このサイトで紹介しているエピソード、まだ紹介しきれていない数多くのエピソードの中から、「坂の上の雲」を楽しむためのエピソード100話を選びぬいて紹介していくページです。現在、エピソードを選別中(候補は約70)。とりあえず書き上げたものから順次掲載していき、分類や順序入れ替えは作成中に随時行って整理していく予定です。
秋山兄弟の父 久敬は漢学に造詣が深く、子供たちの名前は漢文の一節からとっていた。信三郎
好古は孔子の論語にある一節「信而好古」(古くからの教えを信じ、好む)、淳五郎 真之は張衡の思玄賦にある一節「何道眞之淳粹兮」(道徳の真髄は純粋である)というように、その読みに何か古い響きを持たせようとしていたようである。
子規の幼名「處之助」は、父の知り合いであった竹内一兵衛という藩の鉄砲指南役がつけてくれた名前だった。しかし、家族はこの名前があまり気に入らず、さらに学校に行くようになると友人から「トコロテン、トコロテン」と言われるだろうということで、「升」にかえたという。
関連項目 : 好古と真之の逸話 、 正岡子規の逸話
好古が家計を助けるために銭湯の風呂焚きをしていたという話については、幼馴染の平井重則が後年「その当時、私も戒田の湯屋に遊びに行き時々水を汲まされたが、一度も賃金を遣ると言われたこともなく、受け取ったこともない。無論、彼も同じと思われる。戒田のオイサンは中々如才なき人で、唆されて水を汲まされた者は他にもまだまだ数人いた」と語っている。
一方、好古自身は亡くなる前に見舞いに来た和田昌訓(戒田の親戚)から風呂焚きの話を聞かれた際、「あの頃は実に難儀ぢゃったが、自分は子供ながらも独立独行ということを信念としていたので、ああいうことをやったのぢゃ。書物は欲しいが親に買ってもらうのも気の毒ぢゃったからのう」と当時を追懐しながら話したほか、河東碧梧桐も「兄大将はいつでも自分の青年時代の事を語って、湯屋の水汲みに雇われては僅かばかりの小遣いを貰った話をする」と真之追憶談の中で述べていることから、実際に銭湯の手伝いをして賃金をもらっていたものと思われる。
「筆まかせ」では江ノ島への無銭旅行中に真之が尻餅をついて「かしこまった」と書かれているが、実際は子規の方が先に「かしこまった」らしい。このことについては後に柳原極堂が語っている。
明治18年の夏休みに、柳原は同郷の友人数名と共に鎌倉への無銭旅行を試みた。彼が苦労したことを隠し、その時のことを面白おかしく語ったので、真之が「今から行こう」と躍りあがって言い出したという。そして出かけてみたところ、体格では真之に劣る子規のほうが先に参ってしまったのだが、この一件を面白く読ませるために真之が先に「かしこまった」と書いたとのことであった。
しかし、真之が音を上げたのも事実である。子規は、真之が最後に「最善の努力を尽くしたんだから、もう引き返しても柳原に笑われまい」と言うので引き返すことになったと言い、さらに「あの時の秋山の顔は実に悲痛なものがあったよ。しかし最善の努力は尽くしたんじゃけんねや、秋山・・・」と真之をからかっていたという。
関連項目 : 真之と子規の学生時代の逸話
「坂の上の雲」で好古の陸軍士官学校同期生として登場した本郷房太郎。周囲から「生き字引」と呼ばれるほど記憶力の良かった本郷は、主に陸軍省などの軍政畑でその能力を発揮する。大正七年には陸軍大将に昇進したが、後進に道を拓いて引退しようと決意して定年前に辞職している。
小説では陸軍士官学校入学の場面以降は登場していないが、好古と本郷の交友は終生続いた。そして本郷は、親友好古の最後を看取っている。昭和五年十一月、好古危篤の報を聞いて本郷は病院に駆けつけた。「秋山、本郷が判るか、馬から落ちるな」と本郷が耳元で言うと、好古は目を開けて微笑し「本郷か、少し起こしてくれ」。体に良くないことは分かっていたが、本郷と好古の次男次郎は本人の希望通りに体を支えて起こしてやった。その後、しばらくしてから再び寝た好古は、そのまま永い眠りに入ったのであった。
関連項目 : 本郷房太郎の略歴と逸話
日露戦争後、日本海海戦の第一海戦が行われた5月27日は海軍記念日に制定された。この制度は戦後になって廃止されたが、横須賀の記念艦三笠では日本海海戦記念式典・祝宴が毎年開催されている。当日は昼頃から記念式典、記念茶会、自衛隊音楽隊による演奏が行われ、その後に後部甲板で記念祝宴が1時間ほど行われる。
また、この日は旅順閉塞作戦で戦死した広瀬武夫、2005年の日本海海戦100周年式典名誉会長を務めた中曽根元総理の誕生日でもある。ちなみに、1891年の5月27日にはニコライ二世を襲った津田三蔵の無期懲役が確定。1941年の5月27日にはフランス西方でイギリス艦隊とドイツ艦隊が交戦し、ドイツ最大の戦艦ビスマルクが沈没している。
関連項目 : 日本海海戦100周年記念式典
上着の上に剣帯のベルトをしめる「褌論」スタイルで三笠艦橋に上り日本海海戦に臨んだ真之。安保清種が昭和10年の座談会でこの後日談について語っている。
「東城画伯が三笠艦橋の場面を描くときに、実際に秋山君は上衣の上にバンドをしていたのだからその通りに絵を描こうとしたのだが、秋山君もまだ色気があったと見えて
「それだけは勘弁してくれ」と請願に及んだため、今残っている三笠艦橋の油絵には、秋山君は規定通りチャンと剣のバンドを上衣の下に締めた姿で描かれているのです」
2004年に出版された「坂の上の雲の真実」(菊田慎典著)は、三笠艦長のメモや焼失前の「三笠艦橋の図」などを根拠として真之が敵前回頭の際は艦橋には居なかったと主張していたが、2008年の三笠保存会会報で小山事務局長がこの説に反論。根拠としたメモは誤認識であること、焼失前の一作目の「三笠艦橋の図」にも真之が描かれていた事、さらに上記の安保の回顧談などを挙げ、菊田氏の説が誤りであると結論づけている。菊田氏もこの誤りを認め、次回作の執筆時に釈明することになっているという。
関連項目 : 好古と真之の逸話
