1 あらすじ
2 時代背景
2.1 明治史
2.2 陸軍史
3 用語、解説
1 あらすじ
開花期をむかえようとしている明治日本。後に正岡子規が「春や昔十五万石の城下かな」と詠んだ伊予松山、秋山好古はこの町の徒士の三男として生まれた。好古が十歳の時、明治維新がおこり、佐幕派であった松山藩は朝廷への償金支払いにより財政難に陥っていた。秋山家も経済的に困窮したため、好古は風呂焚きの手伝いをして僅かな収入を得ながら家計を助けていた。
明治八年、無料の師範学校が出来たことを知った好古は、大阪に行き受験年齢に達するまで小学校教員として働き始めた。その後、受験年限前に師範学校を受験し合格。僅か一年で卒業した好古は同郷の和久正辰の誘いを受けて愛知県立師範学校に赴任した。
その二年後、好古は和久の勧めで、官費で学ぶことのできる陸軍士官学校を受験する。丹波篠山藩の本郷房太郎と共に第三期生として入校した好古は、騎兵科に進むことを決意した。後に日露戦争でコサック騎兵と死闘を繰り広げる「騎兵の秋山」の第一歩はここから始まった。
2 時代背景
2.1 明治史
・武士階級の解体
明治維新後、旧来の武士階級である「士族」は、廃刀令や秩禄処分によって既得特権を失っていった。失業した士族の中には官吏や軍人、教員になる者もいたが、一時金を元に慣れない商売に手を出して失敗する「士族の商法」で生活が困窮する者も多かった。こうした中で新政府の政策に不満を持つ「不平士族」が各地で蜂起。士族の反乱は佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、さらに西南戦争と続いたが、徴兵令によって組織された政府軍によって鎮圧されていった。
・藩閥政治
明治新政府では、倒幕の中心となった薩摩藩、長州藩の出身者が政府の要職を占めていた。陸海軍でも閥族が形成され、陸軍では山県有朋、寺内正毅、桂太郎ら長州藩出身者が、海軍では西郷従道、伊東祐亨、山本権兵衛ら薩摩藩出身者が勢力を拡大していた。明治7年頃からこうした藩閥政治を批判する自由民権運動が盛んになっていく。
2.2 陸軍史
・鎮台
明治初期の日本陸軍の編成単に。この頃の役割は外征よりも国内の治安維持であった。鎮台は東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本に設置され、戦時には機動性のある「旅団」単位で行動していた。明治21年に師団制へ改組されるとともに廃止された。
・西南戦争と日本陸軍
明治10年に起きた最大の士族反乱「西南戦争」では、農民、町人などによって組織された政府軍が専門的軍事集団であった武士階級の士族軍を破ったことで、徴兵制に基づいた近代日本陸軍の仕組みが確立されていった。しかし、この戦争で士気の低さという欠点が露呈したため、天皇を中心とし精神教育を重視する軍隊になっていく。
ちなみに、西南戦争では後に日清・日露戦争ので揮官として活躍する軍人が多数出征している。
政府軍は有栖川宮熾仁親王を総督とし、山県有朋、川村純義を参軍に任命。当時陸軍省の文官であった福島安正は総督府の書記として従軍している。
激戦地となった熊本城には、参謀長樺山資紀、参謀川上操六、児玉源太郎、大隊長奥保鞏、小川又次らが熊本鎮台司令官の谷干城と共に熊本城に籠城。同じく熊本鎮台に所属していた乃木希典は、連隊を率いて熊本城救援に向かう途中で薩軍と遭遇戦となり、軍旗を奪われている。
熊本鎮台幹部集合写真。前列右から二人目が樺山資紀参謀長、三人目が谷干城司令官。
後列右端が川上操六(参謀)、中央が児玉源太郎(参謀)、左端が小川又次(第三大隊長)。
明治初年の軍装。前列右端は児玉源太郎。
熊本城の救援に向かった政府軍では、大山巌が第二旅団長、野津道貫が参謀長として指揮を執っていた他、一戸兵衛、川村景明、梅沢道治らが従軍している。また、黒木為驍ヘ黒田清隆の配下で八代方面に上陸する衝背軍を指揮し、立見尚文は選抜攻撃隊の指揮官として城山正面の攻撃を担当している。寺内正毅は田原坂で右腕を負傷したことがきっかけで戦後は軍政方面に進むこととなった。
