真之が語る「丁字戦法」

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日本海の壮勲

 本編は責任ある連合艦隊参謀某氏の講話にしてその研究の専門的なるに似ず、立言着想頗る興味に富み一読叫快禁ずる能わざらしむるものあり。すなわち本欄内に特記して汎(ひろ)く読者に頒(わか)つ。


一 予期以上の効果

 日本海の海戦に於いて、我が連合艦隊の攻撃計画が、着々図に当りて、見事なる効果を奏しましたのは国家のため真に御同慶至極の事で、実際この戦いに参加せる我々に於いても、素より敵を全滅せんと企図したるものの、さて実戦となれば、天候その他の障害もあれば、その希望の半を達する位のものと、胸算を立ておりましたが、敵が当初より一々思う壺にはまってくれましたから、終に予期以上の効果を収め得るようになりました。殊にこの効果大なりしは、全く二十八日の追撃戦が意外の効果を奏したためで、仮に全戦の戦果を、二日間の各戦闘に割り当てて見ますれば、二十七日の昼戦に三分、同日夜戦に二分、二十八日の追撃戦に四分という勘定で、残りの一分だけは、我が撃滅に漏れた次第であります。


二 東郷大将の計画

 元来東郷大将が、敵艦隊を撃滅せんがために策定されました攻撃計画は、四昼夜にわたり、済州島付近より浦潮の前面に至るまでの間に、七段に区分されておりましたが、その第一第二段の計画は、天候不良のため実施が出来ませず、第三段より初めて実施されて、第四段第五段を続行し、また第六段第七段は、その実施の必要なくして、作戦を終結することになったのであります。右の第三段とは即ち二十七日の昼間、我が隊の全力を以てする、正攻的本攻撃で、第四段は、同日日没より本攻撃の終結に連続して、駆逐隊水雷艇隊の全力を以てする、奇襲的水雷攻撃で、第五段が連合艦隊の大部を以て、二十八日早朝より鬱陵島の東西線に先回りし残敵を要撃することであります。即ち正を以て合い、奇を以て勝つの原則に従い、正攻奇襲交々加うる方略で、別段新奇の計画でもなく、古来有り触れた攻撃法であります。


三 成功の発端

 二十七日の攻撃は、東郷大将の公報にも出てある通り、遭敵当時の情態に依り、午後二時より沖ノ島付近に於いて開始されましたので、斯く敵と会して開戦し、これを撃破したる後になりまするも、軍事上の眼識に乏しき世人は、ただ戦闘の光景にのみ見取れて、如何にして我が艦隊が、午後二時沖ノ島付近に於いて、敵を迎撃するを得たるかの、作戦上の困難を忘却するの傾きがありますが、当日の如き濛気深き天候の下に、五十海里を超えたる広き海峡にて、注文通りに敵と対面するは中々容易の業ではないので、一つ手筈が狂えば、敵を北方に逸したのでござります。然るに連日連夜、風雨波濤等の困難に勝ちて、終始よく命ぜられたる哨所を守りて、厳重に見張りに従事したる数多の哨艦が、早くも敵艦隊を発見し、また第三第五第六戦隊の如き、我が巡洋艦隊等が、いち早く敵と触接を保持して、これを見失わず、無線電信を以て、時々刻々の敵情を審らかに報告しましたから、公報にもある如く、数十哩外の敵影恰も眼界に映ずるが如く、真によく敵情が分かりまして、東郷大将はその麾下の諸隊を、沖ノ島の決勝地点に集合して、敵艦隊迎撃の初戦を開始さるることが出来たのであります。されば戦後に至り、大将は哨艦の信濃丸または和泉等に対し、弾雨の裏に奮闘したる他の諸艦には、当然の勤務として授与されざる感状を、特にこの二艦に下付されたことと思います。しかしながら海峡哨戒の任務の困難は、独りこの二艦が担任したるわけではないので、その他にも沢山ありまして、各その哨所を守りて、何れも同一の難務に従事したのでありますが、敵がその哨所付近に来なかったため、信濃丸、和泉の如き大功を立つることが出来なかっただけで、その功労に至りては同一かと思います。


