出身地 |
海軍兵学校 |
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生没年 |
生年不詳〜1918年 |
海軍大学校 |
− |
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最終階級 |
日露戦争時 |
漣艦長 |
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滑稽家から寡黙に盛岡中学時代の同級生は「日露戦争実記」の取材に対し、「相羽君は実に愉快な男で、滑稽家でしたよ。中々の多弁で、黙っているのは授業中と寝た間位のものです。(中略)それが変われば変わるもので、中学を廃して兵学校に入ってから性行と骨格ががらりと変わって、多弁は寡黙、軽快は真摯、泰山崩れるも動ぜず、といいそうな性行になったのです」と語った。 |
1859年〜1887年。丹波篠山藩藩主。篠山の子弟教育のため、福沢諭吉に相談し明治9年に篠山中年学舎を創設。自らは陸軍幼年学校、陸軍士官学校(旧3期)を経て数少ない華族出身将校となるが、明治20年に29歳の若さで亡くなった。
出身地 |
陸軍士官学校 |
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生没年 |
1864年〜1919年 |
陸軍大学校 |
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最終階級 |
日露戦争時 |
ロシア公使館付武官 |
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詳細情報明石のエピソード、関連資料などについては個別ページ「明石元二郎」に掲載。 |
秋山兄弟の母。松山藩士 山口久度の二女。弘化5年(1848年)に秋山久敬と結婚。若い頃から一人で万事を切りまわすだけでなく、子供達には自ら四書五経の素読を授けるなど、近所でも評判の賢夫人、賢母であったという。晩年は好古のもとで過ごし、明治38年に習志野で亡くなった。
宮内省の書画鑑定士 稲生真履の三女、秋山真之の妻。八代六太郎の橋渡しで明治36年に真之と結婚。その際、お貞からは「私の大切な真之をお前さんに差し上げるのだから」と厳粛な態度で言われたという。真之の死後は好古の庇護を受けながら5人の子供を育て上げた。
出身地 |
海軍兵学校 |
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生没年 |
1868年〜1918年 |
海軍大学校 |
− |
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最終階級 |
日露戦争時 |
第一艦隊参謀 |
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詳細情報真之のエピソード、写真、年譜、関連資料などは個別ページ「秋山真之」に掲載。 |
旗本 佐久間正節の長女、秋山好古の妻。士官学校時代に下宿していた好古とは明治26年に結婚。結婚生活の半分以上不在で万事無頓着な好古に代わり、家政の整理や子供の教育、各方面の交際など、内外に亘り家庭を支え続けた。姑自慢の嫁であったという。
秋山兄弟の父。松山藩士 秋山久徴の長男。親族間の争いを手際よく調停しするなど、寛容で衆望の厚い人物であり、後に藩の徒歩目付に抜擢された。また、漢学に長じており、維新後は県の学務係に採用された。晩年は剃髪して八十九(やそく)、天然坊と称し、明治23年に没した。
秋山真之の長男。日露戦争終結後の明治39年に生まれ、父の影響で宗教研究の道に進む。後に曹洞宗大学で学び、大倉精神文化研究所の研究部員となる。著書に「現世信仰の表現としての薬師造像」、「古代発見」などがある。「古代発見」には僅か9ページではあるが、父 真之に関するエピソードも収録されている。
出身地 |
陸軍士官学校 |
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生没年 |
1859年〜1930年 |
陸軍大学校 |
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最終階級 |
日露戦争時 |
騎兵第一旅団長 |
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詳細情報好古のエピソード、写真、年譜、関連資料などは個別ページ「秋山好古」に掲載。 |
出身地 |
海軍兵学校 |
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生没年 |
1870年〜1948年 |
海軍大学校 |
− |
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最終階級 |
日露戦争時 |
三笠砲術長 |
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敵艦のあだ名昭和10年の座談会では、「クニヤージ・スワロフが「くにおやじすわろう(故郷親父座ろう)」、アレキサンドル三世が「あきれさんた(呆れ三太)」、ボロヂノが「ぼろでろ(襤褸出ろ)」、アリョールが「ありよる(蟻寄る)」、シソイ・ベリーキが「うすいぶりき(薄いブリキ)」、オスラビヤが「おすとぴしゃ(押すとピシャ)」、アブラキシンが「あぶらふきん(油布巾)」、ドミトリ・ドンスコイが「ごみとりごんすけ(芥取権助)」、イズムルードが「みずもるぞ(水漏るぞ)」などと当時敵艦に付けた仮名を紹介し、「これが実際にもなかなか有効であったのは今考えても会心の至りである」と誇らしげに語った。この年は日露戦争30周年で、東京日日新聞と大阪毎日新聞が共催した「日露大海戦を語る」、朝日新聞主催の「日露大戦秘史 海戦編」の二つの座談会があったのだが、安保はその両方でほとんど同じことを語っている。 |
出身地 |
海軍兵学校 |
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生没年 |
1861年〜1944年 |
海軍大学校 |
− |
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最終階級 |
日露戦争時 |
第一艦隊参謀 音羽艦長 |
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閉塞作戦を語らず閉塞作戦の中心人物であった有馬は、戦後もこの作戦についてはほとんど語ることがなかった。昭和10年に新聞社主催で行われた座談会にも出席はしたが、閉塞戦の話題になると「有馬さんは言いにくいだろうから・・・・」と小笠原や山路など他の者が代わりに語っている。この座談会において、森山慶三郎は「その時は広瀬君は閉塞に反対だったと聞いた。しかし有馬さんが来て、指揮官になってくれと言うから、自分は反対だけれど「士は己を知る者の為に死す」という意気で引き受けたんだと、斯様に聞いております」と語ったが、これに対して有馬は「広瀬君には私から話しました」と言っただけで、この件についても詳細は語らなかった。 |