虚子と子規との出会いは、第一巻「ほととぎす」で描かれているように野球がきっかけである。さらに、碧梧桐と子規との出会いのきっかけも野球であった。明治二十三年、碧梧桐は上京していた兄から「ベースボールという面白い遊びを帰省した正岡に聞け。球とバットを依託したから」という手紙を受け取った。碧梧桐はさっそく子規のもとへ行き、野球を習い始めた。後に碧梧桐は「球がこう来た時にはこうする、低く来た時にはこうする、と物理学見たような野球初歩の第一リーズンの説明をされたのが、恐らく子規と私とが、話らしい対応をした最初であったであろう。」と著書「子規を語る」で回顧している。
明治三十五年六月七日の「病牀六尺」に、子規は次のように記している。
『枕許にちらかってあるもの、絵本、雑誌等数十冊。置時計、寒暖計、硯、筆、唾壷(だこ)、汚物入れの丼鉢、呼鈴、まごの手、ハンケチ、その中に目立ちたる毛繻子(けじゅす)のはでなる毛蒲団一枚、これは軍艦に居る友達から贈られたのである。』
この「軍艦に居る友達から贈られた毛蒲団」については、虚子が後年「正岡子規と秋山参謀」の中で次のように語っている。
『その後、亜米利加に留学せられた事、あちらから毛の這入った軽い絹布団を子規君に送られた事(この布団は子規君の臨終まで着用せられたもの)、大分ハイカラにうつっている写真を送って来られた事。』
子規は親友真之から贈られた毛布を亡くなるまで使い続けていたのであった。なお、この羽根布団の生地の一部は松山の子規堂に展示されている。この生地は律が羽織の裏地に使ったものとのことである。
日清戦争中の明治二十七年十一月、真之は陥落したばかりの旅順市街に上陸し、そこで兄の好古と再会した。真之は、兄弟共に元気であること、兄から手柄話を聞かされたこと、さらに好物の煎り豆を送ってほしいということなどを下記のように母宛ての手紙に記している。
『本日途上家兄にも解逅し馬上にて互に無事を祝し申候。(中略)小生元より非常に健全陸軍の家兄も色黒く肥へ太り勇気凛々と致し居り本月初金州攻撃の前日一中隊の騎兵にて敵の大兵を破り分捕を数多くなしたる由自慢話被致候。何か幸便あれば豌豆及空豆二三斗計りイリテ御送被下度候。』
関連項目 : 将軍の貰い湯
子規は「筆まかせ」の「下宿がへ」の中で、学生時代の転居について次のように記している。
『明治十六年に出京して日本橋区に住し、一箇月許りにて赤坂区に転じ、又二箇月余にて日本橋に帰り、一箇月を経て神田区に移る。翌十七年牛込に転じ、秋再び神田に来り、十八年夏帰省し、再び出京して麹町区にあること二三日、又もや神田の下宿(前のと同じ処)に至り(以下省略)』
柳原極堂は後年、俳誌「鶏頭」に掲載した回顧談の中でこの子規の下宿について詳細に述べているのだが、「再び出京して麹町区にあること二三日」が何所なのかということについては「記憶が漠然としてまとまらぬ」とのことで断定はできていない。唯一覚えているのは、子規と共に好古、真之兄弟が同居している家を訪れたことであった。
『明治十八年の夏休帰省から板垣に子規が帰ってきたと聞いて、或朝予は訪問した。如何なる話の後であったか覚えぬが、二人で麹町に秋山真之氏の宅 − その兄の陸軍騎兵秋山好古氏の宅 − をたづねたが、その町名は今覚えていない。秋山の近所に何とか教会と称する基督教の会堂があったことと、同教の牧師として名の知られていた小崎弘道という人の住宅があったことは記憶に存している。(中略) 雇い婆さんらしいのが出て来て何か言っていたが、子規はすぐ客室に通った。予もついて上った。真之氏も主人の好古氏も折から不在なのであった。兎角するうちに正午になり、雇婆さんのすすむるままに午飯の馳走になって、我々は神田に帰ってきた。』
漠然と覚えているのはこれだけなのだが、柳原はある疑問を抱いていた。主人が不在なのに容赦なく客室に上がり込んだのは何故なのか?主人のいいつけで無いのにも関わらず雇婆さんが二人に昼食を勧め、二人も留守宅で昼食を御馳走になって平然としていたのは何故なのか? 当時は理由が分かっていたから何の疑問も持たなかったが、記憶が漠然としてきたためなかなか思い出せない。そこで、最終的に柳原は次のような仮説を述べている。
『子規と秋山は大学予備門で同級でありしのみならず、同郷の小学校時代からの親友である。此夏両人ながら郷里に帰り、折々出会ったことであろう。何かの話の順から今度東京に帰ったら秋山の宅に同宿し、倶ども勉学しようではないかと云うような事になって、相携えて再び出京し、子規は其の約束通り秋山の宅に入ったが、どうも不便なことが多くて其儘居つづくことが出来ず、秋山の諒解を求めて元の下宿板垣方へ引移ったのではなかろうか、其の二三日のなじみで雇婆さんとも懇意になりしため、主人が不在にも拘わらず奥にも通し午飯も饗したのではなかったろうか。これは固より憶測である』
柳原の説が正しいとすれば、子規と秋山兄弟、つまり「坂の上の雲」の主人公3人は数日とはいえ同居していたということになる。ちなみに、この前後に神田で子規と同居していた山内正至も一時期麹町で秋山兄弟と同宿していたのだが、伝記「秋山好古」によると、『内山氏は粗食に耐えきらずしてついに逃げ出し、次に寄食していた山内正至という同郷の後輩も亦逃げ出し、後には兄弟二人となったが、一つの茶碗で兄弟が代わり合うて飯を食ったという話さえある』との記述があることから、もしかしたら「どうも不便なことが多くて其儘居つづくことが出来ず」というのは、食いしん坊の子規も秋山兄弟の粗食生活に耐え切れなくて逃げ出したということかもしれない。そう考えると、非常に興味深いエピソードである。
また、別の可能性としては、上記の「雇婆さん」は秋山兄弟が松山にいた頃から秋山家で奉公していた「お熊婆さん」であり、松山時代からの顔馴染である子規に昼食を御馳走したということも考えられる。同居生活の有無は定かではないが、「坂の上の雲」に描かれているように子規が秋山兄弟宅を訪れて3人で食事をしていた事も何度かあったのだと思われる。
