1 あらすじ
2 時代背景
2.1 明治史
3 用語、解説
1 あらすじ
好古が士官学校に入学したころ、弟の真之(幼名 淳五郎)は勝山小学校で学んでいた。「秋山の淳ほど悪いやつはいない」と評判の餓鬼大将であった。十二、三歳の頃には無許可で花火を打ち上げて警察沙汰になり、母が短刀を突き付けて叱ったほどである。一方、真之の友人
正岡子規(幼名 升)は「升ほど臆病な児もない」と言われ、能の太鼓やつづみの音で泣き出すなど何かにつけて怖がっていた。後に生涯文学をやろうと誓い合う二人はそんな対照的な少年時代を過ごしていた。
明治十二年、松山中学校に入学した子規は漢詩や新聞作り、自由民権運動に熱中した。しかし、どうもこれはというものを感じず、中学を中退して東京の大学予備門で学びたいと思うようになってくる。明治十六年六月、子規は叔父
加藤恒忠の勧めで上京。ここで終生の恩人となる陸羯南と出会うことになる。
その数ヵ月後、両親に中退を反対されて松山に残っていた真之にも上京の機会が訪れる。東京にいる兄
好古から「すぐ上京せい」と手紙が来たのだ。真之と子規、二人の少年は新天地東京で新たな人生のスタートラインに立った。
2 時代背景
2.1 明治史
・当時の学校制度
明治5年、政府はフランスの教育制度を採用し、学校制度の原型となる「学制」を発布した。学制施行により翌年には全国に13000校の小学校が設けられたのだが、その大半は子規が通った末広小学校のように寺や漢学塾、藩校など以前からある建物が使われていた。就学率も急増し、好古が教師となり、真之と子規が勝山小学校に入学した明治8年には男児就学率は50%、女児就学率は20%となった。しかし、農村部では労働力の担い手でもあった子供の就学には反発も多く明治12年には修業年限を緩和した教育令が新たに公布された。
(明治14年頃の学校体系)
・自由民権運動
(準備中)
3 用語、解説
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78ページ
秋山真之
智謀湧くがごとし
「智謀如湧」は東郷平八郎による献辞と言われているが、昭和6年に伝記「秋山真之将軍 世界的偉人」を出版した松田秀太郎は、「小笠原長生の発案をそのまま書いただけ」とあとがきに記している。
東郷平八郎
81ページ
戒田湯へ行き
戦前の伝記「秋山真之」では、「近所の親戚の湯殿」とされている。
河東碧梧桐
秋山の凧
碧梧桐は追憶談「嗚呼秋山中将」の中で、 『我輩等の幼い頃に誰にでも好かれた絵凧があった。頼光でも弁慶でも、達磨でも、皆それぞれの人らしくてそれに色が違っていた。事実であるか否かは知らないが、当時その絵凧は秋山のお父さんがお書きになるのだ、と言い伝えられて、我輩などは秋山の凧といっては親たちにせがんだものだった。』と述べている。
82ページ
大学予備門
外国の文献を研究する機関であった蕃書調所が後に開成所と改名され、明治維新後に開成学校、さらに大学南校、東京開成学校と改称。明治10年、東京開成学校の本科が東京医学校と統合され、旧制東京大学となる。また、東京開成学校の予科(普通科)は東京英語学校と統合され「東京大学予備門」となった。
末広学校
当初は居の古字で「すえる」という意義の「」という字を用いた「廣学校」という札が門柱に掲げられていたが、普通の人には読めず物議が起きたために「末廣学校」に書き改められたという。
柳原極堂
子規にもまげを切らさず
明治7年末、三並良(子規の従兄弟で五友の一人)の父 歌原が、「松山城下で結髪をしている子どもは升と幸(良の幼名)ばかりになったので、世人から奇異の眼で見られている。学校などでも種々問題になっているらしい。子どもとしては極めて不快な感じがするであろう。実に可哀そうであるから、断髪を許してやりたいが如何か」と四方山話のついでに頼んだところ、観山はしばらくして「世の中はもうそんなになったか。致方ない、断髪を許してよかろう」と言ったので、子規は喜んで理髪店に駆け込んだという。
大原観山
86ページ
土屋久明
桜井真清
真之は逃げた
小説本文には書かれていないが、伝記「秋山真之」の中では花火のイタズラで捕まった真之が巡査に対しても物怖じすることなく答弁している様子が記されている。
「私は花火を見に行っただけです」
「見に行っていた者なら、逃げなくてもよいではないか」
「巡査が追いかけてくるから逃げたんです」
「逃げるのは自分がやっていたからだろう」
「私がやっていたという証拠がありますか」
こうして最後まで「自分がやったのではない」と言い張ったという。
町方の子と集団でけんか
伝記「秋山真之」および評伝「友人子規」共に、真之と子規の少年時代には"士族"の子供達の集団と"町人"の子供たちの集団とで常に対立していて、頻繁に喧嘩をしていたと記されている。
「その頃の喧嘩は石投げや、竹切れ木切れなどを手に手に持って突貫したりする喧嘩様式だった。その士族の方の餓鬼大将が真之将軍で、櫻井真清少将などは年少でその部下だった。そんなことからよく相手の子どもを泣かしたし、その度毎に相手の子どもの親たちから抗議を持ち込まれ、いつも貞子刀自がお詫びをしなければならなかった」
という真之に対し、子規の場合は
「八軒長屋の子供達(町人)もやって来て忽ち衝突し、相撲で勝負を決することとなったが、子規は尻ごみして手を出さない。(中略)子規は斯かる場合に相撲を取るとか喧嘩の相手になるとか云うような元気は少しも出さなかった。友人仲間では彼を青瓢箪と呼んでいた」
という状態であった。
八重
90ページ
隼太
91ページ
鴨川正幸
95ページ
松山中学校に入った
本文中では明治十二年入学となっているが、柳原極堂が子規の同級生である西原武雄に問い合わせたところ、明治十三年入学との証言を得ている。子規全集やホトトギスの年譜でも明治十二年入学となっているが、柳原が回想録を記す際に問い合わせた昭和初期の段階では、全集編纂者、ホトトギス発行所ともにどのような資料をもとに明治十二年と断定したのかは既に分からなくなっていたという。
96ページ
岩村高俊
草間時福
愛媛県変則中学校
この校名に就いては「これは英語を変則で教え、訳読を主としたためである」と誤解していた人も多かったといわれている。
98ページ
近藤元弘
三輪淑載
99ページ
先生にあだな
「うめぼし」「アンコロ」などの当時のあだなの出典は柳原極堂の「友人子規」。子規の同窓である西原武雄が柳原に送った手紙の中に書かれている。