四 別段不思議なし

 斯く敵艦隊と、我が艦隊とを会すことが出来た以上は、無論我が勝利に帰するは、我も敵も予期せる処で別段不思議の出来事ではないのでありますが、外国人等は往々敵艦隊の戦艦の隻数、我に倍加せるより、この勝敗は見物なりと、待っておったものもあったかの如くでありましたが、それは皮相の観察で、我れの戦艦は四隻なりとも、戦艦と同格に戦闘し得べき有力なる装甲巡洋艦が八隻あるのみならず、形以上に於いて、我が術力は遙かに敵に優りておりまして、例えば砲術に於いても、少なくも我が十発四中に対する、彼の十発二中の算は、初めより立てておりました所が、彼の砲術はなおも拙劣で」、十発一中にも足らざる位でありましたから、我が四中に対する彼の一中、すでにこれだけにて我が兵力は、彼に四倍しておるわけで、この無形の力を有形に換算すれば、我が戦艦一隻は、敵の戦艦四隻に対抗して、なお余力ありと言うを得べき勘定でありますから、我が戦艦四隻は、敵の戦艦十六隻に対抗することが出来ます。未だこの上に前言う如き、有力の装甲巡洋艦八隻が控えておるのですから、負けようと思っても負ける道理がありません。けっきょくブツカッたら、勝つ次第であります。而して我が海軍の砲術が、斯くまでに上達せるものは、多年研究練磨の功にて、固より一朝一夕の成績ではないので、我が海軍の将卒より奪う可からずして、真似の出来ざるこの無形の熟練と、対敵を怖れず小敵を侮らざる度胸のあらん限りは、帝国海軍の基礎は大盤石にて、今が今一層強大なる敵が、海上より攻め来るとも、毛頭懸念すべき処は無く、真に御同様心丈夫な次第であります。


五 東郷大将の戦術

 我が海軍の砲術が、敵に卓越しておったことを表明すると同時に、東郷大将を始め、片岡、上村、出羽、瓜生各中将、その他各部隊指揮官の当日実施されたる戦術の適良なりしことを、忘却してはなりません。たとえ各艦の砲術巧妙なるも、これをしてその効力を発揮せしむべきものは戦術でありまして、これまた当日戦勝の一大要素たるを失いません。東郷大将が予て策定されました戦術は、我が海軍にて所謂丁字戦法、乙字戦法と称うるもので、これまた別段新奇の戦法では無く、欧米諸国は知らず我が国にては遠き数百年、水軍の昔より、この戦術はあったのでござります。

丁字戦法(1)

即ち当日東郷大将が執られたる戦法が、丁字戦法で上図の如く、敵列に対しその先頭を圧し、丁字に運動されました。故に我が全線の砲火は、敵の先頭に集中するようになりまして、敵の後続部隊は未だ充分先頭距離に入らざる内に、その先頭艦のみが、我が総艦の砲弾を喰わなければならぬ次第で、すでに前述した如く、一艦と一艦との対抗に於いてすら、我は四中彼は一中と云う勘定なるに、我が十余隻より猛射する砲弾が、敵の先頭に占位せるスワロフとオスラビヤの二隻に集中するのですから、如何ほど頑強なる敵にても、これに撃破されるのは当然で、少時にしてこの二艦は、半ば戦闘力を失い、大火災を起こして、戦列を脱することとなりました。敵もこの攻撃に耐えず、間もなく左図の如く不規則の単縦陣に隊形を立直しましたけれども、

丁字戦法(2)