英国王戴冠式のため渡英した東郷は、留学中に乗船していた練習船ウースター号の卒業生達が歓迎会を開いた。その席上、東郷のもとに一通の手紙が届けられた。それは日清戦争時に東郷が撃沈した高陞号の艦長だったガルス・ウオルスエーからの手紙で、『私は高陞号撃沈の際、救助されて軍艦浪速に移されたときに、あなたとは浅からぬ因縁があることを知りました。私もあなたと同じようにウースター号で海事を学び、あなたの二期後に卒業しました。だから私もこの歓迎会に参加する資格を有しているのですが、高陞号事件のこともあるので、今回は遠慮させていただきました』 と書かれていた。これを読んだ東郷はその奇縁に驚くと共に、撃沈事件の際に艦長がこの関係を一言も言わなかったところに、いかにも英人気質が現れていると賞賛した。
この時、日本海海戦で三笠に掲揚されていた東郷の大将旗がウースター号へ寄贈された。この大将旗は平成16年に日本に返還され、2008年5月27日の日本海海戦103周年記念式典で公開された。
関連項目 : 東郷平八郎の逸話 外部リンク : MV STORIA (式典レポートに大将旗の写真あり)
常盤会寄宿舎で反正岡派の急先鋒として登場する佃一予であるが、佃と子規は最初の頃は仲が良かったようだ。子規の随筆『筆まかせ』にも佃は何度か登場している。
『洒落之番附』では「此頃は常盤会寄宿舎に口あいの洒落流行し来りて、左翼の二階は皆其仲間とぞなりけり」とあり、子規が西之方小結、佃一予が東之方前頭として紹介されている。また『ベースボール勝負附』では、寄宿舎仲間と野球をしようとしたところ小雨が降り出したので皆で延期を検討したが、佃の主張で気を取り直して上野公園へ行って野球をした事が書かれている。
また、太田柴州が後に柳原に語ったところによると、明治25年の夏(子規が退学を決意した頃)、太田と子規は松山から帰京する途中で広島に立ち寄り、そこで県の書記官をしていた佃から料亭に招待された。佃は芸妓を呼んで唄うやら踊るやらで上機嫌ではしゃいでいたのだが、何を思ったか急に子規を指差し、芸妓に向って「このお方は書が上手だ、何か書いてもらえ」と言い出した。佃が管を巻いている間に首を傾けて考えていた子規は、芸妓が差し出した三味線に『猫が三味ひきや鯰がうたふなかに無言のほととぎす』と都都逸めいた事を書いたという。太田は「鯰は佃でほととぎすは自身のことであろうが、芸妓にその意味が判ろうはずはないけれど、いずれも感心したような表情をしていたのは滑稽であった」と回顧している。
ちなみに、満鉄理事となった一予の他に、兄の一遊は愛媛師範校長、弟の山路一善は海軍中将(兵学校で真之と同期)となったので、彼ら三兄弟は秋山兄弟と共に地元で立身出世の鑑とされた。
「坂の上の雲」7巻127〜128ページで、捕虜となった第三軍兵士の丸山某が、ロシア軍の尋問に対して「将軍の行動と幕僚の執務一般の状況について」という学術論文のような答弁をやってのけ、ヨーロッパの兵学界を驚かせたというエピソードが紹介されている。この丸山が捕虜となってしまった原因は、第三軍
"迷" 参謀の津野田の失態であった。
奉天会戦中に丸山ら伝騎二名を従えて戦況視察に向かった津野田は、途中で包道屯という部落に立ち寄った。彼は日本軍がすでにここを攻略したと思っていたのだが、実はまだロシア軍の支配下にあった。そのことに気付かなかった津野田はここで報告書を書き、丸山に司令部へ届けるように命じた。そしてその後ろ姿を見送っていると、丸山は部落を出る直前にロシア兵に捕らえられてしまった。やっと敵に囲まれていることに気付いた津野田は、もう一人の伝騎とともに必死に脱出した。このとき、彼の左腕を一発の銃弾がかすめていったという。やっとのことで友軍に合流すると、そこの指揮官から「どうしてあの部落に入ったんですか・・・。それにしてもよく逃げてこれましたね。もう少し遅れていたら、あなたは我々に撃たれていましたよ」と呆れられてしまった。
戦後、津野田は軍事裁判にかけられた丸山をかばい、「罪は丸山には無く、命令を出した自分にある」と弁護しただけでなく、丸山に叙勲を与えるように進言したという。
関連項目 : 津野田是重の逸話
清国駐屯司令官時代、好古は袁世凱との交友関係を深めた。袁は好古を信頼し、ロシアの情勢を伝えたほか、日露戦争中には好古の司令部へ酒を届けたこともあった。好古も袁を信用し、日露戦争中に偵察に向かう部下に「何かあったらこれを持って袁世凱のところへ行け。きっと力になってくれる」と言って自分の名刺を持たせたという。
また、ある日本人が日清両国親善の一環としての友好関係を深めるために袁の子供達に来日を勧めたことがあった。袁の妻はなかなか承諾しなかったが、好古が帰国する際にその日本人が再度勧めると、「秋山さんと一緒なら」と言って訪日を許したという。この時、好古の副官達は「袁の子供たちが日本に到着したら、秋山さんの家を正式に訪問するだろう。しかし、四谷信濃町の借家では清国実力者の子供を迎えるには余りに貧弱だし、日本軍人の威厳にも関わる」と心配した。そこで、久松家の邸宅を借りて好古の親類の家ということにして、ここで袁世凱の子供たちを迎えた。
一方、真之は大正二年頃から日本亡命中の孫文を支援し始め、袁世凱政権打倒のために資金や協力者を集めた。結局、真之らの支援は失敗したのだが、この頃に好古が弟の行動を知っていたのか、また知っていたとしたらどの様に思っていたのかということについては記録が残っていない。
関連項目 : 真之の伝記「晩年の大飛躍」
教科書などでよく見る肖像写真、これは明治三十三年暮の蕪村忌に撮影されたもので、子規最後の写真と言われている。大原氏のもとに贈られた写真の裏には自筆で「苦しき思ひをしてヤット腰から上を起せしものを写真師は胴が屈み込み居れりなど注意するものから成るべくは之を伸ばさんとして思ふ様にも成らず其儘横より斜面に撮影せしめし」ということや、そのように無理な姿勢をとったために後で脊髄に激痛を感じた事などが記されていたという。
翌三十四年一月、柳原極堂のもとに「写真有難う。故郷の光景つくづく見て居ると、こまかな処に面白みが何ぼでもある。代わりに木像上人の写真一枚あげる」と書かれた手紙と共にこの写真が送られてきた。この親友の変わり果てた姿を見た時の衝撃を、柳原は次のように記している。
