スペシャルドラマ「坂の上の雲」
第二回「青雲」

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あらすじ

 真之(本木雅弘)と子規(香川照之)が上京して1年経った明治17年、二人は大学予備門を受験し合格。秋に神田猿楽町での同居を始めた二人は大学では後の文豪 夏目漱石(小澤征悦)らと知り合い、共に勉学に励んでいた。
 翌18年、好古(阿部寛)が在籍する陸軍大学校に、児玉源太郎(高橋秀樹)がドイツ軍人メッケル少佐を教官として連れてきた。好古や児玉がメッケルから学んだ実戦的なプロイセン式の戦術は、後年の日露戦争に於ける勝利の一大要因となるものであった。
 この頃、子規は覚えたばかりの野球や俳句などに熱中。坪内逍遥の著書などを読みあさり、自らも文学の道へ進む事を決意する。一方、自分の進路に悩んでいた真之は、兄の学資援助を受けずに済む海軍兵学校に進むことを決意。19年に東京大学予備門を退学し、築地の海軍兵学校に入学した。ここで真之は、日露戦争で海軍の軍神となる広瀬武夫(藤本隆宏)と出会うこととなる。
 明治20年、好古は旧松山藩主に同行しフランスの士官学校へ自費留学し、西洋の騎兵戦術を学び始める。23年には官費留学に切り替えられ、日本の騎兵創設を任される身となった。
 騎兵の好古、海軍の真之、文学の子規、3人はそれぞれの将来に向けて第一歩を踏み出した。

キャスト


主な登場人物
秋山好古
(阿部寛)
秋山好古 陸軍大学一期生としてエリートコースを進み始めた好古は、卒業後に旧藩主の供としてフランスに留学プロイセン式が主流となっていく陸軍の流れとは外れかけるが、西欧の騎兵戦術を学んでいく。
秋山真之
(本木雅弘)
秋山真之 子規と共に文学への道を進み始めた真之であったが、進路に悩み、ついには海軍兵学校への入学を決意。後に知略と文才とを兼ね備えた名参謀となる真之の海軍生活がここから始まった。
正岡子規
(香川照之)
正岡子規 文学の道に進むことを決意した子規。学校では覚えたばかりの「ベースボール」に熱中し、自らの幼名「升(のぼる)」の音を当てた「野球(の・ボール)」という雅号を用いるほどであった。
秋山久敬
(伊東四朗)
秋山久敬  
秋山貞
(竹下景子)
秋山貞  
正岡律
(菅野美穂)
正岡律  
正岡八重
(原田美枝子)
正岡八重  
児玉源太郎
(高橋英樹)
 
夏目漱石
(小澤征悦)
 
広瀬武夫
(藤本隆宏)
 




エピソード集


兵学校の入学動機

  真之の兵学校入学動機は諸説あり、はっきりしたことは分かっていない。戦前の真之の伝記「秋山真之」では次のような関係者の証言を掲載している。

 ある日、僕が正岡を訪ねると秋山が居ない。「秋山はどうしたのか」とたづねると、「秋山は方針を変えた。年々学生がどんどん殖えていくのを見て、−きっと将来は大学出があふれるだろう。そうなると我々も悲観せざるを得ん−といって海軍兵学校に行った」と正岡は言った。

<柳原極堂の回想>



 兄の好古将軍に学資の迷惑をかけたくないという考えもあったであろうが、好古大将が「自分は陸軍だし、海軍は比較的志望者も少なかったので、弟は海軍の軍人にした方が宜しい」というので兵学校に入る事になったということである。

<真之の兄嫁にあたる岡しん子の回想>



 また、好古の伝記「秋山好古」でも同様の記述があるが、真之が海軍行きに積極的ではなかったというような記述がみられる。

 種々の状況より推すに、結局学資の問題ではなかったかと察せられる。もし最初から海軍志望であったなら、氏の秀才を以てして、空しく一年を予備門に費やす必要はなかった筈である。当時真之氏は海軍に入る事をあまり好んでいなかったという話もある。



  一方、真之の長男 大と、兵学校での同期生である森山慶三郎は、好古の勧めの他に、真之が父久敬から聞かされたこの「桃太郎」の昔話の影響もあったのではないかと語っている。

「桃太郎」即ち「百太郎」とは取りも直さず日本多数の男子と言ふことを意味せり。又「日本一の吉備団子」は就中大切の意義を含めり。其の「日本」とは日本第一に非ずして、日本一ツ即ち挙国一致の意、「吉備」は十全、「団子」は円満団結の意ありて、之を一括すれば、日本国中一ツの如く完全無欠に団結すべき心の鍵を暗示したるものにて、之れあればこそ犬猿相容れざる仲の犬と猿と雉の如きものも相提携して鬼ヶ島即ち海外に発展するを得る所以なり。(中略)之を要するに、此桃太郎の昔噺は、「日本多数の男子は故国に恋々たらず、海洋を越えて外国に渡り、箇々の名利に拘らず、挙国一致の団結を保ち、天賦の心力たる智、仁、勇を応用して、他外国人の長所利点を取来れ」との意味を含めるものなり。

