「坂の上の雲」登場人物
五十音順一覧表 【う】

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ウィッテ【うぃって】


出身地  ロシア

生没年  1849年〜1915年

全名    セルゲイ・ユリエヴィッチ・ヴィッテ


 帝政ロシアの政治家。新ロシア大学の物理・数学科を首席で卒業。技師ではなく事務職として鉄道会社に就職し、鉄道拡大期には事業管理者として優れた能力を発揮した。その手腕を見込まれ、政府の初代鉄道事務管理局長に抜擢され、その数ヵ月後には交通大臣に、さらにその半年後には大蔵大臣に就任。在任中はシベリア鉄道建設や財政改革でその手腕を発揮する。
 日露開戦に反対し一時政治中枢から遠ざけられるが、戦局が悪化すると講和全権に抜擢される。ポーツマス会議では強気で交渉によって、戦勝国である日本側に賠償金を断念させるという成果をおさめている。帰国後は十月詔書を起草し国内の動乱を一時的に納めることに成功。国会開設後に初代首相となるが、ニコライ2世に疎まれ辞任し政界を去った。


詳細情報

 ウィッテのエピソードは個別ページ「ウィッテ」に掲載。



上原勇作【うえはらゆうさく】


出身地

薩摩藩

陸軍士官学校

旧3期

生没年

1856年〜1933年

陸軍大学校

最終階級

元帥陸軍大将

日露戦争時

第四軍参謀長


 陸軍幼年学校を経て秋山好古と同期の旧3期生として陸軍士官学校に入学。卒業後はフランス留学、参謀本部勤務などを経て明治27年に第一軍参謀として日清戦争に出征。その後は陸軍砲工学校長、工兵監を務め、明治37年の日露戦争では猪突猛進型の司令官 野津道貫の抑え役として、野津の娘婿である上原が第四軍参謀長に抜擢された。
 戦後は陸軍内での長州閥台頭によって一時閑職に回されるが、明治44年に西園寺内閣の陸相に就任。在任中に二個師団増設問題で帷幄上奏して辞職し、軍部大臣現役武官制によって内閣を総辞職させた。その後も教育総監、参謀総長の要職を歴任し、大正10年に元帥となる。

雷親父

 上原は「雷親爺」と呼ばれるほど喧しい人物として評判であった。ある日、上原は副官と共に宇都宮行きのトロッコに乗った事があった。上原は帽子を深くかぶって隅の方に居たので、彼がいることに気づかない他の乗客らが「今度の師団長の上原というやつは、バカにやかましく意地の悪いやつだってな」「うん、そういう評判だ。兵隊さんが気の毒だ」などと噂話をしていた。宇都宮で降車した上原は副官に「おれも随分陰で悪口を言われているとは思っていたが、面と向かって言われたのは今日が初めてだ」と苦笑したという。


多読の理由

 上原は部内でも有名な読書好きであった。当初は軍事研究のためにと読書に励んでいたが、参謀総長就任時に山県有朋から「おぬしに参謀総長の職が務まるかどうかの懸念もあるが、部下の作業や諸報告、情報にしっかりと目を通せばできなくもないだろう」と戒められ、さらに読書に励むようになったという。後年、上原は多読の理由を聞かれると「死んだ山県さんに会ったら、あなたが亡くなった後に軍事および世間がこんなに進歩しましたと言うためだ」と答えていた。



宇都宮太郎【うつのみやたろう】


出身地

佐賀藩

陸軍士官学校

旧7期

生没年

1861年〜1922年

陸軍大学校

6期

最終階級

陸軍大将

日露戦争時

駐英武官


 攻玉社、陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校を首席で、陸軍大学校を優等の成績で卒業。主に参謀本部で勤務した。日露戦争中は英国公使館付武官として情報収集を行い、ロシア軍の動静を大本営に逐一報告したほか、明石元二郎の諜報活動も支援している。戦後は参謀本部第1部長、第2部長 第4師団長 朝鮮軍司令官、軍事参議官などを歴任した。
 陸軍内では反長州派であり、同郷の後輩を中心とした派閥を作った。メンバーには荒木貞夫、真崎甚三郎、武藤信義らが名を連ねている。

秋山真之の印象

 宇都宮は大正2年4月20日の日記で、中国問題の相談で来訪した真之について「就中秋山は尤も長座し色々の時談あり、将来有用の人物に付き多少肝胆を披きて相語る」と書き残している。宇都宮と真之はその後も中国問題で何度か会って協議したおり、大正2年の日誌には真之の名前は5回ほど登場している。


秋山兄弟と会った一日

 大正3年4月8日の日記では、午前中に真之が中国問題の報告で来訪、午後には伊集院彦吉の誘いで好古らと三河屋で会食したと書かれている。




梅沢道治【うめざわみちはる】


出身地

仙台藩

陸軍士官学校

兵学寮

生没年

1853年〜1924年

陸軍大学校

最終階級

陸軍中将

日露戦争時

 近衛後備混成旅団長


 箱館戦争で仙台藩士と共に五稜郭に籠城し、開城後に流罪となる。釈放後の明治4年に大阪の兵学寮に入校し、教導団を経て西南戦争に従軍。その後は連隊副官、中隊長、大隊長、連隊長など部隊指揮官を務め続け、日清戦争では第二軍兵站司令官として出征した。
 明治37年、近衛歩兵第四連隊長として出征し、7月に現地で近衛後備混成旅団長へ転出となる。10月、本渓湖付近の戦闘では押し寄せるロシアの大軍を相手に戦線を死守し続け、本軍の反攻に貢献した。平時は陸軍内でもあまり評価されておらず、大佐止まりで予備役編入と噂されていた梅沢であったが、沙河会戦に於ける活躍で「花の梅沢旅団」として一躍有名になった。
 戦後は近衛歩兵第二旅団長、第六師団長を務め、大正4年に中将で退役となった。


詳細情報

  梅沢のエピソードは個別ページ「梅沢道治と"花の梅沢旅団"」に掲載。