出身地 |
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生没年 |
1867年〜1948年 |
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海軍兵学校 |
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海軍大学校 |
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日清戦争時 |
六号水雷艇長 |
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日露戦争時 |
第四駆逐隊司令 |
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最終階級 |
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伝記、資料 |
「鈴木貫太郎伝 」(同編纂委員会) |
旧制前橋中学、攻玉社を経て明治17年に海軍兵学校に入学。14期で卒業後、各艦の分隊士、 分隊長を務め、明治27年の日清戦争では水雷艇長として威海衛襲撃で活躍した。日清戦争後は海軍大学校で水雷術を学び、その後は軍務局局員、海大教官などを務めた。明治37年、日露戦争が勃発すると欧州から巡洋艦「春日」を回航し、その後は駆逐艦隊を率いて活躍。その戦いぶりから「鬼貫太郎」と呼ばれた。
戦後は海大教官、艦長、水雷隊司令官などを務めた後、大正3年に秋山真之の推挙で海軍次官に就任。シーメンス事件の事後処理を行った。その後、連合艦隊司令長官、軍令部長など要職を務め、予備役編入後は侍従長務めた。侍従長在職中の二・二六事件では青年将校に襲撃され瀕死の重傷を負うが、奇跡的に一命を取り留めている。
太平洋戦争の末期、昭和20年4月には昭和天皇の要請で首相に就任し、陸軍など強行派を押さえながら終戦工作に奔走。最終的に日本のポツダム宣言受諾を決した。8月15日早朝、終戦に反対する将校らの襲撃を間一髪で免れ、日本の降伏を見届けて昭和23年に病没した。
貫太郎は日清・日露戦争以外の平時でも、何度か死にそうな体験をしている。
3歳の頃、東海道でチョコチョコと街道を走っていった貫太郎は、街道随一と呼ばれる悍馬の足掻きのうちに転倒。だれ一人として救ける暇などない一瞬の出来事だったが、馬は貫太郎の身体が自分の蹄の前に投げられた途端、その膝を折り、ぽんと一跳ねして何事もなかったように飛び越して馳せ去っていった。
7歳の頃、入り堰の扉の上にのしかかって魚釣りをしていた時に、魚に気を取られていて扉が開いていることに気づかず、そのまま深い水溜まりの中に落ちてしまった。なんとか泳いで岸にはい上がり、叱られないようにと2、3時間着物を乾かしてから家に帰ったが、けっきょく母親に叱られてしまった。
少尉の頃、乗艦していた天城が入港の際に浅瀬に乗り上げてしまった。船を浮せるために錨をとって運搬することになり、二隻のカッターにこれをつるして海へもっていって、二本の錨を支えているロープを切り落とそうとしたところ、片方しか切れなかったためにボートがバランスを崩して転覆。そして貫太郎も錨と共に10メートルほど水没してしまった。この時も運良く助かり、その後ほかの乗組員達と蘇生会をやって大いに飲んだという。
金剛の航海長だった頃、砲座下の鉄格子に座って昼寝をしていて、目覚めて立ち上がった時に頭を大砲にぶつけ、そのまま海中に転落した。「海軍将校が海へ落ちて、『助けてくれ』って言うのは格好悪い」と思い、潮流に押し流されながら舵の鎖に掴まって何とか甲板にはい上がると、そこに一人の信号兵が立っていた。「オイ、わが輩が海に落ちたことに気がつかなかったのか」と叱りつけると、「先ほど後ろの方でボチャンという音がしたと思い、何事か分からなかったのですが、あれは航海長が落ちた時の音だったのですか」と言われてしまった。
日本海海戦後、鈴木が司令部へ報告に行くと真之から「君の報告ではシソイベリイキ、ナバリンの二隻をやったことは明らかで、捕虜の証言ともよく合っている。しかし会議の席でシソイベリキはおれのところでやったんだと文句があった。みなで攻撃したんだから偽ではないが、君のところだけ二隻は多すぎる。一隻は他へ裾分けしたから承知してくれ」と言われた。鈴木は「よろしい」といって快諾した。