時機はすでに遅れておりまして我が主力の二戦隊は、優速を利用して、依然敵の先頭を圧して、確実に丁字を保持し、我が全線の砲火は、なお敵の戦闘部隊にある数艦に集弾するものですから、ロヂェストウェンスキーの率いる先頭部隊、ボロジノ型戦艦四隻は、真に気の毒なほど、無残な打撃を受けまして、公報に記しある如く勝敗は、開戦後一時間を出でざる内に決したのであります。その後敵は左図の如く方向を変じまして、その不利の位置を変ぜんとした様でありましたが、

丁字戦法(3)

我が艦隊もこれに応じて隊形を変じ、第一戦隊は十六点の一斉回頭をなして向き直り、その間第二戦隊は、なお砲撃を続けて、敵の側面を猛射し、ここに期せずして乙字戦法を施すの対勢を形成しまして、益々敵は不利の地位に陥りました。乙字戦法とは即ち我が二隊にて、左図の如く、敵の正面及び側面より十字火を喰わす戦法で、

丁字戦法(4)

昔の水軍の兵法では、これを正奇の二隊とし、正の隊が正面に当たれば、奇の隊が側面より懸るという主旨のものであります。即ちここでは、第一戦隊が正位を占め、第二戦隊が奇位を取って戦ったというできで、海陸戦術の大原則たる、正を以て合い、奇を以て勝つということは、かくの如き微妙の点にまで、応用されまして古の兵家の格言は、真に争われぬ真理を込めておるかと思います。その後なお戦術上に就き御談(おはなし)すべきこともありますが、既にこれだけにてフェルケルサム少将の旗艦オスラビヤは沈没し、ロヂェスト中将の旗艦スワロフの廃艦となりて孤立し、その他諸戦艦も大破して、爾後避戦に移るようになったのでありますから、この上冗長に戦術の御談をする必要も認めません。出羽、瓜生中将の率いらる、第三第四戦隊等が敵の後続部隊に対し取たる戦法も、また同軍法で、矢張り丁字乙字戦法の応用に過ぎません。兎に角当日東郷大将を始め、各部隊指揮官の執られたる戦術が、我が諸艦の砲術の熟練と相まって、迅速に勝敗を決したということは、争われぬ事実であります。


六 海戦史上の比較

 ここに海戦史の研究上に於いて、頗る我々が趣味多く感ずるは、古来空前絶後の大海戦として、今に戦術上の戦例の第一位を占めておる、トラファルガー海戦に於いて、かのネルソン将軍の執られた戦法と、今回の日本海海戦に於いて東郷大将の実施された戦法とが、全然反対しておりますことで、東郷大将はトラファルガーに於いて、仏西連合艦隊【註・フランス・スペイン連合艦隊】の執りたる陣立に據られ、ロヂェストウェンスキー中将はネルソンの陣立に類似したる戦法を執りました。即ち左にトラファルガーに於ける開戦当初の対抗両艦隊の姿勢を図示すれば、下の通りであります。

丁字戦法(5)

 このトラファルガーの海戦図と、前期の日本海海戦図とを比較して見ますると、余程似寄ったところがあるように思います。然るに戦闘の結果は全然反対で、トラファルガーにて勝ちたる戦法は、日本海で敗れております。これ一つは汽船兵器の進歩の然らしむるものであります。当時の英国海軍と等しく、今日の我が海軍将卒の意気と砲術が、遙か【実記では「遙き」】に敵に優っておったことが、戦法の如何に拘らず、戦勝の大原因を為すを証明しております。しかしながらネルソン将軍の当時の戦法と、東郷大将の我が国固有の戦法とを比較しますれば、私やはり数理上より推して、東郷大将の戦法を適良と認めます。その証拠が明らかに戦果に表れておりまして、当時英国艦隊の損害も中々多大にして、主将たるネルソンその人が、名誉の戦死を遂ぐるに至りましたが、日本海の海戦では我が戦勝艦隊の損害は、比較的真に僅少でありました。これ戦法の適否に原因すること多からんと思います。特に東郷大将の執られたる功は、一時に収めずして、数段の大計画に依りて、漸次に全勝を制せらるる等の大略と、ネルソンの一気呵成に、敵を撃滅せんとするが如き点とを比較しますると、古今東西両名将の価値を定むるに、大いに趣味あることと思います。