『黒船初めて江戸湾に来るの図に題す』より



 父は初め学問を志して大学の予備門に入ったが、中途で伯父の指示に任せ、海軍軍人となったのであって、決して国許に於いて水軍の兵法伝書を受け継いだのでもなかった。ただ漠然と、自然と祖父から聞かされた昔話通にその生涯を通して来たのであった。しかし私には、何だかそのほうが、切っても切れない故郷の魂のつながりだったような気がする。

<秋山大「古代発見」より>


 秋山が予備門を中途退学して、兵学校に入るようになったのは、兄秋山好古将軍の勧誘に基づくと云われる。
 しかしまた、彼の厳父もまた幼少時、海軍思想を注入したと秋山自らが記入している。それによると、桃太郎の鬼ヶ島征伐に対して、厳父は、特殊の解釈をつけて、秋山に吹き込んでいる。
 秋山は余程、この教訓に動かされたと信ずべき理由がある。惟うに彼が海軍を志したのは、兄好古将軍のすすめと、厳父によって植え付けられたこういう海事思想の発芽の結果ではなかったろうか。(中略)五十年の後、米国と日本とその位置をかえんと期したる遠大な企画も鬼ヶ島物語から出発していると思うと、一層興味深い。

<「秋山真之将軍 世界的偉人」に収録されている森山の回顧談>








関ヶ原は西軍の勝利

 陸軍大学校勤務中に関ヶ原の合戦に於ける東西両軍の布陣図を見せられたメッケルは、東軍を取り囲むように鶴翼の陣を敷いている西軍の勝利と判定した。しかし、後で味方部隊の裏切りによって西軍が敗北したことを知らされ驚いていたという。

※個人的なことですが、このエピソードを知ったのは「坂の上の雲」を読むずっと前、中学〜高校生の頃に将棋かチェスの本で読んだことがあるような気がします。たしか、持ち駒を使える将棋と使えないチェスの違いの話の中で、日本の戦国時代では降伏させて敵兵を味方にすることがよくあるとかいうような話になり、その一例でこのエピソードが出てきたような気がします。出典が思い出せなくて気になっているので、御存じの方がいたら教えてください。



秋山兄弟と子規が同居

 子規は「筆まかせ」の「下宿がへ」の中で、学生時代の転居について次のように記している。

明治十六年に出京して日本橋区に住し、一箇月許りにて赤坂区に転じ、又二箇月余にて日本橋に帰り、一箇月を経て神田区に移る。翌十七年牛込に転じ、秋再び神田に来り、十八年夏帰省し、再び出京して麹町区にあること二三日、又もや神田の下宿(前のと同じ処)に至り(以下省略)』


 柳原極堂は後年、俳誌「鶏頭」に掲載した回顧談の中でこの子規の下宿について詳細に述べているのだが、「再び出京して麹町区にあること二三日」が何所なのかということについては「記憶が漠然としてまとまらぬ」とのことで断定はできていない。唯一覚えているのは、子規と共に好古、真之兄弟が同居している家を訪れたことであった。


明治十八年の夏休帰省から板垣に子規が帰ってきたと聞いて、或朝予は訪問した。如何なる話の後であったか覚えぬが、二人で麹町に秋山真之氏の宅− その兄の陸軍騎兵秋山好古氏の宅 − をたづねたが、その町名は今覚えていない。秋山の近所に何とか教会と称する基督教の会堂があったことと、同教の牧師として名の知られていた小崎弘道という人の住宅があったことは記憶に存している。(中略) 雇い婆さんらしいのが出て来て何か言っていたが、子規はすぐ客室に通った。予もついて上った。真之氏も主人の好古氏も折から不在なのであった。兎角するうちに正午になり、雇婆さんのすすむるままに午飯の馳走になって、我々は神田に帰ってきた。


 漠然と覚えているのはこれだけなのだが、柳原はある疑問を抱いていた。主人が不在なのに容赦なく客室に上がり込んだのは何故なのか?主人のいいつけで無いのにも関わらず雇婆さんが二人に昼食を勧め、二人も留守宅で昼食を御馳走になって平然としていたのは何故なのか? 当時は理由が分かっていたから何の疑問も持たなかったが、記憶が漠然としてきたためなかなか思い出せない。そこで、最終的に柳原は次のような仮説を述べている。

子規と秋山は大学予備門で同級でありしのみならず、同郷の小学校時代からの親友である。此夏両人ながら郷里に帰り、折々出会ったことであろう。何かの話の順から今度東京に帰ったら秋山の宅に同宿し、倶ども勉学しようではないかと云うような事になって、相携えて再び出京し、子規は其の約束通り秋山の宅に入ったが、どうも不便なことが多くて其儘居つづくことが出来ず、秋山の諒解を求めて元の下宿板垣方へ引移ったのではなかろうか、其の二三日のなじみで雇婆さんとも懇意になりしため、主人が不在にも拘わらず奥にも通し午飯も饗したのではなかったろうか。これは固より憶測である


