また凱旋奏上文もこれに劣らぬ名文であった。海軍の凱旋奏上は初め口頭を以てすることになっていたのが、中頃加藤参謀長の発案で文章にすることになったのだった。清河中将の話であるが、これは丁度連合艦隊が凱旋して横浜港に参集した時で、秋山将軍は参謀の清河中将と共に軍艦敷島の幕僚室にいた。二人でうちくつろいで長唄の勧進帳の蓄音機をかけていると、加藤参謀長が入って来て、将軍に奏上文を書いてくれという。横になって蓄音機を聴いていた将軍はむくりと起き上がり、筆を噛んで無造作に書き出したのがあの名文だった。
将軍の凱旋奏上文に比べると、文章として海軍の方が遙かに優秀であった事は十目の認むる所であった。あれだけ無造作に書いてあれだけ素晴らしいものが出来るのだから、それは正に天才的神技ともいうべきものである。
その他戦時中の大小の報告文は、単なる報告文として置くのは惜しいほどのものばかりであったが、それらの報告文で慣用語になったもので「艦隊は予定の如く行動を起こし」云々という文句があった。この文句は大抵の報告文に見えている。それで将軍の報告文を揶揄して
やきもちは予定の如く発動し
などと川柳にもじった者などもあった。しかしこの「予定の如く行動し」というのも畢竟(ひっきょう)予定の作戦がよいから予定の如く行動して予定の如く成果を収め得たのであって、必ずしも文章の癖とばかりはいえないのであった。
一度将軍の名文章に関し山本英輔大将が将軍に聞いてみた事があった。
「先生、定評のあるあなたの名文章、あれまで修業されたには何か秘訣があるのですか?」
すると将軍は事もなげに答えた。
「なに秘訣はないさ。平常自分でも名文を書きたいと思って、人の名文によく注意していた。名文があると新聞や雑誌を切り抜いて置いて時々読んでみた事もある」
これによると将軍は文章を作る時は至極無造作であるが、平常に於いて、文章に対しては相当の用意は怠らなかったらしい。そういえば将軍が時々文章の事で知人の文章家などに相談したという話なども残っている。将軍の死後、書類を整理した際、雑記帳の中に種々の熟語や成語を抜き書きしたものを発見したが、これなども文章練磨の資料であったのであろうと思われる。人の気づかぬところに細心の注意を不断に払って、空差の急に応ずる準備を怠らなかったところに将軍の用意周到さがある。
水交会刊行の「小柳資料」の中には、これと同じエピソードが紹介されている。証言者は清水光美中将(真珠湾攻撃時の第六艦隊司令長官)。真之は明治42〜43年に、清水が配属されていた橋立の艦長を務めている。
真之の例え話の中に出てくる土井晩翠は「荒城の月」の作詞者。伝記『秋山真之』にも晩翠作の「秋山中将を弔う」という詩が掲載されているが真之との関係は不明。ちなみに、晩翠は後に浅野和三郎(浅野と真之との関係については「真之と大本教」を参照)が設立した「心霊科学研究会」の後身である「日本心霊科学協会」の設立に関わっている。
菊池謙二郎の回想「追憶片々」にも「秋山君も学生時代は文章は得意の方ではなかった。正岡や僕などよりも作文の点数は劣っていた。君はそれをよほど残念に思って、必死と文章の修練をされたこともあった。」と書かれているように、真之の名文は平素からの努力の積み重ねによって生み出されたものだったのである。