『写真を取り出して見ると骨と皮とに成って憔悴し了ってシカシ眼光は烱々四辺を射て眉間には芋虫大の青筋を立てて居る五分かり頭の大の男が帯から上を半身写したるものが転がり出た。ハテ何だろう・・・・木像上人って何だろうと少しは合点がつかなんだが。何ぞ図らん、これが子規君の写真であったと気付いた時は覚えず写真を蔽って畳の上に打ち伏し暫く顔をあげなんだ位のことで、多年の困臥に相貌は全く異なり殆ど別人の観があって容易に君と想出せる訳のものでない』(子規没後の明治三十五年、日本新聞に記載された記事)
また、松山の子規堂にある「子規と野球の碑」にも写されているユニフォーム姿の子規の写真、これについては上記と同じく日本新聞紙上で大谷是空が次のような思い出話を紹介している。
『近年は子規君というと直ちに病気、気の毒という感に打たれたのであるが、以前はなかなか活発のものであった。十九年二十年の頃はベースボール狂で、真砂町の原や学校の運動場で盛んにやられたものである。僕がその頃、洋服姿で猟銃を携えて撮った小照を送ったところが君は直ちに草茫々たる原の中でシャツ一枚に半ズボンでバットを持って石に座したる処を写して返された。そしてその手紙が面白い。「君は貴公子的に芸者泣かし的に写したから、僕は平民的に親泣かし的に写した」云々とあった』(子規没後の明治三十五年、日本新聞に記載された記事)
明治44年、英国王の戴冠式に出席するため渡英した東郷は帰国前にアメリカを訪問した。そしてワシントンの墓地、アナポリス海軍兵学校、アメリカ議会などを訪れたあと、日露戦争の調停を行ったルーズベルト元大統領の別荘に向かう。二人はここで初めて対面することとなった。待ちきれずに邸内ウロウロしていたルーズベルトは、東郷が乗った車が到着すると玄関の前に駆け出して自ら出迎えたという。
邸内に入り初対面の挨拶をすませたあと、東郷は日本からの土産として武者人形の入った箱を手渡した。受け取ったルーズベルトは嬉しさのあまり客前で箱を開け始め、翌日の新聞に『あたかもクリスマスプレゼントを貰った子供のように熱心に包みを解いた』と書かれてしまうほどであった。そのあと東郷はルーズベルト夫妻と共に昼食をとり、1時間ほど日露戦争の話をした。
昼食後、ルーズベルトは部屋の奥から一振りの日本刀を持ってきて東郷に手渡した。「これは明治天皇から贈られた刀で、我が家の家宝です」。刀を受け取った東郷は姿勢を正して両手でこれを押し頂き、鞘から刀身を引き抜いた。見事な太刀であったが、手入れをしていないせいか所々で油が凝結していた。そこで、東郷は刀と一緒に送られてきた打ち粉と油で自ら手入れを行い、ルーズベルトにもその方法を丁寧に教示した。(後日談:ルーズベルトの死後、彼の遺品はほとんど博物館などに寄贈されたが、この刀だけは家宝として家に残されたといわれている)。
このあとルーズベルトは東郷らを自分の書斎に案内し、壁に飾ってある記念品を一つ一つ説明した。途中で所用のためルーズベルトが部屋を出たあと、入れ替わりに夫人が入ってきた。彼女は壁に掛けてある一枚の連隊旗を指し、「主人はこの旗について閣下に何かご説明しましたか」と東郷に尋ねた。「いえ、何も伺っておりませんが、何か由緒でもございますか?」東郷がそう答えると、「そうですか。この旗は主人が初陣で敵から奪った大隊旗で、客人が来たときはいつも自慢しているのですが、きっと閣下のような世界的な名将の前では恥ずかしくてお話しできなかったのでしょう」と、夫人が説明した。「いえ、そんなことはありません。私の微功もご主人の御勲功も、時と所こそ違うものの、国家に対する覚悟と責任に違いはありません」そう東郷が言い終えたとき、ルーズベルトが部屋に戻ってきた。彼は「余計なことを言うな」と恥ずかしそうに夫人に言った。
その後も話が尽きることはなかったのだが、東郷は午後3時頃に次の約束があったので別れを惜しみながら別荘をあとにした。この数年後にルーズベルトが亡くなるため、両者の対面はこの時が最初で最後だった。
関連項目 : 東郷平八郎の逸話
明治44年、英国王戴冠式のため渡英した乃木は、同行した東郷に「自分は今度の旅行のついでに、ロシアに行ってステッセルを訪ねてきたい。昨日の敵国も今日の友邦である。聞くところによると彼は今、逆境にあるそうで、同情に堪えない次第である」と話した。「ロシアは敗戦の屈辱を受け、特に君によって余儀なくされた旅順開城はステッセルにとっては致命傷である。君の武士道的慰問は、むしろ彼にとっては恥辱を新たにすることになるだろう」と東郷から反対されたが、それでも乃木はロシアへ行くつもりであった。しかし、やむを得ぬ事情から、結局ロシア行きを断念したという。その後も二人が再会することは無かった。
関連項目 : 乃木希典の逸話
Z旗は、船同士が通信するためにアルファベット文字や数字を表わした国際信号旗の一つ。アルファベットの「Z」を表わすほか、「曳き舟がほしい」「投網中である」ということを意味する。日本海海戦に於けるZ旗の掲揚と「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」の信号は、トラファルガー海戦でネルソンが「England
expects that every man will do his duty.(「英国は各員がその義務を果たすことを期待する」)」という意味を込めてZ旗を掲げたことに倣ったものと言われている。
太平洋戦争でも2度、Z旗が掲げられた。1回目は日本の命運を賭けた奇襲作戦、真珠湾攻撃の際に旗艦
赤城に掲揚された。2回目は劣勢を挽回するためのマリアナ沖海戦で旗艦 大鳳に掲げられたが、「マリアナの七面鳥撃ち」と呼ばれる大惨敗に終わっている。
ちなみに、2002年にNHKで放映された「プロジェクトX 運命のZ計画〜世界一売れたスポーツカー伝説」では、日産の社長が開発チームを激励するためにZ旗を送り、それによって新車が「フェアレディーZ」と命名されたというエピソードが紹介されていた。
関連項目 : ロンドン旅行の写真(トラファルガースクウェア、ネルソン墓所)