負傷した寺内正毅(左から二人目)を見舞う明治天皇(左から三人目)、木戸孝允(左から四人目)
関連項目(1) : 「翔ぶが如く」×「坂の上の雲」 〜人物編〜
関連項目(2) : 「翔ぶが如く」×「坂の上の雲」 〜西南戦争編〜
3 用語、解説
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7ページ
松山城
8ページ
正岡子規
春や昔十五万石の城下かな
現在、JR松山駅前に句碑が建てられている ( 子規の句碑 )
石川啄木
秋山好古
徒士
徒歩で戦う下級武士。近代軍制に例えると、乗馬資格のある侍が将校(少尉〜大将)、徒士は下士官(曹長、軍曹、伍長)である。
十石
一石は人間一人が一年間に食べる米の量で、約150kg。秋山家の家禄は十石なので、年収は米1500kg。この他に久敬の徒士目付としての役職加俸があった。
9ページ
久松家
徳川家康の異父弟 久松定勝を祖とする。明治維新後、勅命により姓を「松平」から「久松」に戻している。NHK「その時、歴史が動いた」の司会を務めていた松平定知氏も久松松平家の傍流である(満州生まれ、東京育ちだが、本籍は松山とのこと)。
長州征伐
「禁門の変」で長州兵が内裏に向けて発砲したことを理由に、幕府は1864年に15万の幕府軍を長州に向けて進軍させた。これに対し、長州藩は家老の切腹などを条件に幕府軍に恭順した(第一次長州征討)。
翌年、高杉晋作らがクーデターで藩の実権を握ると、幕府は再び長州征討を実施した。この時、松山藩は幕府軍と共に大島を占領するが、幕府海軍が高杉の奇襲で敗走すると大島は再び長州軍に奪還されてしまった。また、下関口では小笠原長生の父
長行が幕府軍の指揮を執っていたが、高杉が指揮する長州軍に敗れて戦線離脱している(第二次長州征討)。
松山藩
関ヶ原の戦いの戦功により加藤嘉明が20万石で立藩。1602年より松山城の築城に着手し、翌年から「松山」という地名が公式に使われ始める。その後、蒲生家を経て1635年に松平定行が15万石で入封し、明治まで続く。
フランスから故郷に出した手紙
「又前述の事変の際、長州人が僅かに一艘ほかなき蒸気船を奪い取り帰りたりたり又土州人が来りて土州下陣など云ふ札を門戸に張り付けたることなどあって好古も当時幼少ながら其の実況を目撃して今日尚切歯に堪へざることに候」
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道後
小笠原唯八
三津浜
現在は松山港の一部で、フェリーの発着所になっている。1600年、関ヶ原へ出陣した加藤嘉明の留守を狙って毛利家の村上水軍と旧領主 河野家の旧臣が三津浜に上陸するが、加藤勢の逆襲に遭い大敗している。
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平五郎、お貞
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明教館
第11代藩主 定通が1828年に創立した藩校。現在、建物は愛媛県立松山東高等学校の敷地内に移築されている。資料館には真之や碧梧桐の書簡などが展示されている。高校の敷地内であるため、見学は予約制。
銭湯の風呂焚き
戒田のオイサン
戒田直澄。「秋山兄弟生誕地」の2007年4月27日の記事には、秋山好古の子孫と戒田のオイサンの子孫が対面したときの様子が紹介されている。
13ページ
天保銭
江戸時代末期から明治にかけての日本で流通した「天保通宝」。貨幣価値は100文であったが、実際に使われている銅の重量が8〜10文分しかない粗悪な貨幣であったため、偽造貨幣も多かった。明治期も流通したが貨幣価値が低いため、時代遅れの人を「天保銭」と呼ぶことがあった。また、陸軍大学校卒業生の卒業徽章が天保通宝に似ている事から、陸大出身者は「天保銭組」とも呼ばれていた。
17ページ