次に東郷のところへ報告に行くと、「白昼のあなたの攻撃はよく見ていました」と言われ、その後も東郷は三十分ほど海戦の経過を語りだした。鈴木は後に「いつも黙っている人なのだが実際は雄弁な人なのだと思った。とにかく私は先にも後にもこんなに喜んで雄弁に語られた東郷さんを見たことがない。このことは私の終生忘れ難い感激であった」と自伝で回顧している。
貫太郎が率いた第四駆逐隊の乗員たちは「天濤会(”天気晴朗なれども濤高し”より命名)」という会をつくり、毎年5月27日には貫太郎を囲んで会食をし、当時の思い出話などを語り合っていた。この会は約40年間、一度も欠かすことなく続けられていた。
太平洋戦争末期の昭和20年、貫太郎が首相に就任したこともあり、部下たちはこの年の会食開催は無理だろうと考えていた。しかし、旧誼を重んじる貫太郎は首相官邸に会場を準備し、戦友たちとの会食を楽しみにしていた。結局、当日は空襲による灯火管制や交通規制で中止となってしまったが、部下たちは貫太郎の心遣いを喜んだという。
二・二六事件の夜、貫太郎は決起将校に私邸を襲われた。「理由を聞かせなさい」という貫太郎に対し、指揮官の安藤輝三は「時間がありません。一命を頂戴します」とこれを拒絶。そして「やむをえませんなぁ・・・それではお撃ちなさい」と答えた貫太郎に至近距離から4発の銃弾を撃ち込んだ。さらに安藤は止めを刺そうとしたが、貫太郎の妻から「もう十分でしょう」と制止され、そのまま帰ってしまった。銃弾を受けて意識が朦朧とする中、貫太郎は駆けつけた医師が血の海で滑って転ぶのを目撃し、後にそのことまでちゃんと自伝に書き残している。
弟の鈴木孝雄(陸軍大将)が事件を知ったのは翌朝になってからであった。これは、様子を見にきた弟が巻き添えになることを心配した貫太郎が、翌朝になるまで弟に知らせないように家族に厳命していたのである。
貫太郎が亡くなった後、一人の元兵士が未亡人のもとを訪ねてきた。その兵士は二・二六事件で貫太郎を撃った人物であった。彼は襲撃当夜のことを述懐し、襲撃直後に貫太郎の妻から「人の家に土足で入るとは何事ですか。帝国陸軍の軍人として恥ずかしくないのですか」と一喝され慌てて靴を脱いだこと、貫太郎があまりにも堂々とした態度であったので引き金を引く瞬間は思わず目を閉じてしまったことなどを語ったという。
太平洋戦争末期の1945年4月、首相であった鈴木はアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が急死したときに、敵国元首の死に対して弔意を述べた。このことは、ニューヨークタイムズなどで大きく報じられ、鈴木の行動は各国で賞賛された。
鈴木内閣の議会において、ある議員が貫太郎を口汚く罵倒したことがあった。普段はめったに怒らない米内海相が激怒するほどであったが、当の本人はその暴言を聞き流して顔色も変えず、平然と答弁した。
「どうも私は耳が遠くてよく聞こえないので、今度耳鼻科に行ってすっかり治したうえで答弁します」
山梨勝之進は戦後になって海上自衛隊幹部学校で講演を行い、そこで鈴木が日本を終戦に導くことのできた理由を次のように語った。
『長い日本の歴史において、鈴木大将のような立場になった方は他にはないと思う。もともとが将軍でして、戦をして敵に勝つのが務めで、またかつてはそのとおりであったのですが、あのような最高の舞台で、戦をやめる立場にたった。戦をやって勝利をうるのが将軍の一面であり、戦をやめるのが他の一面で、どちらが難しいかというと、場合によってはあとの方が難しいということができる。(中略)
しかし鈴木将軍のあの貫禄があってこそ、押し切れたのです。あれがもし普通の文官の方があの立場にあったら、軍は収まらなかったろうと思う。「あんな臆病者の勇気のないものが戦をやめろと言っても、降参するものか」と言ってやめるものではない。いわゆる「鬼鈴木」と言われ、勇気と胆勇では、日本一看板づきの人がこうだからというので、その押しと貫禄で、陛下のご決定までいったと思われ、実に歴史始まっての第一人者であると思う。』
『歴史と名将』(毎日新聞社)より