七 戦闘艦の価値

 却って説く、この日の昼戦に於いて撃沈されたる敵艦は、スワロフ、オスラビヤ、アレキサンダー三世、ボロジノの四戦艦で、なおその他の諸艦も、多大の損害を蒙り、半ば以上戦闘力を失ったものも少なからず、また数うるに足らざる特務船の二三隻も、射撃のついでに撃沈した次第でありましたが、世間では砲弾で戦艦が撃沈されたというので、大変不思議に思うておるかのようで、あるいは潜航水雷艇を用いたのではないか、または機械水雷を散布したのではないかなどと、頻りに質問する人がありますが、他の海峡は知らず、対馬海峡には、潜航艇などは一隻も居りませず、また我が艦船の行動すべき海面に、危険な機械水雷を散布するが如きは、常識で考えても、出来得可からざることであります。さりとて我が射撃技術が、日本海の海戦に至りて、格段に進歩したというわけでもなく、過去旅順港の海戦、黄海の海戦、蔚山沖の海戦に於いても、日本海の海戦と同様に、我が砲火の効力はあったであります。然るに今回の海戦にては、天候のため、波高かりしと敵艦の多くは荷重の石炭を搭載して、その甲鉄部を水線下に沈めておったのと、ボロジノ型戦艦の造船計画宜しきを得ずして、転舵するときは、一方に甚だしく傾斜するために、甲鉄部の上に受けたる数多(あまた)の弾孔により浸水を来たし、遂に排水量を減じて沈没するに至りたるもので、その証拠にはスワロフの如きは、檣(マスト)も煙突も飛びて丸坊主の如くに、水線上を破壊されておりまして、なお沈没せず、遂に夕刻我が第十一艇隊の水雷攻撃のために轟沈されたのを見ても、如何に甲鉄の防御力が強いかが分かります。やはり戦列艦隊の中堅は、戦艦でなければなりません。


