スペシャルドラマ「坂の上の雲」
第一回「少年の国」

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あらすじ

 開花期をむかえようとしている明治日本。主人公の一人である正岡子規(幼名 升:香川照之)が後に「春や昔十五万石の城下かな」と詠んだ伊予松山からこの物語は始まる。
 佐幕派として明治維新を迎えた松山藩は経済的に困窮しており、藩の徒士である秋山家も貧しい生活を強いられていた。三男の好古(幼名 信三郎:阿部寛)は風呂焚きの手伝いをして僅かな収入を得ながら家計を助けていたが、明治八年に無料の師範学校が出来たことを知り単身大阪に旅立つ。その後、上京した好古は陸軍士官学校を受験し第三期生として入校、騎兵科への道を進み始める。
  好古が士官学校で学んでいる頃、弟の真之(幼名 淳五郎:本木雅弘)は無許可で花火を打ち上げて警察沙汰になるほどの餓鬼大将になっていた。明治十二年、幼なじみの真之と子規は松山中学校に入学。子規は漢詩や新聞作り、自由民権運動にも熱中したが、どうもこれはというものを感じず、明治十六年には大学予備門で学ぶことを志して上京した。その数ヵ月後、両親に中退を反対されて松山に残っていた真之にも上京の機会が訪れる。東京にいる兄好古から「すぐ上京せい」と手紙が来たのだ。上京した真之は子規と共立学校で再会。新天地東京で二人の新たな生活が始まった。

キャスト


主な登場人物
秋山好古
(阿部寛)
秋山好古 日露戦争でロシアのコサック騎兵と死闘を繰り広げた日本騎兵の創始者。「無料の学校で勉強をしたい」という、ただそれだけの理由で陸軍軍人の道へと進むことになった。
秋山真之
(本木雅弘)
秋山真之 日本海海戦で連合艦隊の作戦参謀を務め、「本日天候晴朗なれども波高し」という電文を起草者した海軍軍人。この頃は幼なじみの子規と共に文学の道へ進むことを志していた。
正岡子規
(香川照之)
正岡子規 「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」の句を詠んだ俳人。後に写生主義と万葉調を主唱して近代俳句の基礎を築きあげた子規も、当時は文学を志す学生の一人にすぎなかった。
秋山久敬
(伊東四朗)
秋山久敬 秋山兄弟の父。親族間の争いを手際よく調停しするなど、寛容で衆望の厚い人物であった。また、漢学に長じており、維新後は県の学務係に採用されている。
秋山貞
(竹下景子)
秋山貞 秋山兄弟の母。若い頃から一人で万事を切りまわすだけでなく、子供達には自ら四書五経の素読を授けるなど、近所でも評判の賢夫人、賢母であったという。
正岡律
(菅野美穂)
正岡律 子規の妹。気弱な兄とは対照的で、「兄ちゃまの仇」と石を持っていじめっ子を追い回すような活発な少女であった。
正岡八重
(原田美枝子)
正岡八重 子規の母。夫の死後は実家である大原家の庇護を受けるが、家禄奉還によって得た一時金に加え、裁縫を教えて家計を補いながら幼い子規と律を育てていた。
高橋是清
(西田敏行)
後に大蔵大臣として手腕を発揮し、「ダルマ宰相」とも言われた政治家。この頃は出資者と共に再建した共立学校で教鞭をとっていた。




エピソード集

名前の由来

  秋山兄弟の父 久敬は漢学に造詣が深く、子供たちの名前は漢文の一節からとっていた。信三郎好古は孔子の論語にある一節「好古」(古くからの教えを信じ、好む)、淳五郎 真之は張衡の思玄賦にある一節「何道眞之淳粹兮」(道徳の真髄は純粋である)というように、その読みに何か古い響きを持たせようとしていたようである。
 子規の幼名「處之助」は、父の知り合いであった竹内一兵衛という藩の鉄砲指南役がつけてくれた名前だった。しかし、家族はこの名前があまり気に入らず、さらに学校に行くようになると友人から「トコロテン、トコロテン」と言われるだろうということで、「升」にかえたという。


好古の風呂焚き

  好古が家計を助けるために銭湯の風呂焚きをしていたという話については、幼馴染の平井重則が後年「その当時、私も戒田の湯屋に遊びに行き時々水を汲まされたが、一度も賃金を遣ると言われたこともなく、受け取ったこともない。無論、彼も同じと思われる。戒田のオイサンは中々如才なき人で、唆されて水を汲まされた者は他にもまだまだ数人いた」と語っている。
 一方、好古自身は亡くなる前に見舞いに来た和田昌訓(戒田の親戚)から風呂焚きの話を聞かれた際、「あの頃は実に難儀ぢゃったが、自分は子供ながらも独立独行ということを信念としていたので、ああいうことをやったのぢゃ。書物は欲しいが親に買ってもらうのも気の毒ぢゃったからのう」と当時を追懐しながら話したほか、河東碧梧桐も「兄大将はいつでも自分の青年時代の事を語って、湯屋の水汲みに雇われては僅かばかりの小遣いを貰った話をする」と真之追憶談の中で述べていることから、実際に銭湯の手伝いをして賃金をもらっていたものと思われる。