8月15日、首相として終戦工作に奔走した貫太郎は、降伏に反対する一部将校に私邸を襲撃され、間一髪で逃げ延びた。総辞職後も右翼に狙われ続け、危険を避けるため7回も住居を変えていた。生活に必要なものについては鈴木内閣で国務大臣を務めていた海軍中将の左近司政三が世話をし、無聊を慰めるために史記、、論語、十八史略などの漢書を届けると非常に喜んでいたという。
終戦後、民主化が進む中で貫太郎は「日本人として残しておきたい美点」というものを次のように語っている。
「日本人として是非とも残しておきたい美点は何かといえば、本当の武士道であると思う。ヨーロッパにおいて古代には騎士道があり、その精神は脈々と現在にも伝わって来ているのであろうが、日本が過去において世界に誇ってよかったものは武士道であったと思う。武士道は決っして武を好む精神ではない。正義、廉潔を重んずる精神であり、慈悲を尊ぶ精神である。これを失ったままにしておくことは日本民族の精髄を失うことになる。
役人が国民に約束したことを破って平然としている。知人間、同胞間でお互いがてんでに勝手な生活をしている。約束は実行しない。自由を放縦とはき違えている。こんなことでは騎士道を重んずる連合国の人々にますます劣等国視されるばかりだ。
いたずらに外面的な新を追い外国風な風俗になることが、民主主義ではない。民主主義の裏づけとなるものは、正義、人道、寛容、友愛その他真に日本の武士道と共通するものである。
また、これからの日本人は精神も肉体も健全であると同時に、勤勉であり、能率的でなければならぬと思う。日本人が非常に非能率的であるということをよく耳にするが、それは日本人が生活訓練を怠っている証拠であり、常時訓練を行えば、日本人は驚くべき能率をも発揮し得る国民である」
貫太郎が真之と深く関わるようになったのは日露戦争後からである。日露戦争後の明治38年、水雷術の大家である貫太郎と、海軍戦術の大家である真之は共に海軍大学校教官に任じられた。この頃は教官だけでなく学生たちも日露戦争の実戦経験者ばかりであったため、当時の講義速記者が「海軍大学の速記者を長い間勤めてきたが、これほど教室が賑やかだったことはなかった」と言うほど、教室での教官と学生の論戦は非常に活発であった。
また、明治42年には真之が艦長を務めていた巡洋艦音羽はと貫太郎が艦長を務めていた巡洋艦明石が砲艦数隻と共に南進艦隊に配備され、揚子江から広東方面の警備に従事することになった。真之と貫太郎は終始行動を共にし、警備活動に従事するかたわら、以前から居留民と海軍との間で問題になっていた弊害を一掃することにも務めた。このことによって、その後は居留民も海軍を好遇してくれるようになったという。
貫太郎はこの頃の真之との思い出を次のように自伝に書き残している。「先生はご承知のとおりなんでもできる人で、漢口の宿で無聊を感じた時、僕が子供の時覚えた仕舞いをやって見ようかという。やってみたまえといったら上手に舞った。どうして覚えたのかといったら、僕の国の松山では子供の時に教育として教えたので覚えているという。秋山のかくし芸を見たが、あの無骨な人が優美な仕舞いをやった姿、今でも目の前にあるようで面白かった」。
また、音羽が福州の港で座礁してしまい、貫太郎が査問委員長となって原因を調べることになったことがあった。しかし、音羽に損害はなく、また原因も中国人の水先案内人のミスであることがわかり、真之は艦長としての責任を問われずに済んだ。
大正3年、海軍将校数人がドイツのシーメンス社からの賄賂を受け取ったというシーメンス事件が発覚した。その直後に海軍大臣に就任した八代六郎は真之を軍事局長に起用し、二人で相談して貫太郎を次官に起用することを決定した。そこで真之が電話をかけて貫太郎に依頼したのだが、「行政上のことは嫌いだから断る。君がやればいいじゃないか」と断られてしまった。真之は「僕は敵が多いからダメだ。ぜひ君にやってもらいたい」と説得を続けたが、それでも貫太郎は父の病気を理由になかなか要請に応じようとしなかった。しかし、この話を聞いた病床の父から「そこまで言われるのであれば、私のことなど心配せずに引き受ければよいではないか」と説得され、貫太郎は次官就任を引き受けた。
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