八 花々しき水雷攻撃

 二十七日の昼戦に於いて、敵艦隊の首脳とも謂いつべき、最新式の戦艦四隻が撃沈されたるは、敵にとって真に大打撃で、しかのみならずその主将たるロヂェストウェンスキー中将負傷して起つ能わず、その旗艦の沈没に先だち駆逐艦に乗移りて戦場を脱する、その次席たるフェルケルサム少将も早く戦死しまするし(あるいは云う、戦闘前に病死せりと)、斯くなりては、艦隊の指揮も、統一出来ませず、自然に潰乱(かいらん)四分五裂となるは、勢いの免れざるところで、たとえ如何なる勇将猛卒が生き残りても、子の後を善くすることは出来ません。かくの如き絶望の悲境にある敵艦隊に対し、二十七日の日没より、勝ちに乗じ且つ戦闘の場数を踏んだ我が百錬の駆逐艇隊、水雷隊が、昼戦の弾雨未だやまざる内より、先を争うて猛烈果敢に驀進(ばくしん)突撃したのでありますから、もはや総敗北で、如何ともしようがありますまい。実に敵ながらこの間の境遇の難渋なりしは、察するに余りあります。その当時の光景の惨澹壮烈なるとは、中々に名状すべからざる程にて、夕日はまさに西に没せんとし、煤煙と爆烟(ばくえん)とは、一面海上を蔽って、薄暮の景色を一層物凄くし、多大の損害を負える敵の残艦は、あるいは檣(ほばしら)折れ煙突破れ、また火災に苦しみながら、なお群をなして一方に血路を開かんとしている。これに対する我が艦隊の諸艦も、勝戦とは申しながら、すでに多少の損害を負いて、檣桁(しょうこう)の折れたるもあり、舷側に破孔を穿たれたるもありて、彼我共に激戦の痕跡をその外容に現わしつつ、なお間断なく終戦の砲弾を交換しておりますし、四囲を見渡せば、ここかしこ煙霧の中を縫うて、横さまに電光の如くひらめくは、なお打ちやまざる敵味方の筒口より発する火花たるを示し、かかる際に敵艦ボロジノは、焔煙に包まれて、無残に沈没する。我が駆逐隊、水雷艇隊は、怒濤を蹴って各方面より敵に向かい突進しつつある。この惨絶壮絶なる有様は、口にも言えず、画にも書かれぬ、いわゆる修羅の巷にして、思わず勇士をして無情を感じ、捨つべきは弓矢なりけりと口ずさましむるようになるを覚えました。
 斯くて日没と共に我が各戦隊は鬱陵に向かい北航しましたが、夜陰に入り遙か後方を見渡せば、我が駆逐隊水雷艇隊は、すでに敵に肉薄し、厄鬼となりて激烈なる襲撃をなせるものと
見えて、敵艦隊の探海燈は、海上の闇を破りて、その間断なき砲火と共に、縦横に閃き、風が持って来る陰々轟々たる砲声を聞くごとに、我々は今夜我が襲撃隊は、必ず敵に一二艦も轟沈せしならんとの、喜ばしき希望を生ずると同時に、また多くの内には、敵の防御砲火に撃沈せられ、この風濤の内に忠死を遂ぐる戦友も少なからざるべしとの感想を抱き、何ともかとも言えぬ心地して、翌日の戦場指して急ぎました。後日の報告によれば、果たしてこの夜の水雷攻撃は、見事に功を奏しまして、敵の残艦中最も有力なる、シソイベリーキ、ナバリン、ナヒモフ、モノマックの四隻は、確かこの夜戦中撃破せられ、シソイベリーキ、ナヒモフの如きは、漸く翌朝まで沈没を支え得たるの有様でありました。また斯く攻撃の猛烈なりしだけそれだけ、我が駆逐隊水雷艇隊の損害も、比較的多大なりしとは、公報にも見えております。当夜は実際風浪のため、水雷艇の攻撃には、余程不利でありますから、我々も実は今夜の襲撃は、奏功の望み少なしと予期しておりましたが、斯くまでに成功したのは、全く我が駆逐隊水雷艇隊の熟練と勇敢に原因するもので、もし当夜の天候をして平穏ならしめば、翌二十八日の戦いを待たず、敵艦隊をして遺漏なからしめたかもしれません。兎に角見事なる花々しき水雷攻撃の戦例で、かかる勇敢なる駆逐艦水雷艇が、、帝国の周海を守護しておる間は、たとえ戦艦巡洋艦等はなくとも、敵人に御国の寸土をも踏まするようなことはあるまいと信じます。


九 戦略上の大目的

 二十七日夜の水雷攻撃は、直接に敵の兵力を減殺したるのみならず、間接にもまた少なからざる作戦上の効益をなしたるものにて、これがために敗残潰乱の敵艦隊は、支離滅裂の状態に陥り、各自に血路を索めて、随意勝手に逸走しましたから、翌二十八日に至り、鬱陵島付近にて、敵を待ちたる我が諸戦隊は、個々に分属せる敵艦を片っ端より攻撃し得ることとなり、為に予想外の戦果を収むることが出来ました。しかのみならず、ヲレグ、オーロラ等が、北方に逃るるを断念して、南方に走り、遂に武装を解除するに至りたるを見れば、我が連合艦隊が、敵の第二第三艦隊をして、浦潮に據(よ)らしめざらんとする戦略上の大目的の一部を達するを得せしめたと謂うて、然るべきであります。