明治初期から日露戦争までは軍艦の命名規則は特になく、複数の候補のなかから明治天皇が選定していた。その後、戦艦は旧国名(大和、武蔵、長門)、空母は飛翔生物名(飛竜、翔鶴、大鳳)、巡洋戦艦と重巡洋艦は山の名前(金剛、妙高、高雄)、軽巡洋艦は川の名前(最上、大淀、天竜)、駆逐艦は気象や植物の名前(陽炎、松、雪風)と決められた。歴史上の人物名が無い理由については、明治天皇が「沈んだときに忍びないから」ということで除外したからだと言われている。上記のように命名規則が決まり始めたころ、島村速雄は知人に「最近は駆逐艦に植物の名前を付けることが多くなったが、まるで八百屋や植木屋のようだ」と語ったという。
日清、日露戦争に従軍した薩摩出身軍人の大半は、文久三年(1863年)の薩英戦争で初陣を迎えている。東郷平八郎、川村景明らは天保山砲台の守備を担当、山本権兵衛は後方で弾薬運搬などを行っていた。一方、大山巌、西郷従道、伊東祐亨、樺山資紀、黒田清隆、仁礼景範らは島津久光の発案で結成された決死隊に志願する。彼らはスイカ売りに変装して小舟で英国軍艦に近づき、敵が油断したところで軍艦に乗り込んで奪取する予定であった。伊東は大山、西郷と一緒に小舟で敵艦に近付き「スイカはいらんか」と頻りに英国人に勧めたが、相手に怪しまれて結局この計画は失敗に終わった。
津野田是重の三男 知重は、父の死をきっかけに軍人になることを決意する。これに反対した母親が是重の部下であった山下奉文(後の陸軍大将。太平洋戦争でシンガポール攻略戦を指揮し、「マレーの虎」と呼ばれた人物)に相談したのだが、山下は知重の心意気に感動して陸軍幼年学校入学を後押ししたので、かえって逆効果になってしまった。
その後、陸軍大学に進学した知重は2番の成績で卒業。1番になれなかったのは父親譲りの性格が原因だったらしい。そしてやはり父親に似て多少不作法な知重は、軍の宴会で上司の武藤章
(後の陸軍中将。太平洋戦争開戦時の軍務局長で、戦後A級戦犯として刑死)と口論をしたことがあった。その時に武藤は「閣下、コイツは父親も生意気だったそうですが、本当に生意気な奴ですな」と近くにいた東条英機に訴えたのだが、「そういうことを言うな。津野田の親父さんは俺が陸大にいたときの教官だ。それに、津野田の言うことも一理ある」と諭されてしまった。そして東条は知重に対してこう語った。「津野田、俺は陸大の教官の中でお前の親父さんが一番好きだった。いい教官だったぞ」。
それから数年後の太平洋戦争中、関東軍の参謀を務めていた知重は東条の命で帰国して大本営の参謀となった。大本営勤務で戦況の実状を知った知重は、東条内閣の方針に疑問を感じて同志と共に東条の暗殺を企てるようになる。この計画には石原莞爾(中将。関東軍参謀として満州事変を主導し、満州国建国を推進。東条対立して予備役へ編入された)も関わっていた。しかし、実行直前に東条内閣が総辞職して未遂に終わり、後に計画が発覚して知重は逮捕・免官となった。そして終戦後は実業界で活躍し、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)の設立に尽力した。
関連項目 : 津野田是重の逸話
明治27年、子規の月収は入社当時の倍の30円となった。『仰臥漫録』に「三十円になりて後やうやう一家の生計を立て得るに至れり」と記されているように、入社当時の給与では母と妹を養うことが出来ず、大原家から借金をすることも多かった。この頃の平均月収は教員の初任給が8円、新聞記者が15〜25円、大工や農作業が3〜5円であるため、子規の給与はどちらかといえば良い方であった。しかし、当時の大学卒業生の初任給が50円ということもあり、子規も「余書生たりしときは大学を卒業して少なくとも五十円の月給を取らんと思へり」と、月収50円にこだわり続けていた。最終的には日本新聞社の月収40円と「ホトトギス」の月収10円で月収五十円となっている。
ちなみに、この頃の夏目漱石の給与は、明治28年の松山中学教員で月給八十円、明治29年の熊本第五高等学校教授で月給100円。秋山兄弟は、好古(中佐)が年俸800円(月66円)、真之(中尉)が年俸600円(月50円)であった。
外部リンク(明治期の給与) : コインの散歩道 > 明治人の俸給
外部リンク(軍人達の給与) : アジア歴史資料センター > 将兵の給与
明治34年9月の正岡家の収支は『仰臥漫録』によると下記のようになっている。
○収入
新聞社の給与 四十円 + ホトトギスの収入 十円 = 五十円
○支払
油、薪 : 一円六十九銭五厘
魚 : 六円十五銭 (刺身一皿十五銭〜二十銭)
車及び使い : 三円四十五銭 (うち水汲み賃一円半)
八百屋 : 三円七十三銭一厘
牛乳 : 一円四十八銭五厘
米 : 三円
醤油、味噌、酢 : 一円五十二銭
炭 : 一円十一銭
菓子、砂糖、氷 : 一円七十八銭
現金払い飲食費 : 二円三十銭二厘 (鰻、鰌、西洋料理、佃煮など)
家賃 : 六円五十銭
支出合計 = 三十二円七十二銭三厘
ちなみにこの当時の物価は、米10kgが70〜80銭、新聞が月40〜50銭、国立大学授業料が年25〜30円である。また、当時の家賃は同じく『仰臥漫録』によると、虚子が十六円(九段上)、碧梧桐が七円五十銭(猿楽町)であった。
明治期の1円が現在の何円にあたるかということについては、消費者物価指数など基準とする物によって異なるが、米5kg2500円として明治34年1円を現在の6250円に換算すると、子規の月収(新聞社給与)は25万円、家賃40250円、光熱費26875円、食費124762円となる。
明治26年の20銭硬貨
日露戦争の頃、横須賀鎮守府は手軽で肉と野菜の両方がとれるバランスのよい食事としてカレーライスを採用した。これ以降、海軍では毎週金曜日にカレーを出すようになったのだが、これは海上勤務の中で曜日感覚を取り戻すためとも言われている。今でも海上自衛隊では金曜日のメニューはカレーになっている。当時の海軍カレーの作り方は1908年発行の「海軍割烹術参考書」に記載されているほか、「よこすか海軍カレー館」でもこのレシピに基いた元祖海軍カレーを味わう事が出来る。
また、今では人気メニューの一つとなっている「カツカレー」は、銀座の洋食店「グリルスイス」で、常連客のプロ野球選手
千葉茂が「トンカツをカレーライスの上に乗せて持ってきてくれ」と注文したことが起源と言われている。松山商業高校出身の千葉は「巨牛」という俳号をもつ俳人でもあり、
