総務部長から満州軍参謀へ転出して出征し、福島安正、松川敏胤とともに作戦の立案、遂行に携わった。日露戦争後は陸大校長、第15師団長、朝鮮駐剳軍司令官などを歴任している。
 井口は陸軍大学に長年勤務し、陸軍教育で中心的な役割を果たした。また、長州出身の教官を採用しないなど長州閥と対立し、寺内正毅らの干渉があっても妥協することはなかったという。


田村と論争

 明治35年、陸軍省の軍事課長を務めていた井口は、ある問題について参謀本部総務部長の田村怡与造と激論を交わしたことがあった。正午から始めた議論は夕方になっても止まず、大声怒号は室外にまで聞こえるほどであった。この時、田村が「大佐の分際で少将に対し、この無礼な言を放つとは何事か」と言い出すと、井口も負けずに「階級を以て論ずることは止めてもらいたい。軍事課長としてその職権を以て論ずるのが何が悪いか」と押収し、室内が暗くなってやっと議論が終わった。この数日後、田村は参謀次長に栄転すると、自分の後任に井口を推薦したという。

メッケルの胸像

  明治42年、陸大校長であった井口は「メッケル氏胸像建設委員会」を設立し、陸軍関係者への根回しや資金集めに奔走した。胸像は翌年に完成し、除幕式では井口が式辞を朗読、序幕は好古が行った。

飛行機を見た感想

  明治45年に初めて飛行機を見た井口は、その驚きを表す句を残している。
    「いかに世は 進むといへと 思ひきや 雲井をわたる 人を見んとは」



池内信夫【いけうちのぶお】

 1826年〜1891年。松山藩出身。高浜虚子の父。柳生流剣術の達人であったという。維新後に帰農。後に旧藩主の能道具が競売に出されると藤野漸らと保存に奔走し、東雲神社に奉納した。秋山兄弟の父平五郎とは旧藩時代の同役であり、「秋山の息子は皆ええ出来で、八十九さんは仕合わせじゃ」と虚子に語っていたという。




石川啄木【いしかわたくぼく】

 1886〜1912。岩手県出身。明治時代の歌人、詩人。「坂の上の雲」1巻の文中にある「その故郷に対し複雑な屈折」とは、中学時代の退学処分、寺の住職であった父親の宗費滞納事件による一家退去、代用教員時代のスト騒動による退職などの体験を指していると思われる。後に啄木は「石をもて追はるるごとくふるさとを出でしかなしみ消ゆる時なし」と詠んでいる。なお、故郷を懐かしんだ短歌「ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」の歌碑は、上野駅15番線車止め前にある。




伊地知幸介【いじちこうすけ】


出身地

薩摩藩

陸軍士官学校

旧2期

生没年

1854年〜1917年

陸軍大学校

最終階級

陸軍中将

日露戦争時

 第三軍参謀長
 旅順要塞司令官


 御親兵として上京後、陸軍士官学校へ入学。在学中に征討軍団付で西南戦争に従軍した。士官学校卒業後はドイツ留学を経て、野砲兵第1連隊大隊長、大本営参謀などを歴任。日清戦争では第二軍参謀副長として従軍した。
 日露戦争では第三軍参謀長として旅順攻略の作戦遂行に関わるが、多大な犠牲を出したこともあり、旅順陥落後にはその責任を取らされる形で旅順要塞司令官に左遷される。その後は大山巌の兄の娘婿という立場や薩摩出身ということもあり順調に出世したが、中将止まりで予備役へ編入された。


伊地知に対する評価

 伊地知に関するエピソードは少なく(伊地知に限らず、後年出世した上原勇作、座談会で発言している藤井茂太を除くと、第二軍、第三軍参謀長の逸話はほとんど無いが)、あるとしてもあまり評判の良いものではない。
 「坂の上の雲」で述べられているような軍内部からの伊地知批判は主に「機密日露戦史」(谷寿夫)から採られたものと思われる。「日露戦争の軍事史的研究」(大江志乃夫)に於いても「参謀長としては全く不適格であり、軍内部における当時および後世のどの資料によっても、無能という評価しか与えられていない」と評されているように、今でも評価が真っ二つに分かれる乃木と違って、彼を擁護する声もほとんど無い。




伊集院五郎【いじゅういんごろう】


出身地

薩摩藩

海軍兵学校

5期

生没年

1852年〜1920年

海軍大学校

最終階級

元帥海軍大将

日露戦争時

軍令部次長


 台湾征討、西南戦争従軍後に渡英し、イギリスの海軍兵学校、海軍大学校で学ぶ。日清戦争では大本営海軍参謀として樺山資紀と共に西京丸で黄海海戦に参戦。明治32年に軍令部次長に就任し、在任中の明治33年に伊集院信管を開発した。明治35年には常備艦隊司令官となるが、日露開戦の前年に再び陸上勤務となり、日露戦争中も軍令部次長を務めた。戦後は第2艦隊司令長官、第1艦隊司令長官、連合艦隊司令長官、軍令部長などの栄職を歴任し、大正6年に元帥となる。第1艦隊司令長官時代の猛訓練が「月月火水木金金」という標語のきっかけになったと言われている。