十 二十八日の事

 二十八日の海戦は、残存的敵艦に対する追撃戦にて、全く公報も同様な次第で、別段これと言う程の見栄えのある戦いではありませんが、戦略上の見地より言えば、勝敗を決する決戦よりは、この追撃戦にて、戦果を収むるの必要なることは、海戦も陸戦も同一で、たとえ如何ほど我が将卒は疲労し居るとも、また数多の負傷者は下甲板に苦悶しつつあるも、これに耐え忍び、心を鬼にして追撃を続行しなければ、戦略上の大目的を達成することは出来ないのであります。幸い二十八日は、前日の如き濛気もなく、海上もやや穏やかになりまして、夜が明くると間もなく、早や第五戦隊は、ニコライ一世以下四艦より成る敵の一群を発見しまして、これを報ずる無線電信は、ここかしこの我が諸戦隊に伝わり、午前十時過ぎに竹島の南方で、全くこれを包囲することとなりました。この期に臨んで、如何ほど残余の敵艦がジタバタしたとて取り逃がすわけのものではないのみならず、彼に数倍せる我が優勢の艦隊に取囲まれては、ネボガトフ将軍如何に勇ありて抵抗するとも、蟷螂の斧を振って龍車に向かうが如きもので、勢い降伏せざるを得ないのであります。これ即ち東郷大将の戦わずして敵を屈する心略が成功したるものと認むべきであります。然るに兵理を心得ざる凡眼の輩は、敵将の降伏を見て、やれ怯懦(きょうだ)とか不忠とか、勝手な評論を致しますけれども、斯かる際に於ける戦士の胸間に起これる心理上の変動は到底卓上の将棋を指すが如き単純なものでないので、ネボガトフ将軍と雖(いえど)も、本来常識ある知名の敵将なれば、その率いる四艦を爆沈しても、敵手に委せざらんとするが如き覚悟は、無論これあるべきも、それがこの場合に実行し難いのであります。私は当時の敵将の心事に対し、深く同情を表すると同時に、世人がこの降将を誹譏(ひき)するは、却ってこの降伏のやむを得ざるに至らしめたる東郷大将を始め、我が艦隊将卒の苦心を無にするようなものと考えます。蓋しこの降伏の原因を尋ぬれば、前日来の戦闘に、敵の戦闘力は減殺され居るのみならず、連続昼夜の我が攻撃を受けて、彼らがまたこれを用うる能わざるまでに、困憊疲労の極度に達し、且つ孤独の悲境に陥りて、その友艦存亡の消息さえ分明ならず、その鼻の先に東郷大将の旗艦を始めとして、優勢なる我が艦隊が揃いも揃って堂々と威圧し来ると同時に、東郷大将が武士の情けを酌んで、帯剣を許し、名誉を保たしむる等の、機宜(きぎ)の処置を取られましたから、遂に艦船兵器を我に委して降伏した次第で、私は降るのが当然ではないかと思います。兎に角露国海軍軍人も、我が海軍軍人と同じく、中々気概がありますから、尋常一様に降伏するが如きものと見下げるのは、大間違いであります。


十一 追撃戦の大団円

 右の戦利艦四隻の外に、なお音羽、新高の撃沈したるスビエトラーナ、磐手、八雲の撃沈したるウシャコツフ、また瓜生戦隊の撃破したるドンスコイ、その他二三駆逐艦もありて、追撃の戦果は当日午後に入りて、愈々益々増大しました。殊に漣、陽炎の二駆逐艦が、敵の駆逐艦ベドウィを捕獲して、図らずも敵の主将を擒にしたるが如きは、真に小説の様な出来事で、当日の追撃戦に多少の光彩を添えた次第であります。これらは皆、我艦隊将卒が、必ず敵を撃滅せんとする、敢為の気象に対する賜(たまもの)で、もし前日来の疲労に耐え、損傷の苦痛を忍ぶの克己心が無かったときには、取れるものも取れなかったことと信じます。