 柳原の説が正しいとすれば、子規と秋山兄弟、つまり「坂の上の雲」の主人公3人は数日とはいえ同居していたということになる。ちなみに、この前後に神田で子規と同居していた山内正至も一時期麹町で秋山兄弟と同宿していたのだが、伝記「秋山好古」によると、『内山氏は粗食に耐えきらずしてついに逃げ出し、次に寄食していた山内正至という同郷の後輩も亦逃げ出し、後には兄弟二人となったが、一つの茶碗で兄弟が代わり合うて飯を食ったという話さえある』との記述があることから、もしかしたら「どうも不便なことが多くて其儘居つづくことが出来ず」というのは、食いしん坊の子規も秋山兄弟の粗食生活に耐え切れなくて逃げ出したということかもしれない。そう考えると、非常に興味深いエピソードである。
 また、別の可能性としては、上記の「雇婆さん」は秋山兄弟が松山にいた頃から秋山家で奉公していた「お熊婆さん」であり、松山時代からの顔馴染である子規に昼食を御馳走したということも考えられる。同居生活の有無は定かではないが、「坂の上の雲」に描かれているように子規が秋山兄弟宅を訪れて3人で食事をしていた事も何度かあったのだと思われる。


※小崎弘道は東京キリスト教青年会 (YMCA)の創設者。明治19年に秋山兄弟宅近くの麹町区番町に教会を建てている。柳原が秋山宅を訪問した当時はまだ教会はまだ無かったのだが、その翌年に再訪した際に建っていた教会が印象に残っていのであろう。




日露戦争実記に七変人

 明治38年7月刊行の日露戦争実記第八十三編で「海軍の殊勲者 七変人の一人」と題して真之のエピソードが掲載されている。文中「近刊の俳諧雑誌ホトトギス」とあるのは、虚子の「正岡子規と秋山参謀」のことと思われる。

海軍の殊勲者 七変人の一人

 東郷連合艦隊司令長官の下にありて、その良参謀として曠古の偉勲の分け前に与るべき秋山海軍中佐に付て、近刊の俳諧雑誌ホトトギスは頗る興味ある消息を伝えぬ。そは氏が大学予備門時代に於て、故正岡子規居士と相上下したる、七変人評論なるものの中にあるものにして、名誉ある今の秋山参謀も、その当時に於て変人中の一人たりしは、却々
[なかなか]面白き事なり。今左に同参謀に関するくだりだけを摘録せん。

▽秋山真之の評

 或曰く、伊予松山に人ありやと問はば、君は自ら我なりと答へん。大学予備門に人ありやと問はば、君は自ら我なりと答へん。其気感ずべし、其意許すべからず。才子守才愚守愚少年才子不及愚とは名言なり。兎に角、自惚するは他人より之を見れば、自惚れぬのみか却って之を悪む者なり。

   見るほどに 見てくれもせぬ 踊かな

 或曰く、君は学問左程博識を極めたりと言ふ能はずと雖も、侃然事務に当り之を拠理して、其当を過たず、其職務を尽くすことを得るは、同友中独り君に於て之を見るならん。(中略)動もすれば人と争論を開き、為に友誼を破るの恐あり。此等の点に至りては少しく軽躁に失するものの如し。其勉強の仕方に至りては実に感服を表せざるを得ざるなり。
 或曰く、当今の書生活発ならんことを欲して軽躁に陥るもの此々是皆、子が如きも活溌と言えば活溌と言ふべし。軽躁と言えば軽躁と言ふべし。蓋し子は六の軽躁を有し四の活溌を有するものと言ふ可し。然り、而して君の如く普通の才を有するは余の未だ嘗て見ざる所なり。然れども、其才たるや大才あるにあらず、俗の「器用」なるものに過ぎざるなり。其例を言へば、浄瑠璃の真似をなし、都々逸を歌ふ類なり。子は終身一の抜手にして果てんのみ。大事をなすに至らざるものなり。

 これ他の六変人中にて秋山参謀を評したるものにて、当るも面白く、当らざるまた面白き事なるが、最後の評中「終身一の抜手にして果てんのみ」は寧ろ愛嬌ありと云うべし。なお外に変人の性格を挙げたる表ありて、参謀をば(人を評するに)能く驚き能く賤しむ、(人に対して)鷹揚自ら誇るのみ、(勇気)七十、(才力)八十五、(色欲)八十、(勉強)六十、(負惜しみ)八十と評点を下したり。中佐今にしてこれを見ば莞爾として微笑を禁ずるを能はざるべし。






明治日本の写真

(準備中)

第一話ゆかりの地

  猿楽町  : 真之と子規が学生時代に同居していた下宿のあったところ。
  海軍兵学校跡  : 真之が入学したころに築地にあった海軍兵学校の跡地。
  江田島  : 現在は海上自衛隊の学校となっている旧海軍兵学校の校舎。