子規の指ペンとボールの胼胝(たこ)二つ
子規投げる力あまりて石出川
という俳句を詠んでいる。また、千葉は1980年に野球殿堂入りし、さらに松山の名誉市民にも選ばれた。
ちなみに、子規自身が実際にカレーを食べたことについては、明治34年9月17日の『仰臥漫録』に夕食の献立として「ライスカレー三椀」と記されている形で記録に残っている。
関連項目 : 海軍カレー 、 日本海海戦101周年祝宴
真之は幼い頃、父から次のような「桃太郎」の話を聞かされていた。
「桃太郎」即ち「百太郎」とは取りも直さず日本多数の男子と言ふことを意味せり。又「日本一の吉備団子」は就中大切の意義を含めり。其の「日本」とは日本第一に非ずして、日本一ツ即ち挙国一致の意、「吉備」は十全、「団子」は円満団結の意ありて、之を一括すれば、日本国中一ツの如く完全無欠に団結すべき心の鍵を暗示したるものにて、之れあればこそ犬猿相容れざる仲の犬と猿と雉の如きものも相提携して鬼ヶ島即ち海外に発展するを得る所以なり。(中略)之を要するに、此桃太郎の昔噺は、「日本多数の男子は故国に恋々たらず、海洋を越えて外国に渡り、箇々の名利に拘らず、挙国一致の団結を保ち、天賦の心力たる智、仁、勇を応用して、他外国人の長所利点を取来れ」との意味を含めるものなり。
真之の長男 大と親友の森山慶三郎は後に、この桃太郎の昔話で父から海軍思想を注入されたことが、海軍兵学校の入学動機であった可能性があると語っている。
ちなみに、「桃太郎伝説」といえば岡山県が有名だが、愛媛の隣 香川県にも桃太郎伝説が残されている。高松市周辺には桃太郎にちなんだ地名(鬼無、柴山、犬島、猿王、雉ヶ谷)が数多くあるほか、鬼ヶ島(女木島)もある。「鬼」というのは、この島を拠点にして付近を荒らし回っていた瀬戸内海の海賊の事であると言われている。
「坂の上の雲」では、律が真之に好意を寄せているというような描写がある(第一巻「ほととぎす」 文庫本では304〜306ページ)。その根拠と思われるのは、「ひとびとの跫音」で紹介されている土居健子さん(好古次女)の証言である。
「お律さんのそばにおりまして、ひょっとしたらお律さんは叔父真之のことを好きだったのではないかしらん、と思ったことがございます。私の感じといいますか、想像に過ぎないのですが、叔父は美男子でしたし、尊敬するお兄様の親友ですから、あるいは結ばれることを夢見ておられたかもしれませんね。」
(「ひとびとの跫音」 文庫本では62ページ)
ただ、この証言について司馬遼太郎は「健子さんにしてはやや唐突な話し方だし、私はそうとは思えない。ともかくも想像力に富んだ女学校初年級の少女の印象がこうであったということであろう」と、「坂の上の雲」での描写とは違って若干否定的な意見を述べている。
明治38年の7月26日に奉天で撮影された「二元帥六大将」の写真(右から川村、児玉、乃木、奥、大山、山県、野津、黒木)は、日露戦争関連書籍では必ずと言っていいほど掲載されている有名な写真である。この写真撮影後のエピソードを津野田是重が次のように書き残している。
『この夜は慰労の宴があり、野津、黒木、奥、乃木、川村の五大将は、そのまま残って翌朝三時まで痛飲されたとの一挿話が残っている』。
つまり、この写真の撮影後、久しぶりに一同に会した軍司令官五人は夜更けまで飲み明かしたとのことであった。
日露戦争後、大陸から帰国した兵士たちは上陸前に検疫を受けることが義務付けられていた。
まず、上陸前に甲板に集められ、一人一人健康診断を受ける。次に曳舟で「未消毒桟橋」に上陸し、そこから検疫所に入り、各自の装具、携帯品を「薬物消毒するもの」「蒸気消毒するもの」「貴重品」の三袋に分けて整列(左下写真)。そして待合室で入浴上の注意を受けた後、被服を脱いで麻袋に詰め、消毒が終わるまで入浴する(右下写真)。
兵士たちの被服は、60人分の被服を収納できる巨大な消毒缶に入れられ蒸気消毒される(左下写真)。また、銃器は銃器消毒所でホルマリン消毒、その他の貨物などはクレシン水で消毒された。こうして全ての消毒が終わったところで、兵士たちは「既消毒桟橋」から曳舟で各港に上陸できたのであった(写真右下)。
ちなみに、上陸前夜に乃木希典に叩き起こされて深酒した津野田是重は、翌日寝過して検疫に間に合わず、最後の最後に参謀長の一戸兵衛に叱られるという失態を演じている。
関連項目 : 津野田是重の逸話
明治37年2月6日、連合艦隊は仁川沖へ向かっていた。その途中で、巡洋艦「高千穂」が急に速力を落とし始め、旗艦に次のような信号が送ってきた。
『ワレクジラヲツク』
参謀の森山慶三郎は何かの間違いだと思い『クジラトハナニナルヤ』と尋ねたところ、
『クジラトハオーイナルサカナナリ』
と返電されてきたので思わず吹きだしてしまったという。実際に望遠鏡で見てみたところ、高千穂の艦首が鯨の横腹に突き刺さっている。乗員が斧で切り離そうとしたが鯨が暴れるのでなかなか近づけず、けっきょく艦を後退させることによってようやく離れることができた。この後、戦隊では戦勝の前兆だといって兵達が喜んだという。
この出来事については、当時の写真雑誌「日露戦争実記 第一編」で次のように報じられた。
○日清戦争の当時、霊鷹来て檣頭に止まりたる軍艦高千穂は、このたびも艦列を正して進行し居たる折柄、巨鯨浮かびて艦の衝角に中り、巨鯨はその腹部を中断せられ、艦は何事もなく過ぎたるが、この事また瑞祥の一として士気大いに振えりと。
ここで「日清戦争当時、霊鷹来て檣頭に止まり」と書かれているように、日清戦争中にも同様の出来事が起こっていた。黄海海戦終結後、威海衛に向け航行する高千穂のマストに止まった一羽の鷹は、二等兵曹
野元軍左衛門がマストに登って手掴みで捕え、後に神の使い「霊鷹」として明治天皇に献上された。なお、野元が鷹を捕えた瞬間は写真に撮られ、後年の書籍に掲載されている。
明治38年7月刊行の日露戦争実記第八十三編で「海軍の殊勲者 七変人の一人」と題して真之のエピソードが掲載されている。文中「近刊の俳諧雑誌ホトトギス」とあるのは、虚子の「正岡子規と秋山参謀」のことと思われる。
海軍の殊勲者 七変人の一人