十二 善戦の好例

 以上は日本海海戦に対する、私一人の戦史研究の一班でありまして、なお精細に研究すれば、いまだ趣味の津々たる様にも覚えますが、要するにこの海戦の、世人が不思議に思っている程に、我々は不思議の成功とは認めておりません。即ち所謂勝ち易きに勝ったので、勝ち難きに勝ったという訳ではありません。されば連合艦隊は、各々その分に応じて、遺憾なく為すべき所を為し、秋毫も多力を用いしにあらず。従って智名も無く勇功無しというて宜しいので、これらが善戦の好例と認むべきでしょう。かの軍談や講釈の話柄となる様な出来事の多い戦いは、素人の目を喜ばす光彩はあれども、これ所謂悪戦で、兵家が執らざるところであります。故に単にこの点のみにても、日本海の海戦はトラファルガーの海戦に優っていて、東郷大将はネルソン大将に優ること数等ではないかと思います。


十三 天佑と天妨

 然しながら天佑と申すものは、人智が極度に発達せざる限り、戦争の勝敗に関与するものでありまして、如何ほど戦士が人力のあらん限りを尽くすも、今は天命に委せざる可からざる部分があります。例えば二十八日の海戦に於いて、濛気が霽(は)れ、分裂せる敵を要撃せんとする我艦隊の展望界を大にしたるが如きは、天佑と云うの外はないけれど、二十七日の海戦に、濤高かりしため敵艦が、為に沈没した、これ全く神風などと云うのは神の助けを知らざる輩の誤信で、風濤は対抗する両軍共に一様に困難を感じ、決して天は一方に私したるわけではなく、この風に勝ち、濤に耐えるのが平素からの練磨で、二十七日の海戦中、我艦隊の浅間、笠置、浪速の如き、皆な敵艦と等しく、弾孔より浸水したるも、能く人力を以て、これを防ぎ止めたから、沈没しなかったのであります。殊に水雷艇隊にとりては、当夜の天候は天佑と云うよりは、天妨と云うが適当にて、もし彼の風濤なかりせば、なお多数の敵艦に止めを刺したることと信じます。それにつけても、天皇陛下の御威徳の洪大無辺なるは、我々の深く感激せる処にて、申すも恐れ多けれども、かくの如き大戦争をなさしめらるるも、またかくの如き精鋭の海軍を造設し置かれたるっも、皆これ、陛下御一人の御威徳にて、我将卒が忠勤を励んで奮闘勇戦するも、その根源を尋ねれば、やはり大元帥陛下の御神力に帰せざるを得ません。これを敵国の皇帝陛下が、しばしば朕は汝に感謝すとか、神は卿等を慰籍すべしとか、過分の勅語を下されても、さてその護国の軍人が、それほどに忠勇であるかと云えば、我ながら余程等差がある様に感じます。されば我々の所謂天佑とは、天皇陛下の御稜威(みいづ)と一致している様に思います。而して世間で云う天佑とは、異なっているかの様に思います。
 
 御所望に基づき、日本海海戦の私見を述べましたが、余り長くなる故、まずこの位で止めて置きましょう。



※解説

 「中央公論(日本海海戦誌)」のページでも触れましたが、この文章については木村勲著「日本海海戦とメディア」は著者を小笠原長生としています。しかし、その根拠が不明確であることに加え、中央公論ではその小笠原自身が序文で「畏友秋山真之将軍の真蹟」と説明しているという矛盾点があります。この文章の著者が真之であるという確実な根拠も見つかりませんが、どうせ読むなら「連合艦隊参謀某氏=真之」として読む方が面白いと考え、ここでは中央公論に従い『真之が語る「丁字戦法」』というタイトルで特集記事としました。

 「日本海海戦とメディア」、「天気晴朗ナレドモ波高シ」(毎日ワンズ)に掲載されているのは前半だけですが、ここでは「日露戦争実記 第八十一編」に掲載されている全文と挿図を掲載しています。

日露戦争実記
「日露戦争実記 第八十一編」 『日本海の壮勲』


中央公論
「中央公論」 『日本海海戦誌』


真之原稿
原稿の一部(中央公論に掲載)