さて、歩兵による攻撃に失敗した第三軍は作戦を変更します。
まず、堡塁と平行に塹壕を掘ります(平行壕)。次に、平行壕から堡塁に向かって2〜3本の対壕を掘り進めていきます。対壕がジグザグになっているのは敵の掃射を避けるためです。平行壕から行われる援護射撃の射程範囲内まで対壕を掘り進めたら、そこでまた平行壕を作ります。この作業を繰り返すことによって徐々に堡塁に近づいていきました。そして第2次総攻撃が行われた10月27日、日本軍は対壕に仕掛けた火薬で側防窖室の外壁を爆破しました。
〜 「明治卅七八年日露戦史」 付図第六巻 第二十一 〜
日本軍の坑道と10月27日の爆破口。
10月31日の爆破口。
外壕内側に面した壁面に残っている日本軍の爆破口。この攻撃で外壁の一部を爆破して突破口を開いたものの、ロシア軍の激しい抵抗によって日本軍の攻撃は再び頓挫しました。その後、第三軍は攻撃目標を203高地に変更して12月6日に占領。
そして12月15日、二十八センチ榴弾砲が兵舎付近の窖室に命中し、そこにいたコンドラチェンコを戦死させます。
コンドラチェンコ(ロシサラテンコ?)戦死地の碑。窖室の天井がこの部分だけ崩れ落ちています。「坂の上の雲」ではコンドラチェンコが戦死したときの様子が次のように描かれています。
『ともかくコンドラチェンコは現場を見ようとした。このためまず堡塁の咽喉部の窖室に入った。このとき日本の二十八サンチ榴弾砲陣地で大きな発射音がとどろき、巨弾が空を飛んでこの窖室の天井を突きぬけ、内部で大爆発したのである。堡塁長フロロフ中尉は吹っとばされたが、重傷を負っただけで済んだ。硝煙が消え、星空がみえたことを同中尉はおぼえている。』