東郷連合艦隊司令長官の下にありて、その良参謀として曠古の偉勲の分け前に与るべき秋山海軍中佐に付て、近刊の俳諧雑誌ホトトギスは頗る興味ある消息を伝えぬ。そは氏が大学予備門時代に於て、故正岡子規居士と相上下したる、七変人評論なるものの中にあるものにして、名誉ある今の秋山参謀も、その当時に於て変人中の一人たりしは、却々[なかなか]面白き事なり。今左に同参謀に関するくだりだけを摘録せん。
▽秋山真之の評
或曰く、伊予松山に人ありやと問はば、君は自ら我なりと答へん。大学予備門に人ありやと問はば、君は自ら我なりと答へん。其気感ずべし、其意許すべからず。才子守才愚守愚少年才子不及愚とは名言なり。兎に角、自惚するは他人より之を見れば、自惚れぬのみか却って之を悪む者なり。
見るほどに 見てくれもせぬ 踊かな
或曰く、君は学問左程博識を極めたりと言ふ能はずと雖も、侃然事務に当り之を拠理して、其当を過たず、其職務を尽くすことを得るは、同友中独り君に於て之を見るならん。(中略)動もすれば人と争論を開き、為に友誼を破るの恐あり。此等の点に至りては少しく軽躁に失するものの如し。其勉強の仕方に至りては実に感服を表せざるを得ざるなり。
或曰く、当今の書生活発ならんことを欲して軽躁に陥るもの此々是皆、子が如きも活溌と言えば活溌と言ふべし。軽躁と言えば軽躁と言ふべし。蓋し子は六の軽躁を有し四の活溌を有するものと言ふ可し。然り、而して君の如く普通の才を有するは余の未だ嘗て見ざる所なり。然れども、其才たるや大才あるにあらず、俗の「器用」なるものに過ぎざるなり。其例を言へば、浄瑠璃の真似をなし、都々逸を歌ふ類なり。子は終身一の抜手にして果てんのみ。大事をなすに至らざるものなり。
これ他の六変人中にて秋山参謀を評したるものにて、当るも面白く、当らざるまた面白き事なるが、最後の評中「終身一の抜手にして果てんのみ」は寧ろ愛嬌ありと云うべし。なお外に変人の性格を挙げたる表ありて、参謀をば(人を評するに)能く驚き能く賤しむ、(人に対して)鷹揚自ら誇るのみ、(勇気)七十、(才力)八十五、(色欲)八十、(勉強)六十、(負惜しみ)八十と評点を下したり。中佐今にしてこれを見ば莞爾として微笑を禁ずるを能はざるべし。
中学時代の子規は、後に「筆まかせ」の「演説の効能」で「余は在郷中の頃明治十五、十六年の二年は何も学問せず唯々政談演説の如きものをなして愉快としたることあり」と書いたように、政治演説に熱中していた。当時は「青年会」「談心会」という弁論部に所属し、中学の講堂(明教館)に演壇と傍聴席を作り、そこで学校教師の臨監のもとで演説会を行っていた。この頃の子規の演説草稿は「無花果草紙」に収録されている「自由何くにかある」「天将に黒塊を現はさんとす」などが残っている。明治16年1月の演説「天将に黒塊を現はさんとす」は国会開設(黒塊は"こっかい"つまり国会のこと)についての演説で、国民の期待に反する憲法が敷かれるようでは意味がないというような批判を行い、立ち会った教官から注意を受けたという。さらに演説後には子規は柳原極堂と共に隣室に呼び出され(柳原はこの日は演説をしなかったが、「平生睨まれていたので序に呼ばれたのであった」と回顧している)、臨監の教師からは、「弁論に対する政府の取り締まりは厳しく、君らは別に深く考えてもいないだろうが警察は君らにも注目している。演説は外からでも聞こえてしまうから、学校は君らを庇護することはできない。監督する学校の立場にも同情して今後は政談などせぬように注意してもらいたい」と説諭されたという。
※ドラマでは街頭での演説となっていたが、幟には「自由何クニカアル」「天将ニ黒塊ヲ現ハサントス」と実際に子規が行った演説の題名が書かれていた。 日露戦争中、皇后の夢枕に坂本龍馬が現れたというエピソードは、明治37年4月刊行の日露戦争実記 第十編でも紹介されている。このエピソードは日本海海戦直前の話と混同されることもあるが、実際は開戦直前だったようである。
(なお、文中で「坂本数馬」とあるのは入力時の打ち間違いではなく、原典通りである。夢の中の龍馬が言い間違えたのか、偽名を使ったのか、皇后が聞き間違えたのか・・・?)
国母陛下の御瑞夢
申すもいと畏きにはあれど、去る一月以来葉山御用邸にご避寒あらせられ給いたる、皇后陛下には、去る二月六日の夜と、次の夜と、二た夜同じ霊夢をみそなわせしとの、御物語を漏れ承るに、六日の夜、皇后陛下には、日露交渉急にして軈[やが]て開戦ともなりなば征途に上る諸将士の上や如何に、我海軍の戦闘力は彼に劣らずやなど、只管に思入らせ給いつつ、夜の寝殿に就せ給いたる程なく、白き衣着たる男、御前遙に畏みつくばい居て、微臣は坂本数馬と呼べる者にて候えども、この度露国と戦を開き候とも、ゆめ御心を煩わし給うが如き事あるべからず、微臣の力をもて我海軍を守り候えば、海軍の勝利疑うべくも候はず、御心安く覚えし給われかしと上聞せるを、陛下には坂本数馬とや・・・・と少時打案じさせ給うを見て、白き衣着たる男は、否とよ坂本龍馬にて候とて、掻消す如くその姿失せたり。陛下には左程にも御心に留めさせ給わず唯異様なる夢も見るものかなとのみ深く秘め給いたるに、その翌夜にもまた同じ夢をかえして見そなわせられたる事の、余りに不思議なればとて、翌日侍医を召し寄せ給いて、世にも不思議なる夢を見たり、それは斯くこそあれとの仰に、侍医はそれは勤王家として知られたる坂本龍馬の霊にもか候いつらん、これ一朝事あるの日我海軍大捷の瑞夢にて侍べりと祝き奉りたるを、天皇陛下にも恁くと聞召されて、彼の海援隊を組織せる坂本龍馬の功労今果た新たなるを覚ゆるなり。誰ぞ彼の性行の詳細を知る者あらばとの仰せを拝して、近侍の人々より田中宮内大臣こそ、同郷の縁も候えばとありければ、直に田中宮内大臣を召出させ給い、宮相より坂本龍馬の人物は斯くあれ、忠誠は斯くなん殊に薩長連合の為に、今の井上馨伯と共に、躬から鹿児島に赴きて老西郷等と交渉せる始末は、伯こそ最も委しく知り候筈に候と奉聞せしに、陛下にも御感斜ならず、去ればよと死して忠義の鬼となり、今も我海軍を護りつつあるらめ、これ瑞夢なりと仰せ給いて、井上伯爵が天機奉伺として参内せし折にも、親しく御物語あらせられたりとかや。斯くて御瑞夢の翌日には、仁川旅順の開戦に我軍の劈頭第一の大勝を奏するに至りしこそ不思議とも実に不思議なれ。