一戸兵衛【いちのへひょうえ】


出身地

弘前藩

陸軍士官学校

兵学寮

生没年

1855年〜1931年

陸軍大学校

最終階級

陸軍大将

日露戦争時

 歩兵第6旅団長
 第3軍参謀長


 地元の藩校、私学で学んだ後、友人と上京し明治7年に陸軍兵学寮内の戸山学校に入校。卒業後に少尉候補となり、明治10年の西南戦争に従軍した際には重傷を負った。その後も小隊長、中隊長、参謀など部隊勤務を経て、明治27年の日清戦争では第11連隊長、第5師団副官を務めた。
 明治37年の日露戦争では第6旅団長として旅順攻略戦に参戦。第二次総攻撃では先頭に立って攻撃を指揮し、後に「一戸堡塁」と命名される盤竜山P堡塁を奪取して勇名を轟かせた。奉天会戦後は松永正敏の後任として第三軍参謀長に起用される。戦後は師団長、軍事参議官、教育総監などを歴任し大将に昇進。退役後は学習院院長、帝国在郷軍人会会長などを務めている。

詳細情報

 一戸のエピソードは個別ページ「一戸兵衛」に掲載。



伊藤博文【いとうひろふみ】


出身地

長州藩

 

出身校

松下村塾

生没年

1841年〜1931年

日露戦争時

枢密院議長

 


 貧しい足軽の家に生まれる。井上馨らと共に吉田松陰の松下村塾に学ぶ。第一次長州征伐後、幕府に恭順する藩の姿勢に反対する高杉晋作が挙兵すると、力士隊を率いて呼応。後に奇兵隊も加わり倒幕運動に関わっていく。
 維新後は民部少輔、兵庫県知事、工部卿など新政府の要職を歴任。大久保利通の死後は内務卿として政府指導者の中心となり、ヨーロッパでの憲法調査を経て明治18年には初代内閣総理大臣に就任した。その後、大日本帝国憲法の作成と発布でも中心的な役割を果たす。日露戦争前には開戦に反対し、日露協商、満韓交換論を主張していた。
 日露戦争中の明治37年、韓国統監府の初代統監に就任。日韓併合には反対していたが、統監という立場上韓国人の恨みを買うことになり、明治42年にハルビン駅頭で安重根により暗殺された。

「もみじ饅頭」生みの親

 日本三景の一つとして有名な宮島を訪れたとき、伊藤は一軒の茶店に立ち寄った。茶店の少女がお茶を差し出したところ、伊藤はその手を取って「もみじのようなかわいい手だね。焼いて食べたら、さぞ美味しかろう」と言った。この話が広まって、『もみじ饅頭』が作られたと伝えられている。

フグを解禁

 豊臣秀吉によってフグ禁止令が出された後、江戸期にも各地で禁令が出されるようになり、長州藩ではフグを食べて中毒死した場合はお家断絶という厳罰まで設けられた。明治になってからもフグに対する禁令が残っていた。
 明治21年頃、伊藤が下関の春帆楼を訪れたが、あいにくその日はしけで魚がなかった。「下関まで来たのに魚がないとは」と皮肉られた女将が、処罰覚悟で禁令のフグを出したところ、伊藤は「こんなうまいものを禁ずるのはもったいない」と言って、さっそく山口県令に命じてフグを解禁とした。
 その後、伊藤はこの「春帆楼」で李鴻章との日清講和条約交渉に臨むことになる。

囲碁好き

 馬関で負傷した息子を見舞いに行った際、旅館で暇を持て余した伊藤は官吏、書記など近くに居る人間は誰でも構わず囲碁の相手をさせた。しまいには護衛の巡査にまで相手をさせたので、囲碁の出来ない巡査は伊藤の護衛に適さないということになってしまった。



伊東祐亨【いとうゆうこう】


出身地

薩摩藩

出身校

開成所

生没年

1843年〜1914年

海軍操練所

最終階級

元帥海軍大将

日露戦争時

軍令部長


 兄の祐麿は海軍中将、先祖は木崎原の戦いで島津義弘に敗れた日向の戦国武将伊東祐安。名前は「すけゆき」などと訓読されることもあるが、正しくは「ゆうこう」である。
 開成所で英国学問を、江川太郎左衛門のもとで砲術を学ぶ。そして、薩英戦争従軍後には勝海舟が設立した海軍操練所で坂本龍馬、陸奥宗光らと共に航海術を学んだ。戊辰戦争では阿波沖海戦や宮古沖海戦に参戦。維新後は「日進」、「比叡」、「浪速」などの艦長を歴任し、海軍大学校校長、鎮守府長官などを経て、明治26年に常備艦隊長官に就任。
 日清戦争では連合艦隊司令長官として旗艦「松島」で黄海海戦などの指揮を執った。海威海衛で北洋艦隊を降伏させた際、自殺した敵の司令官 丁汝昌の遺体を商船で丁重に送り届けたことで、国内外からその武士道精神を高く評価された。その後、日露戦争終結まで軍令部長を務め、明治39年に元帥となった。