まげの升さん

 大の西洋嫌いであった大原観山は断髪をせず、孫の子規にもまげを切らせなかった。しかし明治7年末、三並良(子規の従兄弟で五友の一人)の父 歌原が、「松山城下で結髪をしている子どもは升と幸(良の幼名)ばかりになったので、世人から奇異の眼で見られている。学校などでも種々問題になっているらしい。子どもとしては極めて不快な感じがするであろう。実に可哀そうであるから、断髪を許してやりたいが如何か」と四方山話のついでに頼んだところ、観山はしばらくして「世の中はもうそんなになったか。致方ない、断髪を許してよかろう」と言ったので、子規は喜んで理髪店に駆け込んだという。

※ドラマでは大原観山の死後に断髪したように描かれているが、柳原極堂は「友人子規」の中で上記のエピソードを紹介し、何月何日かは分からないが、髷を結ったままで写真撮影した明治7年5月から大原が亡くなる明治8年4月までの間に子規が断髪したと記している。




花火で逃げた言い訳

 小説本文には書かれていないが、伝記「秋山真之」の中では花火のイタズラで捕まった真之が巡査に対しても物怖じすることなく答弁している様子が記されている。
 「私は花火を見に行っただけです」
 「見に行っていた者なら、逃げなくてもよいではないか」
 「巡査が追いかけてくるから逃げたんです」
 「逃げるのは自分がやっていたからだろう」
 「私がやっていたという証拠がありますか」
 こうして最後まで「自分がやったのではない」と言い張ったという。


士官学校の入学動機

 「坂の上の雲」では和久が士官学校入学を勧めたと書かれているが、戦前の伝記「秋山好古」にはそのようなことは書かれておらず、入学動機は当時名古屋鎮台の法務官を務めていた松山出身の山本忠彰や、陸軍志願の同郷の友人に誘われたという説が紹介されている。
 また、伝記「秋山好古」と同時期に書かれた山中峯太郎の「伝記小説将軍秋山好古」では、宮城に転勤することになった和久が「一緒に来ないか」と誘ったところ、好古は「しばらく考えさせて下さい」と言い、数日後に「陸軍に行くことにしました」と回答したと書かれている。


子規の政談演説

 中学時代の子規は、後に「筆まかせ」の「演説の効能」で「余は在郷中の頃明治十五、十六年の二年は何も学問せず唯々政談演説の如きものをなして愉快としたることあり」と書いたように、政治演説に熱中していた。当時は「青年会」「談心会」という弁論部に所属し、中学の講堂(明教館)に演壇と傍聴席を作り、そこで学校教師の臨監のもとで演説会を行っていた。この頃の子規の演説草稿は「無花果草紙」に収録されている「自由何くにかある」「天将に黒塊を現はさんとす」などが残っている。明治16年1月の演説「天将に黒塊を現はさんとす」は国会開設(黒塊は"こっかい"つまり国会のこと)についての演説で、国民の期待に反する憲法が敷かれるようでは意味がないというような批判を行い、立ち会った教官から注意を受けたという。さらに演説後には子規は柳原極堂と共に隣室に呼び出され(柳原はこの日は演説をしなかったが、「平生睨まれていたので序に呼ばれたのであった」と回顧している)、臨監の教師からは、「弁論に対する政府の取り締まりは厳しく、君らは別に深く考えてもいないだろうが警察は君らにも注目している。演説は外からでも聞こえてしまうから、学校は君らを庇護することはできない。監督する学校の立場にも同情して今後は政談などせぬように注意してもらいたい」と説諭されたという。

※ドラマでは街頭での演説となっていたが、幟には「自由何クニカアル」「天将ニ黒塊ヲ現ハサントス」と実際に子規が行った演説の題名が書かれていた。



子供達のケンカ

 伝記「秋山真之」および評伝「友人子規」共に、真之と子規の少年時代には"士族"の子供達の集団と"町人"の子供たちの集団とで常に対立していて、頻繁に喧嘩をしていたと記されている。「その頃の喧嘩は石投げや、竹切れ木切れなどを手に手に持って突貫したりする喧嘩様式だった。その士族の方の餓鬼大将が真之将軍で、櫻井真清少将などは年少でその部下だった。そんなことからよく相手の子どもを泣かしたし、その度毎に相手の子どもの親たちから抗議を持ち込まれ、いつも貞子刀自がお詫びをしなければならなかった」という真之に対し、子規の場合は「八軒長屋の子供達(町人)もやって来て忽ち衝突し、相撲で勝負を決することとなったが、子規は尻ごみして手を出さない。(中略)子規は斯かる場合に相撲を取るとか喧嘩の相手になるとか云うような元気は少しも出さなかった。友人仲間では彼を青瓢箪と呼んでいた」という状態であった。






明治日本の写真

明治16年頃の日本橋
子規と真之が上京した明治16年頃の日本橋。橋の上を鉄道馬車が走っている。


明治初期の横浜
明治初期の横浜の風景。



軍艦「筑紫」

第一話ゆかりの地

  松山市  : 秋山兄弟や正岡子規の生家など、主人公ゆかりの地が多数。
  飛鳥山  : 好古の士官学校入学試験で、作文の題材として出てきた場所。
  共立学校 : 上京した子規と真之が入学し、高橋是清から英語を学んだ学校。
  撮影見学 : 第一話で登場する軍艦筑紫の撮影現場の見学レポートを掲載。