池内信夫
高浜虚子
23ページ
近藤元粋
25ページ
西四辻公業
29ページ
税所篤
31ページ
野田小学校
大正8年頃、大阪地方で行われた陸軍の大演習に参加した好古は、部下に「昔俺が務めた学校はこのあたりだよ」と感慨深げに語ったという。
41ページ
師範学校の入学資格
当時は本人の申告以外に年齢を証明する物が無かったため、年齢規定はほとんど有名無実の状態であった。好古が入学した時の師範学校生徒は年長者が多く、中には三十代、四十代の者も居たという。好古は最年少者の一人であったと言われている。
43ページ
成績はさほどによくはなく、いつも中程度
好古の1年後に入学した鴨川正幸は後に「秋山君は師範学校では中位の成績で、特に傑出したという点は見なかったが、多くの年長者の間に伍しながら、堂々として少しも引けを取らない態度を持していた。それが何時も要領を得たような得ないような、茫漠としている中に、何となく大きなところがあった」と語っている。
大阪師範学校時代の好古(右)と、鴨川正幸(左)
コサック
「群を離れた者」という意味で、ロシアやウクライナを拠点としていた自治集団、軍事的共同体。日露戦争では「ドン・コサック騎兵団」と 「ザバイカル・コサック騎兵団」が従軍しているが、「ドン・コサック」はドン川周辺を拠点とし、「ザバイカル・コサック」はバイカル湖東側を拠点とした集団である。
46ページ
和久正辰
50ページ
耳寄りな話がある
「坂の上の雲」では和久が士官学校入学を勧めたと書かれているが、戦前の伝記「秋山好古」にはそのようなことは書かれておらず、入学動機は当時名古屋鎮台の法務官を務めていた松山出身の山本忠彰や、陸軍志願の同郷の友人に誘われたという説が紹介されている。
また、伝記「秋山好古」と同時期に書かれた山中峯太郎の「伝記小説将軍秋山好古」では、宮城に転勤することになった和久が「一緒に来ないか」と誘ったところ、好古は「しばらく考えさせて下さい」と言い、数日後に「陸軍に行くことにしました」と回答したと書かれている。
52ページ
一期生
陸軍士官学校では、陸軍幼年学校及び旧制中学校出身者からなる「士官候補生」制度となった1889年入校生から「1期生」とし、それ以前は「旧1期〜旧12期」とされた。そのため、ここで言う士官学校一期生(明治8年入校)とは「旧一期生」を指す。( 陸軍士官学校卒業生一覧 )
二期生
上記同様、「旧二期生」を指す。( 陸軍士官学校卒業生一覧 )
53ページ
三期生
「旧三期生」。( 陸軍士官学校卒業生一覧 )
54ページ
陸軍士官学校
明治元年、「兵学校」として京都に創設され、二年後に大阪に移転して「兵学寮」と改称、さらに明治4年に東京に移転した。一戸兵衛、中村覚はこの兵学寮時代の生徒である。明治7年から陸軍士官学校となり、翌年に一期生が入校した。好古が入学した頃はフランス式の教育であり、修学期間は歩兵と騎兵が2年、砲兵と工兵は3年だった。明治20年にプロシア式の士官候補生度が導入され、その年の入校生から「1期生」、それ以前は「旧1期〜旧12期」と称されるようになった。
入校生は秋山好古のような師範学校出身者の他、上原勇作、明石元二郎のような陸軍幼年学校出身者、白川義則のような教導団出身者など、その経歴は様々であった。士官候補生度が導入されてからは幼年学校出身者と旧制中学校出身者が多くなり、その中でも幼年学校出身者が厚遇されていたという。
62ページ
寺内正毅
64ページ
本郷房太郎
66ページ
飛鳥山
この 「飛鳥山ニ遊ブ」という題の試験問題が出たという話は、戦前の伝記「陸軍大将本郷房太郎伝」に掲載されている。(
飛鳥山 )
68ページ
青山忠誠
72ページ
あしは騎兵にしますらい
戦前の伝記「秋山好古」では、騎兵科への配属理由は「それが志望に依れるものか、命令に依れるものかは明らかでない」とされている。
73ページ
私学校
74ページ
山県有朋
75ページ
熊本城
曽我祐準
76ページ
肋骨服
胸に肋骨のような紐飾りのついた上衣。