詳細情報

 伊東のエピソードは個別ページ「伊東祐亨」に掲載。



井上馨【いのうえかおる】

 1836年〜1915年。長州藩出身。当初は尊攘運動に加わり、高杉晋作らとともにイギリス公使館焼き討ちなどに参加したが、イギリス密航後は開国論に転じた。
 維新後は江藤新平に汚職を追及され一時失脚するが後に復帰し、明治16年からは外務卿として条約改正交渉に携わり、鹿鳴館に象徴される欧化政策をすすめる。晩年は元老として政界に影響を与え続けた。




稲生真履【いのうまふみ】

 1843年〜1925年。三河国挙母藩(豊田市)出身。宮内省の書画鑑定士や東京帝室博物館の学芸委員を務めた。八代六太郎から秋山真之と三女 季子の縁談を勧められた際、当初は「軍人には嫁にやらない」と渋ったが、真之を知るようになった後は「軍人に嫁がせるなら秋山さんしかいない」と快諾したという。

正倉院保管物を復元

 正倉院に保管されていた箜篌(くご)という弦楽器は保存状態が悪く、明治期には一部分が原形を留めているだけであった。そこで、稲生は戒壇院の扉絵に描かれている箜篌の絵をもとに復元した。後に孫の秋山大に「何、本当は初めの形なんかわかるもんか。まあ、あの絵でやったのさ。明治天皇様は大そうお喜びになって、よう出来た、名を入れさせておけと仰った。まことに有難いことだ。天子様の思し召しで、お祖父さんの名が稲生真履と、御物にちゃんとついたわけさ。それを今の奴は何も知りもせんで、あれがあのまま天平のものだと思っているのさ。そしてなんのかんのと講釈をしくさる」と得意げに語ったという。(秋山大著「箜篌遺響」より)



伊庭想太郎【いばそうたろう】

 1851年〜1903年。伊庭家は幕府の剣術師範役であり、兄の伊庭八郎は幕府軍の遊撃隊を率いて箱館五稜郭で戦死している。戊辰戦争後に家督を継いだ想太郎は家塾 文友館を開設して地域教育に貢献。東京農学校の校長や日本貯蓄銀行の頭取も務めた。明治34年に星亨を暗殺。無期徒刑となり獄中で病死した。

子規の随筆に登場

 星亨暗殺について、子規は随筆に次のように記している。
 ・刺客はなくなるものであらうか、なくならぬものであらうか。(墨汁一滴 六月二十三日)   
 ・新聞の号外来る。曰く伊庭想太郎無期徒刑に処せらる。(仰臥漫録 九月十日)
 ・秋の蚊の源左衛門と名乗けり
        └ 伊庭想太郎カ       (仰臥漫録 九月二十日)
 「源左衛門」の横に小さく「伊庭想太郎カ」と書かれているのは、蚊が伊庭のような刺客として自分を刺しにきた、ということだろう。

小笠原とにらめっこ

 小笠原長生は一時期、伊庭の塾に通っていたことがあった。ある日、小笠原は失態を犯したのだが謝り損ねてどうにもならなくなってしまった。伊庭はなかなか謝りに来ない小笠原に対し「よし、お前がそんなに強情を張るなら、ここでにらめっこをしよう」と言い出し、二人で対座したのだが、小笠原も負けず嫌いだったため二人のにらみ合いは夜明けまで続いてしまった。すると伊庭が「俺はお前のためを思ってこうまでしてやっているのに、それがお前には分からないか」と泣きだしてしまい、小笠原は「私が悪うございました」と謝罪したという。



岩村高俊

 1845年〜1906年。中岡慎太郎が率いていた陸援隊に属していた。中岡が坂本龍馬と暗殺されると、当時暗殺者であると噂されていた紀州藩士を陸奥宗光らとともに襲撃している。北越戦争では山道軍を率いて長岡に向かい、越後小千谷の慈眼寺に於ける河井継之助との会談では停戦案を一蹴した。維新後、佐賀県権令として佐賀の乱の鎮圧にも関わっている。
 明治七年に愛媛県令に着任。「翔ぶが如く」では『浅草本願寺』に「弟・岩村の高俊はこの地方官会議の時期は愛媛県権令であったが、愛媛にあって権令みずから民権思想を鼓吹した、と、当時松山で少年期を送っていた正岡子規が感想を残している。」という記述もある。