坂本龍馬
また、同年6月刊行の日露戦争写真画報告第三巻にも同様の記事が掲載されている。以下はその抜粋であるが、龍馬が近藤勇に殺されたという解説や、弥太郎が出てくるところが興味深い。(なお、文中で「阪本」とあるのも入力時の打ち間違いではなく、原文のままである)
畏き御夢
それから京都で幕府の家来で近藤勇と云う人に殺されるまで、龍馬は大層国の為に尽くしましたが、大抵船へ乗って方々を歩いて居ました。慶応二年長崎に海援隊と云う一種の海軍を拵えまして、今にも徳川幕府の天下を踏み荒らして立派な大海国にしようと思いました。日本で今郵船の先祖を岩崎弥太郎のように云いますが、それは龍馬の海軍から生まれ変わったと云ってもいいので、日本航海事業の恩人は阪本龍馬であります。
※「竜馬がゆく(八)」でもこのエピソードが紹介されている。
明治37年12月25日、従軍外国武官の宴会が開かれた。その席上、通訳官の中村が高台に立って武官たちに語り始めた。
「満場の紳士諸君、私は昨夜遅くまで読書をしておりましたので、今朝は寝坊してふと目を開くと、、部屋の隅に一人の妙な老人が立っておりました。私はそれがサンタクロースだと気付き「クリスマスおめでとうございます」と挨拶すると、サンタクロースはご機嫌でニコニコしながら、外国武官たちに差し上げてくれと言って手紙を渡されました。さて、その裏書きを見ると満州の子どもたちへと書いてあるのです。皆さんも御承知のようにここには子供などいないのでその旨を告げるとサンタは笑いながら「おやおや、お前大人のつもりかい」「はい大人ですとも」「そんなことはない。お前は赤ん坊だよ。お前はハミルトン将軍を老人だと思うかね」「もちろんです。我々の中では最年長です」「それは大間違いだ。ここにいる十七人は皆わしの可愛がっている子供達だよ」そう言うとサンタはソリに乗って北方へ走り去りました」
すると、会場からは拍手と「スパイだぞ」という笑い声が起こった。当時、武官たちの仲間内ではロシア軍を"北方"と呼んでいたからである。
そして中村はサンタから受け取ったという手紙を読み始めた。
「親愛なる子どもたちよ。私はお前たちが今年もよい子であったことを喜んでいる。だが、二人の子供が喧嘩している事を悲しく思う。来年、私が再び訪れるときは、二人が仲直りしている事を願っている」
この当時、武官の中には仲の悪い二人がいて中村はその仲裁で苦労していた。この手紙を読み上げると会場からは拍手が起こり、その後二人は仲直りすることになったという。
イアン・ハミルトンは「この演説は喝采をもって終始した。私たちは日ごろからこの誰よりも一番自己犠牲にしている中村を愛していた。彼は純真で正直な好人物だと思っていたが、日本人特有の慎みを持っていたので、我々は彼がこれほどの才気と勇気を持っているとは夢想だにしなかった」と後に回顧している。
後の連合艦隊司令長官 山本五十六も日本海海戦当時は負傷者の一人であった。彼は日進甲板で爆風により指二本を失う重傷を負っている。この時に着ていた軍服と止血に使用したハンカチは、長岡市の如是蔵博物館に展示されている。水野広徳の「此一戦」にも「高野候補生(五十六)及び下士卒数名を負傷せしめ」とその名がある。日露戦争実記 第八十五編では「日進の花」と題した五十六の人物紹介が掲載されている。
日進の花
去る五月二十七日の大海戦に名誉なる戦傷を受け、横須賀海軍病院に目下入院静養中なる、海軍少尉候補生高野五十六氏は、三十四年十二月江田島海軍兵学校に入学し、三年の苦学を経て二百有余の同期生中、優等を以て三十七年十一月無事卒業し、平時ならば遠洋航海の練習を為す筈なるも、時節は許さずじて止み、三十八年一月、軍艦日進に配乗し、以来昼夜の区別なく熱心実務の練習に従事し、夜間人の静まる時を待って、大いに砲術等を研究し、また昼間喧噪なる時は高き檣楼に昇りて自習研究せる等、乗艦日浅しと雖も大いに得る所あり。かくて、五月二十七日の海戦は、沖の島付近にて開始せられしが氏は特に推薦せられ艦長の伝令となり、防御物なき露天の最上艦橋に立ち、終始砲術長を補佐し射撃諸元素を各砲台に伝令する等、砲戦中の大困難事なるに拘わらず、最も確実に、而して勇敢沈着に動作せるを以て、軍艦日進より打出す数千の弾丸は、殆ど百発百中の好成績を挙げたり。殊に敵の陣形乱れ初めしは第一沈没せる戦闘艦「オスラビヤ」の結果にして、これぞ本艦の最初より打ち掛かりし第一の目標たり。該艦は常に我が弾煙の為に黒く覆われしため、彼より発せし暗中死に物狂いの乱射は、何の効も為さず、最早海戦の決は「オスラビヤ」の沈没に依りて定まりぬ。引き続き他艦の傾斜となり、火災となり、砲火の沈黙となり、時と共に益々不運に傾ける者、これ大いに我砲火の指揮を掌握する艦橋の伝令を確実に致す結果にして、その長時間の激戦中、終始我等の頭上を飛び越し、或いは脚辺に落下する無数の弾丸は、恰も百雷の落つるが如く天地も為に砕けん許りの猛烈惨憺たる光景を呈し、戦況いよいよ酣なりと雖も、乱射せる敵の死弾は今まで幸い我艦体に致命の大害を及ぼさざりしが夕刻に至り敵の巨弾は艦橋を破砕し、無惨にも敵方を眺むる外余念なかりし氏に負傷せしめ、左手の数指は折れ漸く皮にてぶら下がり、右脚の骨も砕けんばかりに肉の大部はずぼんと共に何れか飛去られ、滴々として流るる鮮血は艦橋に印し、傍らに立ちし艦長砲術長の征衣は、血痕を以て湿おされたり。今迄勇敢に動作せし候補生の命運も、この重傷のため如何なりゆくかを思えば感慨極まりなく、実に無言の内に暗涙潜然たりき。而も彼は自若として静かに声を揚げ、決して心配に及ばず、戦闘の終結する迄この位置を去るに忍びずと懇請せりき。
心中より発せるこの忠誠は、確かとは言え何分の重傷故、一刻も早く応急治療を受くべしと勧めしも、彼は断固として聞かざりしが、漸く艦長の勧めに応じ、担架夫に扶けられて悄然と治療室に下れり。かくて彼は軍医の懇篤なる治療に依り、今や漸次快方に赴けりと。乞うますます健在なれ。
日露戦争写真画報 第二十七巻には当時の写真も掲載されている。
<まだまだ続きます>